第4話 私の魔法はどこですか
翌朝、基礎魔法の教室に入ると、教卓の水盤は片づけられていた。
席について、教科書の水のページをもう一度開く。
昨日は、一滴だけ水が落ちた。そのあと同じようにしても、何も出なかった。机へ置いた杖の先を見ても、あの小さな光はない。持ち手の溝へ指を合わせながら、何をしたときに光ったのか、もう一度考えた。
「昨日、指は痛くならなかった?」
チロルに聞かれ、私は持ち手から手を離した。
「大丈夫。少し疲れただけ。授業まで、廊下に出ようかな」
「私も行く」
教科書と鞄を席に残し、二人で廊下へ出た。
窓が開いていて、風が通る。頬に掛かった黒髪を耳の後ろへ押し込むと、少しだけ涼しくなった。
チロルは窓の向こうへ顔を向けた。
庭の木が揺れている。リボンの下の栗色の髪も、同じ風に揺れた。
「次は、光だね」
「うん」
「水とは違うから、やりやすいかもしれないよ」
私は、何をもってやりやすいと言うのか考えかけた。
でも、チロルもまだ習っていないのだ。
今日の魔法の授業を楽しみにしている声が、少し控えめになっている。それが、昨日の私を気にしているからだと分かるくらいには、もうこの子の声を聞いていた。
「チロルは、光の方が好きそう」
言うと、すぐに顔がこちらを向いた。
緑色の目が明るくなる。
「うん! 飛ばせるんだよね。きらきらって、手の先から」
「杖の先じゃない?」
「そう。杖の先から」
チロルは空の手を少し上げ、窓枠にぶつかる前に引っ込めた。
今度は、ちゃんと場所を確かめている。
「……でも、まずは先生の説明を聞く」
「その方がいいと思う」
授業を知らせる鐘が鳴った。
チロルは私より一歩先に歩き出し、教室の扉のところで待ってくれた。
*
「今日は机を動かすところから始めましょう」
教室へ入ってきたロール先生は、窓側と廊下側の壁を順番に指さした。
机と椅子を左右へ寄せて、真ん中に練習する場所を作るのだそうだ。
教科書や鞄を落とさないよう、まずは棚へ移す。
チロルが私の分まで持とうとしたので、私は二冊の教科書を受け取り、棚へ置いた。
「机は、片側ずつ持った方がいいよ」
「あ、そっか」
チロルが窓側へ回り、私は通路側を持つ。
合図して持ち上げると、机は思ったより簡単に動いた。
一昨日の台車より、ずっと軽い。
空いた床に、先生が白墨で印を描いた。
向かい合う二つの四角と、その間を結ぶ線。
それが教室の中央に、何組分か並ぶ。
「二人ずつ、四角の中へ立ってね。一方が光を飛ばし、もう一方は、それがどこへ届いたか見てあげてください」
私とチロルは窓側に近い一組を使うことになった。
棚から杖と教科書を取り、互いに向かい合う。
間は、二歩ほど。
白い線は、私の足元からチロルの茶色い短靴へ伸びていた。
チロルは持ち手のリボンを一度確かめ、杖を右手に握った。
私の教科書は、そばへ寄せた机に置いてある。
「最初は相手の胸元を目印にしましょう。小さな光を一つ思い浮かべ、杖を向けて、まっすぐ進ませます」
先生が黒板に、丸い光と矢印を描いた。
その下へ、呪文を書き足す。
――光よ、進め。
「人に向けるんですか?」
後ろにいた男の子が聞いた。
先生は頷き、黒板に『安全結界』と書いた。
「ここの練習魔法は、当たっても痛くありません。光が体を通り抜けるように見えることもあるけれど、心配しなくて大丈夫。まずは、お互いに見て覚えるための練習よ」
杖を持つ手が、少し下がる。
人に向けていいと言われても、いきなりは落ち着かない。
チロルも、私の胸元と杖の先を見比べていた。
「じゃあ、まず私から……でいい?」
「うん。見る方をやる」
私は杖を下げた。
チロルが、床の四角の中で足の位置を変える。
背筋を伸ばし、右手をこちらへ向けた。
「光よ、進め」
杖の先に、淡い色が集まった。
小さな丸い輪郭が、ふわりと離れる。
見えた、と思ったときには、もう近くに来ていた。
光は私の胸元へ届き、黒い上着の中へ沈むように消えた。
私は思わず、息を止めた。
何も起きなかった。
押された感じも、熱さもない。
袖も、スカートも、動いていなかった。
「ヴィヴィ、大丈夫?」
チロルの声で、顔を上げた。
彼女は杖を下ろしかけている。
「痛くない?」
「……うん。何も」
胸元を触ってみた。
指に当たるのは上着の布と、その下の銀色の留め金。
朝、着替えたときと同じだった。
「私の後ろまで行った?」
「行ったよ。体の向こうに出て、それから消えた」
振り返っても、光はもうなかった。
壁に掛かった時間割が、普通に見えるだけだ。
「……本当に、通り抜けるんだ」
「先生が言ってたとおりだね」
チロルがようやく笑った。
安心した顔を見て、私も胸元から手を離す。
不思議なものを見たはずなのに、当たった感じがしない。
見ていなかったら、どうやって当たったと分かるんだろう。
「どんな光だった?」
チロルの質問に、私は向き直った。
「丸くて、薄い色で……まっすぐだったと思う」
「金色だったでしょ?」
「色は、そんなにはっきり分からなかった」
チロルは少し首をかしげた。
でも、すぐに杖を握り直す。
「もう一度やるね。今度は、よく見てて」
二度目の光は、少し高かった。
私は動かずに見ていたけれど、丸い輪郭は肩の辺りを通り過ぎた。
「右の肩。ちょっと外側」
「あれ、胸を見てたんだけど」
チロルが、自分の手元を見る。
先生は組と組の間を回りながら、ほかの組にも声を掛けていた。
近くの子の光は床すれすれへ飛び、見ていた相手が慌てて足元を確かめている。
「目を向けたところへ、必ず飛ぶわけではありません。腕の向きも、落ち着いて確かめてね」
先生の言葉を聞いたチロルは、頷いた。
私は、光が出てくる直前の彼女の手を見ていた。
呪文を言うとき、手首だけが少し横へ流れる。
光も、その方向へずれていた。
「少し、腕を止めてみたら?」
「止める?」
「振って飛ばすんじゃなくて、向けたまま言うの。先生の矢印、まっすぐだったし」
チロルは黒板を見た。
それから私に杖を向け、手首を確かめる。
「こう?」
「うん。そこから、動かさないで」
光が飛んだ。
今度は、さっきより輪郭を追いやすかった。
丸いものが胸元へ近づき、また布の中へ消える。
「いま、胸の真ん中だったよ」
チロルが、ぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
「よしっ」
チロルは空いた手を小さく握った。
最初に水を出したときより、声が少し強い。
自分で直せたのが嬉しいらしかった。
*
「それでは、交代しましょう」
先生の声で、チロルが杖を下ろした。
私も自分の杖を右手へ持ち直す。
見る場所は、決まっている。
チロルの胸元には、私と同じ銀色の留め金があった。
黒い布の上で、小さく光っている。
「ここを見ればいいんだよね」
「うん」
杖を向ける。
手首を動かさない。
小さな光を思い浮かべる。
「光よ、進め」
チロルは、杖の先から目を離さなかった。
私も、同じ場所を見ていた。
何も出ない。
教室のあちこちで、ほかの子の呪文が聞こえた。
淡い丸いものが動くたび、相手が場所を教えている。隣の組では、まだ光が出ない男の子に、見る役の子が「腕はまっすぐだよ」と声を掛けていた。
「肘、先生に直されたときの高さにしてみる?」
チロルの提案に、私は頷いた。
腕を少し下げる。
制服の袖口から、生成りのカフスが覗いた。指を伸ばして、持ち手の溝へ合わせる。
「光よ、進め」
私はチロルを見た。
彼女はまだ、私の杖を見ている。
昨日の水の呪文より、ずっと簡単だった。
水の形を考える必要もない。
光なら、窓からでも入ってくる。寝る前のランプでも、毎晩見ていた。
なのに、出ない。
「あら。どこかでつまずいたかしら」
ロール先生が、私たちのそばへ来た。
杖の持ち方を見て、足元の四角へ目を落とす。
「向きは、それでいいわ。まずは、一つだけを思い浮かべてね」
先生の杖が、黒板の丸を示した。
私はもう一度試した。
チロルの上着には、何も届かなかった。
「……出て、ないですよね」
「まだね。焦らずに、少しずつ」
先生は私の杖を押さえたりはしなかった。
ただ、隣で練習している組へ目を向ける。
「見る役も大事なの。ヴィヴィは、チロルの腕の向きをよく見ていたわね。交代で休みながら、手順を覚えていきましょう」
先生が離れたあとも、私は杖を下ろせずにいた。
何も出ない杖の先を見ていると、さっきからずっと待ってくれているチロルの顔が浮かんだ。
昨日は、一滴だけ。
今日は、そのくらいの小さな光も出ない。
「チロル」
「なに?」
「ほかの子と組んだ方が、練習になるんじゃない?」
言ってから、杖を下げた。
向かいの顔が、少し不思議そうになる。
「……私が、嫌だった?」
「そうじゃなくて」
すぐに言ったつもりだったのに、チロルはリボンへ伸ばしかけた手を引っ込めた。隣の組で「当たった!」と声が上がる。その明るい声が、私たちの間だけを素通りしていった。
「一粒しか出ない人の前で、ずっと待ってなくてもいいってこと」
「次なら、できるかも――」
チロルは言いかけて、口を閉じた。私の杖の先を見て、少し眉を寄せる。
「ごめん。まだ習ったばかりだし、私にも分かんない」
私は、下げた杖を膝へ当てた。慰めてほしくて言ったのか、放っておいてほしくて言ったのか、自分でもうまく決められなかった。
「私、いま、練習してるよ」
「でも、自分が飛ばした光を見るだけでしょ。私からは何も来ないし」
チロルは私の右肩を見た。
さっき光が通った場所だ。
「ヴィヴィが言ってくれなかったら、さっきの、ちゃんと当たったと思ってたよ」
私は返事をしなかった。
それくらいなら、できる。
見えているものの場所を、言っただけだ。
「それに、腕が動いてるのも、自分では気づかなかった」
「……そうだけど」
チロルは、持ち手のリボンに触れた。
片方だけ少し傾いていた輪を、指で起こす。
「一昨日の台車だって、私が押せばいいと思ってたところ、ヴィヴィが荷物を降ろそうって言ってくれたでしょ」
「魔法とは関係ないよ、それは」
「うん。台車だった」
そこはあっさり認めた。
「でも、一緒にやるのは同じだよ」
チロルが、四角の中へ足を戻した。
まっすぐ立つと、膝下のスカートが静かに揺れる。
「いまは、私が飛ばして、ヴィヴィが見る。そのあと交代して、今度は私が見る。どっちも練習だよね」
私は下ろした杖を見た。
チロルは、できるようになると言い直さなかった。代わりに、自分の手首をこちらへ見せている。
「……じゃあ、もう一回、腕の向きを見る」
「うん!」
チロルが姿勢を直した。
私も、足元の四角へ視線を落とす。
いつの間にか、線の端を踏んでいた。半歩だけ内側へ戻る。
向かい合う場所が決まると、見る場所も決まった。
*
練習の後半には、記録をつけることになった。一人に一枚ずつ紙が配られ、見る役が相手の分を書く。
私は配られた紙へ、チロルの名前と、届いた場所を書いた。右肩、胸元、胸元。その下へ『手首を横へ動かさない』と足す。
「ちゃんと、そろってきた」
チロルが覗き込み、教科書を開いて紙を挟んだ。余白には、小さな丸と矢印。列車で見た帽子の絵と同じくらい、丁寧な線だった。
交代した私の記録紙には、『まだ見えない』。次の欄には、『腕はまっすぐ』と書いてくれた。
「これだけ、褒めてもらっておこうかな」
「これだけ、じゃないよ。私、さっき直してもらったもん」
先生が二枚を確かめ、帳面へ書き込んだ。私の名前の横に、『感応』の二文字が見えた。
チロルは私の記録も隣のページへ挟み、教科書を両手で押さえる。
「部屋で、もう一回見ようね」
今日、私の杖から出たものは一つもない。それでも、この二枚を置いて帰ろうとは思わなかった。
*
机を元へ戻す合図は、もう決めなくても揃った。
先生が黒板の端へ、午後の授業を書き足した。
――飼育場実習。
「午後は動物の世話です。場所は校舎の裏、柵のある建物。初めてだから、動きやすい靴で来てね」
「そこでは、どんな魔法を使うんですか?」
チロルが尋ねた。
先生は笑って、教科書を閉じた。
「最初は使わないわ。餌や水を用意して、相手の様子をよく見るところからよ。寮で小動物を飼っている子は、今日の実習に連れてきても構いません。ただし、飼育担当の指示があるまでは、抱いているか籠に入れておいてね」
チロルが、こちらを見た。
「動物なら、ヴィヴィ、詳しそうだね」
「猫しか分からないよ」
「じゃあ、スズも連れていけるね」
「うん。まずは、起こさないようにね」
「それ、いちばん難しいかも」
何も出なかった杖を鞄へしまい、私はチロルと教室を出た。




