第6話 先輩と、なりたい魔女
「私、毎日ここに来ているから。顔を覚えてくれたのかもね」
子ヤギの柵の前で、マーレ先輩が答えた。
淡い金色の三つ編みが、しゃがんだ膝の上へ落ちている。先輩は空いた手でそれを肩へ戻し、柵の隙間に出していた指を引っ込めた。
子ヤギは鼻をもう少し伸ばしたあと、囲いの奥へ戻っていった。
「毎日来れば、私のところにも来てくれますか?」
「たぶん。いつも大きな音を立てて追いかける人だって覚えられなければ」
チロルが、私の方を見た。
「……明日から、静かに来ます」
「今日、何かあった?」
「ウサギを追いかけそうになりました」
隠す気はないらしい。
先輩は笑ったけれど、笑われたチロルも、すぐに笑った。
「でも、待ってたら箱に入ってくれたんです」
「じゃあ、もう一つ覚えたね。私も最初は逃げられたよ」
先輩が立ち上がり、スカートについた草を払う。
私たちより少し背が高い。黒い上着の袖口には、何度も洗ったらしい柔らかな折り目がついていた。
「名前、聞いてもいい?」
「チロルです。こっちはヴィヴィで、この子はスズ」
チロルが順番に示すと、先輩の目が私の腕へ下りてきた。
スズは、白い胸元を私の袖へ押しつけている。
「寮にも連れてきているのね」
「はい。同じ部屋にいます」
「いいね。私、マーレ。寮も一緒だと思うから、帰り道、付き合ってもいい?」
先輩は小屋の方へ向き直り、ルールさんに声を掛けた。
子ヤギの水は替えたこと、戸も確かめたこと。
ルールさんが手を上げて返事をすると、先輩は私たちと並んで門を出た。
*
校舎の裏から、庭の西側へ続く道を歩いた。
木の葉の影が石畳に重なり、三人の靴がその上を順番に踏んでいく。
スズの耳は、飼育場の方から聞こえる鶏の声に、まだ時々動いていた。
「先輩は、何年目なんですか?」
「三年目。ここは普通、三年通うの。私はこの学期の終わりに卒業の認定を受ける予定」
チロルが歩調を緩めた。
先輩の顔を見上げ、頭の中でその先を考えているみたいだった。
「先輩も、資格を取って魔女になるんですね」
「うん、その認定も受けるの。公認の資格が取れれば、学院の外でも魔法を使う仕事ができるから」
「資格を取った魔女は、魔女たちの財団に入る人が多いの。洪水のあとで井戸の水を調べたり、橋を直したりして、人を助けて回るんだって」
「どんな仕事がしたいですか?」
「私はまず、地元の催しで飾りを作る仕事がしてみたいな。広場を花でいっぱいにしたり、夜の屋台に灯りをつけたり」
マーレ先輩が、道の横の花壇へ目を向けた。
小さな白い花が、葉の間にいくつも咲いている。
「いつも通る場所が、今日はちょっと違うって思えるの、好きなのよ」
「分かります!」
チロルの声が一段高くなった。
「お祭りの日、いつものお店に飾りがついてると、全部入ってみたくなるんです」
「そう。そういうの」
「帽子のお店も、お菓子のお店も」
「結局、買い物なの?」
口を挟むと、チロルは胸を張った。
「お祭りだからね」
理由になっているような、いないような。
先輩は口元に手を当てて笑った。
噴水が見えてきたところで、マーレ先輩が肩掛け鞄を開けた。
小さな紙包みを取り出す。
「食堂まで少しあるし、一つどう? 昨日、家から届いたの」
包みの中には、薄い黄色の砂糖菓子が入っていた。
切った柑橘を、皮ごと煮て乾かしたものらしい。砂糖の粒が、夕方の光を受けて光っている。
チロルは一つもらい、端をかじった。
「……甘い。あ、あとから、ちょっと苦い」
「皮のところがね。母はそれが好きで、いつも入れてくれるんだけど」
先輩は眉の端を下げた。
「私、苦いのは駄目なの。手紙に書いても、まだ子供ねって返ってくる」
「卒業するのに?」
チロルが聞くと、先輩は肩をすくめた。
「卒業しても、嫌いなものは嫌いでしょ」
それには、私も頷いた。
もらった一切れを鼻へ近づけると、果物の酸っぱい香りがした。
腕のスズが鼻を背けたので、チロルに少しだけ抱いていてもらう。
私は菓子の柔らかい中身をかじった。
甘かった。皮まで食べると、確かに苦い。
「中だけ食べたいですね」
「でしょう。でも、それをやると皮だけ残るのよ」
マーレ先輩は、包みの中の一切れを恨めしそうに見た。
チロルが、それを覗き込む。
「私、皮も好きです。よかったら、もう一つください」
「助かる。どうぞ」
先輩は嬉しそうに包みを差し出した。
私が残りを食べ終え、ハンカチで指の砂糖を払うと、チロルは猫を私へ戻した。
それから、もう一切れ取った。
「手紙って、どこから出せばいいんですか?」
私が尋ねると、先輩は噴水の向こうの寮を指さした。
「一階の玄関に、郵便の籠があるよ。宛先を書いて、マイミーさんに見てもらえばいい。朝、駅へ運んでもらえるから」
「毎朝ですか?」
「列車がある日はね。届いた手紙も玄関で受け取るの。私、つい何度も見に行っちゃう」
家から来るのは、苦いお菓子ばかりではないらしい。
先輩は紙包みを閉じ、鞄の奥へ丁寧にしまった。
「じゃあ、明日は忘れずに、皮のないお菓子をお願いしますって書かないと」
そう言って、また笑った。
*
寮の玄関でマーレ先輩と別れ、私たちは二階の部屋へ戻った。
スズに水と魚を用意し、私たちも夕食へ下りた。
私たちの夕食が終わった頃には、窓の外の花壇はすっかり暗くなっていた。
食堂を出た廊下に、ローレンさんがいた。
一昨日、台車を貸してくれた購買の人だ。長い木箱を台へ載せ、通りかかる新入生に、短い杖を一本ずつ渡している。
「明日の道具の授業で使う。忘れずに持ってこいよ」
私たちも、足を止めた。
木箱に並んでいる杖は、授業用の木の杖より短かった。先端には白い石、持ち手には、回せる金属の輪がついている。
チロルが受け取った一本を、手のひらの上で転がして見る。
「これも、魔法の杖ですか?」
「光の杖。中に蓄えてある魔力で灯りをつける道具だ。輪を印に合わせて、先を見ながら『灯れ』。消すときは輪を戻す」
「誰でもつけられるんですか?」
私が聞くと、ローレンさんは頷いた。
「自分の魔法を出す練習とは別だ。備えつけの灯りが使えないときにも役に立つ。説明の紙も読んどけ。部屋で使っていいが、点けっぱなしで寝るなよ」
私の手のひらにも、一本が乗った。
普通の木の杖より少し重い。
ローレンさんは私たちの名前と、持ち手の底に刻まれた番号を帳面へ書いた。
「返すのは、明日の授業が終わってからな」
チロルは杖と説明の紙を大事そうに持った。
私は自分の一本を握り直す。
道具の使い方なら、午前の授業よりは分かるかもしれない。
*
二〇三号室へ戻ると、チロルは机の灯りの下で、案内冊子を開いた。
列車で見せてくれたものだ。
空いたページには、今日も新しい線が増えていた。
「ほら。昨日のお水」
丸い玉の絵の横に、『最初にヴィヴィに見せた』と書いてある。
その下には、杖をまっすぐ出す女の子。
次のページをめくると、なぜか大きな帽子が出てきた。
「これは今日、なかったよね」
「これからの予定」
チロルは椅子を私の机の方へ寄せた。
腰を下ろすと、栗色の髪が肩の上で揺れる。頭の桃色のリボンは外し、今は机の隅に置いてあった。
緑の目は、絵を見ているだけなのに、外を走っているときより元気そうだった。
「この帽子、つばの内側に小さな星を縫いつけたいの。見上げたときだけ見えるんだよ」
「かぶってる本人には見えないんじゃない?」
「だから、見た人だけが分かるの。それで、上着の裾にも同じ星をつけて――」
指が、別の絵へ移った。
細い腰紐のついた上着に、ひらひらした裾。
「これは、箒に乗ったとき、後ろへ広がるようにしたい」
「邪魔にならない?」
「引っかからない長さにする。そこは大事」
チロルは鉛筆を持ち、長すぎた裾の線を短くした。
全部、見た目だけの話かと思ったら、飛びやすさも考えているらしい。
「町の時計塔くらいの高さを飛んで、下から見たら、星が通ったみたいに光って――」
「そんなに高いところへ行くの?」
「初めは屋根より少し上。慣れたらね」
チロルが顔を上げる。
「ヴィヴィは、どんな格好がいい?」
「私は乗らないけど」
「もし乗るなら」
「風が入ってこない上着。それと、落ちない座り方」
チロルは口を少し開けた。
それから私の方へ身を寄せ、ページの端に新しい絵を描き始めた。
襟を高くした、すとんとした形の上着。
「じゃあ、これ。留めるところを増やして、ポケットにも蓋をつけたら、物が飛んでいかないでしょ」
今度は、私が少し驚いた。
からかうために聞いたのではなかったらしい。
「……それなら、寒くはなさそう」
「星、一個だけつけてもいい?」
「一個だけなら」
胸の辺りに、小さな星が描かれた。
下の方の空いたところには、猫も描かれている。
私は、スズの白い胸元が絵にもあることに気づいて、つい笑った。
「帽子は?」
「頭から飛んでいくと思う」
「それは紐で留めようよ!」
チロルは真剣だった。
真剣に、風で飛ばない帽子を考えている。
私のベッドの上で、スズが大きくあくびをした。
『猫は高いところから帰るとき、足で降りるにゃ』
「私は屋根から足で降りないよ」
チロルがベッドを振り返った。
スズは前足を伸ばし、爪を布へ掛けている。
「スズも、一緒に乗れたらいいのにね。籠をつけたらどうかな」
「まず、乗る前に降りると思う」
私が言うと、チロルは猫の絵の下に、小さな籠を描き足した。
スズの顔は、それを見てもいなかった。
「マーレ先輩みたいな飾りも、作ってみたいな」
チロルはページを戻した。
帽子と上着の絵の横に、鉛筆で点を打っていく。
「お花もいいし、小さな光がいっぱい浮かんでてもいい。こう、ぱあっと散って、また集まるの」
片手が開き、指先で空中に丸を描いた。
もちろん、今は何も光らない。
それでも、彼女の目を見ていると、その手の先に何があるつもりなのかは分かった。
「昨日のお水も、きれいだったでしょ」
「うん。丸かった」
「光も、もっといろんな色にしてみたい。使うとき、自分でも嬉しくなるようなの」
「卒業したあとも、その光を使いたい。封印されるのは嫌だもん」
チロルは鉛筆を握り直し、帽子の横へ『明日も練習』と書き足した。
机の端には、二本の木の杖がある。
片方だけ、持ち手に桃色のリボン。
その隣へ、今夜借りた短い杖が一本ずつ置いてあった。
「こっちは何色に光るのかな。明日の授業、楽しみ」
チロルは光の杖へ手を伸ばしかけ、冊子の方へ戻した。
「でも先に、絵を描き終わりたい。家にも、この帽子のこと書くんだ」
私は棚から、持ってきた便箋を取り出した。
紙の束は、まだほとんど減っていない。
「おばあちゃんにも、手紙を書かないと」
「どんな人?」
「薬草に詳しくて、畑があって。近所の人が怪我をしたら手当てをしたり、相談に乗ったり」
「ヴィヴィ、そこを手伝ってたんだね」
「うん。あと、よく昔話をする。自分は魔女だって」
鉛筆が止まった。
チロルが顔を上げ、机の向こうから私を見る。
「おばあちゃん、魔女なの?」
「本人はそう言ってる」
「いいなあ!」
羨ましがられるとは思わなかった。
私は紙の端を揃えながら、少し首をひねる。
「帽子はかぶってないよ。いつも前掛け。箒も、普通に掃除に使ってる」
「薬草をいっぱい並べたおうちなんでしょ。それも、魔女のおうちって感じがする」
「乾かしてると、すごいにおいになるけどね」
「それも知ってみたい」
チロルは、自分の描いた上着へ目を落とした。
「私だったら、着るときはちゃんと前掛けもするな。薬が跳ねたら、染みが落ちなさそうだもん」
憧れの中にも、洗濯の心配はあるらしい。
私はまた少し笑い、便箋に向き直った。
*
おばあちゃんへ。
学院には、一昨日、無事に着きました。
チロルという、十五歳の子と同じ部屋です。
列車で会いました。
「私のこと、書いてる?」
顔を寄せられたので、便箋を少し向けた。
「同じ部屋だって」
「魔女になりたいことも、書いて」
「それは自分の家にも書くんでしょ」
「ヴィヴィのおばあちゃんにも、知ってほしい」
帽子の絵を指さすチロルを見て、続きを書いた。
きれいな光を使う魔女になりたいそうです。
水は一滴だけ、杖の先から落ちました。指に触れたら冷たかったので、拭きました。
浮かべることはできません。同じようにしても、もう出ませんでした。
光はまだ出せません。
チロルの水は、丸い形がうっすら見えました。
先生の水は、よく見えました。水盤へ落ちたとき、教卓も濡れていました。
まだ、よく分からないことが多いです。
「難しい顔になってるよ」
チロルに言われ、眉の辺りへ指を当てた。
「そう?」
「うん。帽子の絵、もう一回見る?」
チロルが開いた冊子を、私の便箋のそばへ滑らせた。
風が入らない上着と、紐で留める帽子。
小さな星の横には、『ヴィヴィ』と書いてある。
「まだ乗らないからね」
「分かってる。もし乗るなら、の予定」
私は絵を戻し、最後へもう一行足した。
帰りたいという話は、今日はしませんでした。
書いてから少し恥ずかしくなったけれど、消さずに残した。
「明日の朝、手紙を出してもいいか聞こう」
「うん。私のも」
チロルは冊子の絵を仕上げ、ようやく自分の便箋を広げた。
私は乾いた手紙を折り、封筒へ入れる。
そのとき、机の灯りが一度、弱くなった。
私は顔を上げた。
ガラスの覆いの中で、光が揺れている。
「今の、風?」
チロルが窓を見た。
窓は、暗くなる前に閉めてある。
カーテンも、動いていなかった。
廊下の向こうで、小さな声がした。
次に、机の上の灯りが消えた。
紙も、鉛筆も、チロルの顔も、暗がりへ沈む。
「ヴィヴィ?」
「いる。机のところ」
ベッドの上で、スズが鳴いた。
『まだ、目を閉じてないにゃ』
私は手を机へ置き、立ち上がった。
廊下の様子を見ようと、扉まで壁を伝って歩く。
少しだけ開けると、隙間から入ってくるはずの明かりもなかった。
「こっちも消えてる」
さっきまで並んで見えていた壁の灯りが、全部暗い。
どこかの部屋で、椅子を引く音がした。
後ろで、チロルが言った。
「ヴィヴィ。さっき、灯りを借りてきたよね」
私は、机の上に置いた短い杖を思い出した。




