第5話 猫の言うことを聞きなさい
寮の部屋の鍵を開けると、スズは起きていた。
私のベッドの真ん中に座り、前足をきちんと揃えている。
『遅いにゃ』
「お昼には戻るって言ったでしょ。お昼だよ」
スズは、にゃあと長く鳴いた。
白い胸元を反らし、ベッドの縁へ歩いてくる。灰色の縞模様の尻尾が、ぴんと上がっていた。
「待っててくれたんだね」
チロルがしゃがむと、スズはその膝へ前足を掛けた。
私は鞄を机へ置き、猫の水皿を見る。まだ水はあったけれど、小さな毛が一本浮いている。
「午後、一緒に出掛けるよ。動物の授業」
『ここも動物の部屋にゃ』
「あなたの部屋になった覚えはないんだけど」
スズはチロルの手へ頬をこすりつけた。
聞こえなかったことにする顔だった。
先に水を替えて、二人で昼食を済ませた。
部屋へ戻ると、午前中の教科書は机に置き、午後の実習用の薄い冊子を鞄へ入れる。チロルは靴紐を短く結び直した。
私はスズを抱き上げ、窓が閉まっていることを確かめた。
「今度は、お留守番じゃないからね」
スズが、私の腕へ顎を乗せる。
連れていってほしいのか、歩きたくないのか。
たぶん、両方だった。
*
飼育場は、校舎の裏にあった。
腰くらいの高さの柵で囲まれた庭と、その奥に建つ木造の小屋。屋根の端から、干した草の匂いが流れてくる。
庭の片側には鶏の囲い、もう片側にはウサギの小さな運動場があった。
入り口で待っていた女の人が、私たちを順番に中へ入れた。
背が高く、灰茶色の髪を耳の後ろで短く切っている。厚手の緑の前掛けと、土のついた靴。袖をまくった腕は、少し日に焼けていた。
生徒が通るたび、外の門を閉め直す手つきが早い。
「私はルール。ここの動物の世話をしています。今日は、みんなにも手伝ってもらうよ」
ルールさんは、私の腕の中を覗いた。
「この子は?」
「スズです」
スズが、鼻をひくひくさせる。
『草のにおいがするにゃ。鳥もいるにゃ』
「鳥の囲いには行かないでね」
「最初は、こっちで待っててもらおうか」
ルールさんが示したのは、小屋の壁に沿って置かれた低い台だった。
屋根の陰になっていて、大きな編み籠が乗っている。
「付き添いの動物用。授業中は、この台のそばを離れないように見ていてね」
私が下ろすと、スズは籠の底を前足で二度踏んだ。
中には、柔らかな布が敷かれていた。
『ここならいいにゃ』
「勝手に出歩かないでよ」
丸くなるところまで確かめ、私はチロルの横へ戻った。
今日の実習をする作業台は、猫の台から数歩のところだ。
ルールさんは、庭の中央へ生徒を集めた。
「まず、相手をよく見ること。元気か、怖がっているか。餌を食べるか、水が減っているか。手を出す前に、確かめてください」
チロルが、実習の冊子を開いた。
ウサギの絵の横にある空欄を見て、鞄から鉛筆を取り出す。
「魔法で言うことを聞かせるんじゃ、ないんですね」
近くの子が尋ねると、ルールさんは頷いた。
「最初に覚えてほしいのは、魔法がなくてもできる世話だよ。お腹が空いてる相手に、きれいな光を見せてもご飯にはならないからね」
チロルが少し笑った。
私は、スズの籠を見る。
その話なら、うちの猫も賛成すると思う。
*
二人ずつ、作業台で餌を分けた。
ウサギ用の葉を量り、洗った器へ入れる。水の器も、底に草が残っていないか確かめる。
杖は、鞄に入れたままだった。
チロルは葉を器へ並べ、持ち上げた。
緑の目が、その向こうのウサギを追っている。
「食べるとき、鼻がずっと動くんだね」
「スズも、匂いを嗅ぐときは動くよ」
「でも、こんなに速くない」
運動場の中で、白いウサギが草をかじりながら、小さく鼻を動かしていた。
耳は片方だけ斜めを向き、こちらの音を聞いているらしい。
チロルが近づくと、その耳が真っすぐになった。
「まだ入らずに、その位置で見てて」
ルールさんに言われ、チロルは足を止めた。
器を胸の前へ持ち、しゃがんで待つ。
白い鼻は、しばらくこちらを向いていた。
次に、動物を移すための木箱を見せてもらった。ウサギが一匹入る、両腕で抱えられる大きさだ。
前面が格子戸になっていて、戸は横へ開く。開いた戸を戻らないよう留めるため、戸の端に短い紐がついていた。
「この紐の先に、輪を作ります。引いても輪の大きさが変わらない結び方。できたら、箱の側面の留め棒へ掛けてね」
ルールさんが手本を見せた。
結んだ輪を引いてみても、小さくならない。
棒へ掛けると、格子戸が開いたまま止まった。
見ていると簡単そうだったのに、自分の紐は、引いたらするりと抜けた。
「ここを通す向きが違うね」
ルールさんの指が、私の結び目をほどく。
ゆっくり手本を見せてもらい、もう一度やってみた。
今度は、端を引いても輪が残った。
「できた?」
チロルが、自分の紐を持って顔を寄せる。
彼女の輪は、少し大きかった。
「それだと、棒から落ちそうだね」
「うん。もうちょっと小さくする」
チロルがほどき直している間、私は木箱の中を見た。
底にも、乾いた草が敷いてある。
格子戸を閉じるための掛け金は、外側にあった。
ルールさんが二人の輪を引いて確かめた。ほどけなかった私の紐を、チロルもそっと引いてみる。
「同じ形になった」
彼女の輪は、今度は棒から落ちなかった。
*
声が上がったのは、餌の器を運ぶ練習が始まったときだった。
「あっ!」
白いものが、運動場の小さな戸から飛び出した。
さっきのウサギだ。
器を持っていた子の足元を抜け、庭の中央へ走る。
チロルが立ち上がった。
私も器を作業台へ置いた。
「外の門は閉まってる。みんな、いったんその場で止まって」
ルールさんの声が、すぐに飛んできた。
ウサギの戸を閉め、ほかの子を運動場から離す。
チロルは二歩だけ進み、ぴたりと止まった。
白いウサギがこちらを見ていた。
大きく立った耳。地面へ低く伏せた体。
「追わない方がいいんだよね」
チロルが、小さく言った。
ルールさんは外の門を確かめ、ほかの子たちへ道を空けるよう指示している。
私たちが止まっても、ウサギはすぐには安心しなかった。
横へ跳ね、小屋の脇へ向かう。
積まれた空の木箱と、小屋の壁の間へ、白い尻尾が消えた。
「入っちゃった」
チロルがしゃがむ。
箱の隙間は狭く、手を入れて捕まえるのは難しそうだった。
それに、噛まれたら困る。
私は少し離れたところから、小屋の脇を見た。
木箱の列は、壁沿いに奥まで続いている。向こうの端には草が生えていて、そちらからも出られそうだ。
後ろで、にゃあと鳴き声がした。
『耳の長いの、向こうの草のところにゃ』
振り返ると、スズが籠から顔を出していた。
鼻先が、木箱の列の向こうへ向いている。籠の縁に前足を乗せ、耳をぴくぴく動かしていた。
「草のある方だって。奥まで行ってる」
私はチロルへ声を落として言い、木箱の反対側の端を指さした。
チロルも、そちらを見る。
草の葉が一枚だけ、揺れた。
風で揺れたにしては、周りの葉が動いていない。
「ほんとだ。じゃあ、こっちから手を入れない方がいいね」
チロルが膝を伸ばし、箱から少し離れた。
さっきの勢いは、もうなかった。
逃げた場所を見ながら、駆け寄りたいのをこらえている。
「一方を空けて、出てくるのを待つといい」
ルールさんが、私たちの横へ来た。
小屋の壁と木箱の間を確かめ、作業台を指さす。
「ヴィヴィは、こちらの入り口を板で塞いで。足や指を隙間に入れないようにね。チロルは、移動用の箱を草の方へ置いてみて」
私は台にあった短い板を取り、ウサギが入った側へ戻った。
板を壁と木箱の間に立てて押さえる。
これで、こちらへは出られない。
箱の列の外側を回ったチロルが、草のある反対側で、さっきの木箱を地面へ置いた。
格子戸を開き、紐の輪を留め棒へ掛ける。
輪を引いて確かめる手つきが、練習のときより早かった。
「餌、入れてもいいですか?」
「いいよ。奥に少しだけ。手前には置かないでね」
チロルが、器に残っていた葉を木箱の奥へ置いた。
開いた戸が、小屋と木箱の隙間の出口を向いている。
「ここで待てばいいんだね」
チロルは箱の横へしゃがみ、手を膝の上へ置いた。
ルールさんも少し下がり、ほかの子に静かに見るよう合図する。
私は板を押さえたまま、草の方を見た。
何も出てこない。
チロルが葉へ目を向け、また隙間を見る。
スズも、籠の縁から鼻先だけ出していた。
『そこで、ちいさい音がするにゃ』
耳を澄ます。
私には、干した草の擦れる音と、遠くの鶏の声しか分からない。
でも、スズの耳は、同じ方向を向いていた。
私は板の位置を変えなかった。
チロルにも、それ以上近づくなとは言わなかった。
彼女は、もう動いていなかったからだ。
白い鼻が、草の間から出た。
次に、長い耳。
チロルの手が、ほんの少し浮いた。
そして、また膝へ戻った。
ウサギは開いた格子戸の前で止まり、鼻を動かした。
葉の一枚へ口を伸ばす。
前足が箱へ入り、後ろ足も続く。
短い白い尻尾が、戸の内側へ入った。
チロルが紐の輪を棒から外した。
ゆっくり格子戸を戻す。
ルールさんが手を添え、外の掛け金を留めた。
「はい。戻ってもらえたね」
その声で、私もようやく板から手を離した。
チロルは戸の向こうを覗き、両手を膝へ置いたまま、大きく息を吐く。
「……待つの、長かった」
「よく待てたよ」
ルールさんが言った。
チロルは少し照れたように、鼻の横を指でこする。
その指に土がついていたので、頬にも小さな茶色い跡が残った。
*
「最初、走ろうとしてたでしょ」
板を作業台へ戻しながら言うと、チロルは素直に頷いた。
「うん。逃げたら追いかけなきゃって、足が動いちゃった。でも、ウサギの耳がぴんってなったから。近づいたら、もっと走りそうだなって思って」
チロルは移動用の箱を運動場の前へ運ぶのを手伝った。
ルールさんが運動場の戸を少し開け、箱の戸と向かい合わせる。ウサギは自分から中へ戻り、仲間のそばへ走った。
戸を閉めたあと、ルールさんが掛け金を二度確かめる。
「止まれたのがよかったよ」
ルールさんが言うと、チロルは逃げたウサギの耳を、今度は柵越しに見た。
「次は、最初から追わない」
チロルが、冊子の空欄へ書き込んだ。
その下に、小さなウサギの耳を描いている。
「それ、何?」
「怖がってたときの耳。覚えとく」
私も耳の向きと戻した方法を書き、スズの籠へ戻った。
丸まっていたスズが目を開ける。
「助かったよ。ありがとう」
『猫の言うことは聞くにゃ』
「今日は、ちゃんと聞いたでしょ」
スズは目を細め、また顎を籠の縁へ乗せた。
「スズも、よく見てたね」
後ろから来たチロルが、スズと木箱の列を見比べた。
「ヴィヴィが場所を教えてくれたから、すぐ分かった」
「この子の方が、先に気づいてたんだけどね」
チロルは、籠の縁にある前足を指で軽く撫でた。
スズが、短く鳴く。
私は籠にいる猫の、飼育場の匂いがついた背中を一度撫でた。
*
片づけを終えると、ルールさんが人数と動物の数を確かめ、門を開けた。
私はスズを籠から抱き上げ、チロルは二人分の冊子を持った。
外へ出ようとしたところで、チロルが足を止めた。
「あの子、逃げないんだね」
目で追っているのは、飼育場の隣にある子ヤギの囲いだった。
ひとりの女の子が、その前でしゃがんでいる。
私たちと同じ黒い制服。
けれど、少し年上に見えた。
淡い金色の長い髪を一本の三つ編みにして、肩から前へ流している。
手は伸ばさず、膝の上に置いていた。
子ヤギが、ゆっくり柵へ近づいた。
女の子は、その鼻先が届くところへ、そっと指を差し出す。
「ああ、マーレだね。最上級生。よく世話を手伝ってくれるんだよ」
片づけに戻ろうとしていたルールさんが、教えてくれた。
チロルは、その女の子をしばらく見ていた。
自分の頬についた土へようやく気づき、私の方を向く。
「どっちについてる?」
「左。そこで拭くと、もっとつくよ。手も汚れてるから」
チロルはポケットからハンカチを出し、頬を拭いた。
それから、冊子を私の鞄へ入れてくれる。
「ちょっと、話しかけてみたい」
私は頷いて、猫を抱き直した。
チロルが近づくと、三つ編みの女の子が顔を上げる。
「こんにちは。新入生?」
穏やかな声だった。
チロルは背筋を伸ばし、はっきり頷いた。
「はい! あの、さっきの子、どうやったら自分から来てくれるんですか?」
マーレ先輩は、柵の向こうを見て笑った。
私の腕のスズも、鼻先をそちらへ向ける。
午後の授業は終わった。
でも、チロルの質問は、まだ終わらないらしかった。




