第7話 小さな光の夜
「チロル。扉はここまで開けておくから、まず、机の杖を取って」
暗い廊下を覗いていた私は、部屋へ向き直った。
椅子の脚が、床を擦る。
「取った。短い方だよね」
「うん。白い石のついてる方」
チロルの声は、さっきまで絵を描いていた机の辺りから聞こえた。
少し間が空き、小さく金属の擦れる音がする。
「輪を印に合わせて……灯れ」
白い光がついた。
机の角も、椅子の背もたれも、一度に浮かび上がる。
チロルが短い杖を持っていた。先の石が光り、その下には、口を丸く開けた顔がある。
頭のリボンは、まだ机の隅に置いたままだった。
「わあ。ちゃんと、明るい!」
声につられ、ベッドのスズが首を持ち上げた。
光が顔へ向くと、目を細め、前足で鼻を隠してしまう。
『急に朝にするにゃ』
「スズの顔には向けないで」
チロルは慌てて杖を上へ向けた。
天井の梁に、細長い影ができる。
「ごめんね。まぶしかったね」
目を隠している猫へ謝り、今度は床を照らした。
私は扉を大きく開け、いったん自分の机へ戻った。
木の練習用杖の隣にある、もう一本の短い杖を取る。
持ち手の輪には、細い印がいくつか並んでいた。
「説明の紙、どこだっけ」
「これ。明るさを変えたいときは、輪をもう少し回すんだって」
チロルが、机に置いた紙を示した。
明るくするほど、蓄えは早く減る。その下には、消すときは輪を戻すと書いてある。
私は輪を最初の細い印へ合わせた。
白い石を見て、言う。
「灯れ」
石の先に、淡い黄色がついた。
チロルの光の横では、火の消えかけた炭くらいにしか見えない。
「……これ、ついてる?」
チロルは自分の杖を少し離した。
私の石から、指先へ薄く色が落ちる。
「ついてるよ。黄色いね」
「なんだか、ずいぶん小さいけど」
輪を少し先へ回しても、光はあまり変わらなかった。
私は最初の印へ戻し、石を手のひらへ近づける。
爪の形は、ちゃんと分かった。
午前の授業では、光は何も出なかった。
でも、これは借りた道具だ。
自分の魔法を出す練習とは別だと、ローレンさんも言っていた。
説明の紙へ光を向けた。小さな字を追ううちに、黄色が一行の端へ寄った。
ぱち、と音がした。
紙の縁に、針で突いたような切れ目がある。
「あ。破っちゃった」
「輪に引っかけた?」
チロルに言われ、持ち手の金属を見た。紙に近づけすぎたのかもしれない。もう一度照らすと、黄色は手のひらくらいの広さに戻っていた。
「読むところじゃなくて、よかった」
紙を机へ置き、今度は杖を紙から離して、扉の方へ歩いた。
*
廊下には、部屋から顔を出している子が何人かいた。
手に持った灯りが動くたび、壁の影も伸びたり縮んだりする。
足音と、「そっちも?」という声。
階段の方から、マイミーさんの声が届いた。
「備えつけの灯りが止まってるだけだよ。部屋で待っていてもいいし、心細い子は、一階の食堂へおいで。走らずにね」
下の方には、橙色の明かりがあった。
マイミーさんが持っている、油のランプらしい。
寮が全部暗くなったわけではないと分かり、私も少し肩の力が抜けた。
スズは部屋のベッドへ残し、扉を閉めた。
鍵を掛けて、チロルと階段の方へ向かう。
途中の部屋の前で、女の子が座っていた。
濃い茶色の髪を二つに編んで、胸の前へ垂らしている。朝の教室で、私たちの後ろの席にいた子だった。
膝を白い襟元のすぐ下まで引き寄せ、縮こまっている。
右手には光の杖。けれど、その光は壁を照らしたままだった。
「大丈夫?」
チロルが、少し離れたところでしゃがんだ。
女の子は顔を上げ、頷きかけて、やめた。
「……階段、怖くて」
「見えないから?」
「段が、どこで終わるか分からなくなりそう。いつもの灯りなら、平気なんだけど」
膝の上に乗せた手が、袖を握っていた。
自分の杖を動かすと、足元の影も動く。それを見るたび、手首がまた少し揺れた。
「私、チロル。こっちはヴィヴィ。同じ教室だよね」
「うん。ニナ」
小さな声だった。
チロルは、ニナの靴の前へ明かりを向けた。
「いま、ここは見える?」
「……見える」
「立つだけ立ってみる? 階段まで行くかは、それからでいいよ」
ニナは自分の杖を持ち直した。
片手を壁へつけ、ゆっくり膝を伸ばす。
立ってみると、私たちと同じくらいの背だった。
階段のところまで、三人で歩いた。
チロルが前で照らし、ニナがその後ろ、私はすぐ横を歩く。
二階の廊下が階段へ出るところは、長椅子を置けるほど広くなっていた。その踊り場へ出たところで、マイミーさんが上がってきた。
「ニナ、ここまで来られたね」
油のランプが、三人の顔を順番に照らした。
マイミーさんの白い前掛けに、丸い光が揺れている。
「私は奥の部屋の子たちにも声を掛けてくるよ。ここで待っていてもいいからね」
ニナは手すりを見た。
それから、小さく頷く。
マイミーさんは私たちの杖へ目を向け、足元を照らせることを確かめてから、廊下の奥へ向かった。
踊り場の長椅子に、三人で腰を下ろした。
ニナは光の杖を膝へ置き、両手を開いたり閉じたりしている。
チロルは杖を高く持ち、階段全体が見えるよう、輪を少しずつ回した。
白い光が広がる。
手すりの先と、その下に続く段が見えた。
「ほら。一昨日、荷物を運んだところと同じ」
チロルが言った。
ニナは、目で段の端を辿っていた。
私は小さな黄色の石を、膝の近くへ下げた。
そばでチロルの灯りがついていれば、これを高く上げる必要はなさそうだった。
*
ニナがもう一度立ってみようと言ったとき、チロルの光が細くなった。
「あれ?」
チロルが、杖の先を見上げた。
大きかった白い光が、石の中へ戻るように縮んでいく。
次に、消えた。
「……早い」
チロルは輪を一度戻し、もう一度合わせた。
「灯れ」
石は白いままだった。
ニナの杖が、また少し揺れる。壁に映った手すりの影が動いた。
「明るくしすぎたのかな。さっきの紙に、減るのが早いって書いてあったね」
チロルは輪を戻し、つかなくなった杖をスカートのポケットへ入れた。
残念そうな顔をしたあと、私の手元へ目を落とす。
「ヴィヴィのは、まだついてる」
言われて、私も見た。
黄色い光は、さっきと変わっていない。
持ち上げてみると、長椅子の縁と、三人の靴が見えた。
ニナが、少し身を乗り出す。
「そのくらいだと、影が大きくならないね」
「遠くは見えないよ」
「うん。でも、足の置き場は分かる」
私は階段の方へ石を向けた。
初めの段の端が、黄色く見えた。
もう少し下げると、その次の段も分かる。
天井も、廊下の奥も、照らせない。
けれど、足を置く場所なら。
「私が前で照らそうか」
ニナは自分の杖を消してみた。黄色だけが足元へ残る。
「……ゆっくりなら」
「途中で止まってもいいよ。今は急ぐ用事もないもん」
チロルが頷いた。
私は立ち上がり、部屋の方へ顔を向けた。
「その前に、スズも連れてきたい。すぐそこだから、待ってて」
「私が抱くよ。ヴィヴィは照らす方をお願い」
チロルも長椅子から立った。
ニナは頷いて、そこで待っていてくれた。
自分の杖を弱く灯し直し、膝の近くへ下げる。
その小さな光が、長椅子のそばに残った。
二人で二〇三号室へ戻り、鍵を開ける。
スズは、扉の音でベッドの端へ顔を向けた。
杖を机に置いてベッドを照らし、スズをチロルへ渡した。
『人がいっぱい歩いてるにゃ』
「下で灯りがつくのを待つんだって。あなたも一緒に行こう」
チロルは重さに少し肘を下げた。灰色の尻尾が腕の外へ垂れる。
「顔が服にくっついてる。あったかいね」
私は机から杖を取り、部屋に鍵を掛けて、黄色い光を足元へ向けた。
チロルは、スズを胸の前に抱いて、隣を歩いた。
*
踊り場へ戻ると、ニナが立って待っていた。
私の光が近づくと、自分の杖を消して手元へ下げる。
同じ階の別の部屋から来た二人も、少し後ろにいる。
二人は自分の光の杖を下へ向け、互いの靴の辺りを照らしていた。
マイミーさんのランプは、まだ廊下の奥にあった。
私は階段の初めの段の前に立ち、左手を手すりへ掛けた。
右手の杖を下げる。
石の黄色が、木の段の縁を照らした。
「ここ。一段目」
足を置く。
木は、昼と同じ硬さだった。
靴底をしっかり乗せてから、次の段へ明かりを移す。
「ニナ、急がなくていいよ。手すり、持ったままで」
チロルの声がした。
振り返ると、ニナが段の前で止まっている。
チロルはその後ろで、猫を抱いたまま待っていた。
「前が見えないときは、先に行かないでって言って」
私はニナへ言った。
「じゃあ、『待って』で止まることにしよう」
チロルが続ける。
ニナは頷き、手すりを握ったまま、片足を下ろした。
後ろの二人にも、同じことを伝える。
一段。
それから、もう一段。
次の足の置き場だけを照らし、後ろの靴音を待った。
「待って」
ニナの声で、足を止めた。
振り返る代わりに、明かりを同じところへ残す。
手すりを掴み直す音がした。
「……大丈夫。次、行ける」
私は一つ下の段を照らしてから、足を動かした。
後ろから、靴が順番に下りてくる音がする。
チロルが、スズへ小さく何か言っていた。
それを聞いたスズが、にゃあと鳴く。
『下で、いいにおいがするにゃ』
「ご飯は、さっき食べたよ」
私が返すと、後ろでチロルが笑った。
「そうだね。食堂だから、またもらえると思ってるのかな」
スズは、ちょっと長く鳴いた。
足元の光は、変わらなかった。
下り終わったところで、私はやっと手すりから手を離した。
ニナの靴も、最後の段から床へ移る。
チロルが続き、後ろの二人も下りてきた。
「……着いた」
ニナが、少し笑った。
膝を抱えていたときとは、肩の位置が違っていた。
食堂から、温かいお茶のにおいが流れてくる。
「ありがとう、ヴィヴィ」
「うん。段、見えた?」
「見えた。止まってって言ったら、本当に待ってくれたし」
チロルが私の手元を覗いた。
腕の中の猫は、食堂へ顔を向けている。
「ヴィヴィの灯りで、来られたね」
私は短い杖を見た。
派手に広がる光でも、何かを飛ばす魔法でもない。
小さな黄色の灯り。
「道具、ちゃんと使えた」
「うん。私の分も、助かった」
チロルは、灯りの消えた杖が入っているポケットへ、猫の尻尾が触れないよう腕を直した。
私は輪を戻した。
石が暗くなると、指に落ちていた黄色も消える。
ちょっとだけ、もう一度つけてみたくなった。
でも、今は食堂のランプが、私たちの顔をちゃんと照らしていた。
*
食堂の机には、油のランプが何個か置かれていた。上着を羽織った子も、寝間着の子もいる。室内履きの足音がばらばらに重なり、いつもの夕食より小さな声が、低い天井にこもっていた。
私たちは空いた長椅子へ座り、チロルはスズを私の膝へ戻した。温かいお茶の器を持つと、杖を握っていた指がほぐれていく。
ニナが私の隣へ来た。編んだ髪の先を胸の前へ揃え、器の縁を指で撫でている。
「一人で下りるのが怖いなんて、変かな」
「暗いと、階段の幅が変わったみたいに見えるよね」
チロルが言うと、ニナは小さく頷いた。
「うん。それ。昼は、平気なのに」
「私も、先の段まで照らそうとすると、すぐ足元を見失いそうになったよ。照らしてる本人なのに」
私が靴先を見せると、ニナは初めてこちらへ顔を向けて笑った。
「言ってよ。私、後ろにいたのに」
「じゃあ次は、私が『待って』って言う」
ニナは頷いて、自分の器を両手で包んだ。机の下で、さっきまで縮めていた足が少し伸びる。
「きれいな光じゃなくても、嬉しくなるんだね」
チロルが言った。
顔を向けると、彼女は私の膝の猫と、机へ置いた短い杖を見ていた。
「さっき、ニナが下まで来たとき」
「うん」
「でも、私、星がいっぱいの光もやりたいよ」
「知ってる。帽子もでしょ」
「帽子も」
チロルが、今度は声を出して笑った。
夜の食堂には、そのくらいの声がいくつもあった。
やがて、廊下が明るくなった。
壁の灯りが一つずつ戻っていく。
マイミーさんが最後の子たちと降りてきたとき、玄関の方で、重いものを置く音がした。
「ついたか?」
ローレンさんだった。
革の前掛けに、白い粉がついている。手には工具の入った袋。
玄関の壁際に膝をつき、壁へ固定された木の箱の蓋を戻した。
「灯りをつなぐ道具の留め具が外れてた。明日、古いところもまとめて替える」
マイミーさんが、お茶を一つ持っていく。
ローレンさんは礼を言い、私たちの机の杖に気づいた。
「そっちも使ったか」
「はい。私のは、途中で消えちゃいました」
チロルが、ポケットから自分の一本を取り出した。
ローレンさんは、持ち手の底の番号を見て、頷いた。
「明るくすると早く減るからな。明日の授業前に補充しておく。今夜はここで預かろう」
チロルは杖を渡した。
私も自分の一本を差し出す。
「こっちは、足元を照らしただけです」
「それで足りたなら、いい使い方だ」
ローレンさんは二本を、工具袋から出した布に包んだ。
部屋へ戻る頃には、ニナも一緒に階段を上がれた。
いつもの壁の灯りの下で、彼女は私たちへ手を振り、自分の部屋へ入っていった。
二〇三号室の扉を開けると、机には、さっきの絵と便箋がそのまま残っていた。
私は猫をベッドへ下ろし、封筒の横へ小さな紙を置く。
追伸。
光の杖は使えました。道具の灯りで、同じ教室の子と階段を降りました。
「ニナのこと?」
チロルが、自分の椅子を机へ戻しながら聞いた。
「うん。明日も、教室で会うし」
「また隣でやろうね」
それが授業の話なのか、灯りの話なのか。
私は紙のインクが乾くのを待ちながら、頷いた。
*
翌朝、食堂で朝食を済ませた。
スズのご飯と水を用意してから、二人で購買へ寄った。
ローレンさんから、補充された光の杖を受け取る。
底の番号が昨夜と同じことを確かめて、教室へ行った。
ニナが先に来ていて、扉のところで、おはようと言ってくれた。
今朝は杖だけでなく、教科書もちゃんと抱えていた。
授業では、印の位置と明るさ、蓄えの使い方を確かめた。
私の黄色い光は、相変わらず小さかった。
それでも、机の文字を読む分には困らなかった。
授業が終わると、使った杖を購買へ返した。
ローレンさんは回収する木箱の前で、一本ずつ持ち手の底を見ていた。
脇には、細い針のついた小さな測りと、開いた帳面がある。測りには、杖を横に載せる平たい受け台がついていた。
チロルの杖を木箱へ収め、次に私の一本を測りへ置く。
ローレンさんが、針を見て眉を寄せた。
「……ほとんど減ってないな。使ったか?」
「はい。今日も。でも、光は小さかったです」
「そうか。じゃあ、使用が少なかったんだな」
帳面に、番号と、短い文字が書かれる。
――使用少。
ローレンさんは、その一本も木箱へ入れた。
私は空になった手のひらを、握ったり開いたりした。
小さかったけれど。
昨夜の階段の端は、ちゃんと黄色く見えていた。
*
それから、授業と寮の暮らしを繰り返すうちに、二か月余りが過ぎた。
朝の時間割を確かめることも、猫の水を替えてから教室へ行くことも、少しずつ当たり前になった。ニナとは休み時間にも話すようになり、食堂で会えば、空いた椅子を一つ引いてくれる。
祖母へ書いた最初の手紙にも返事が来た。その後も、授業や寮のことを書いて送っていた。
ある日、教室の掲示板に新しい組分けの紙が貼り出された。
新入生の校内めぐり。地図を持って校内の実習館を回り、同じ教室の仲間と話す催しだという。来週の一般授業の時間を使うらしい。
チロルが四人ずつ並んだ名前を見つけた。
「ニナも、一緒の組だよ」
呼ばれたニナが、こちらへ来た。今度は、まだ明るいうちに歩けるねと言う。私は紙の下に描かれた小さな地図へ目を向けた。三人の影が、小さな庭の絵に重なった。




