第3話 はじめての魔法
目を開けると、知らない天井があった。
白い漆喰に、一本の太い梁。窓から入る朝の光が、壁の途中まで伸びている。
体を起こしかけて、右腕が動かないことに気づいた。
スズが乗っていた。
『まだ寝てていいにゃ』
「あなたの枕じゃないんだけど」
灰色の縞模様をそっと押しのけると、スズは不満そうに鼻を鳴らした。
空いた腕を揉みながら、窓の向こうを見る。校舎の屋根と、庭の噴水。
ああ、そうだった。
私は昨日、魔法学院に来たのだ。
向かいのベッドでは、チロルが毛布にくるまっていた。
ベッドのそばの机に、桃色のリボンをつけた杖が置いてある。頭のリボンはその隣で、外したときの形のまま丸くなっていた。
先に起きた方が、もう片方を起こす。
昨日した約束を思い出し、私はベッドを降りた。二つのベッドの間を渡り、毛布から覗いた肩に触れる。
「チロル。朝だよ」
「……うん」
茶色の髪が動く。
返事はあったけれど、目は開かない。
「初授業、遅れてもいいの?」
目が開いた。
次に、毛布が跳ね上がった。
「いま何時!?」
「まだ間に合うから、落ち着いて」
ベッドから降りようとしたチロルは、そこで足を止めた。
枕元へ顔を向け、両手で髪を押さえる。片側だけ、耳の上で大きくはねていた。
「……魔女の初日なのに」
「生徒の初日ね」
「どっちでも、これじゃ困るよ」
困り方が、少しだけ普通の女の子に戻った。
*
髪を梳かして、制服を着て、二人で食堂へ降りた。
チロルの頭には、もう桃色のリボンがきちんと結ばれている。
食卓の長椅子に並んで座ると、黒い上着の袖が触れた。昨日より少しだけ、その服が彼女に馴染んで見えた。
「夜、眠れなかったの?」
「ちょっと。杖を見てたら、明日のこと考えちゃって」
「それで、朝になったわけね」
「ちゃんと寝たよ。途中からは」
マイミーさんが、籠に入ったパンを置いてくれた。
湯気の上がるお茶と、ゆで卵も並ぶ。
「お腹は空いてるかい?」
マイミーさんに聞かれ、私は頷いた。
「それなら、ちゃんと食べていくんだよ。午前中、長いからね」
チロルはお茶を一口飲んで、パンにかぶりついた。
食事を済ませて、いったん部屋へ戻った。
スズの水を替え、マイミーさんからもらった猫の朝ご飯を皿へ入れる。
スズはベッドを降りると、もう私たちには見向きもしなかった。
「お昼には戻るからね」
返事の代わりに、尻尾の先がゆっくり揺れた。
窓を閉め、教科書と杖を授業用の鞄へ入れる。
部屋の鍵を掛けると、チロルは扉を一度振り返ってから、私の横に並んだ。
「行こう」
階段へ向かう足取りが、さっきより速い。
私も鞄の紐を肩へ掛け直した。
*
基礎魔法の教室は、校舎の一階にあった。
廊下の窓から庭を見ながら進むと、開いた扉の向こうに、二人掛けの机が並んでいる。
前には黒板。教卓には、大きな浅い水盤が置かれていた。
それを除けば、案外普通の教室だ。
石の壁は明るく、窓の下には暖房用らしい太い配管が通っている。まだ暖める季節ではないのか、配管は冷たそうだった。
私たちは、窓側の前から二番目に座った。
チロルが窓側で、私が通路側。
大きな旅の鞄は部屋に置いてきたので、足元はずいぶん広い。
前の席の男の子は、もう杖を握っていた。
後ろでは女の子が二人、教科書の挿絵を指で辿っている。空中に浮かぶ、水の玉の絵だった。
「どこから水を出すんだろうね」
私も自分の教科書の同じ絵を見て言うと、チロルが顔を寄せた。
「きっと、魔力で作るんだよ」
「魔力って、何をしたら分かるの?」
「それを今日、習うんだよ」
今のところ、それがいちばんまともな答えだった。
「はーい。おはよう、みなさん」
教室の扉が、大きく開いた。
ロール先生が緑色の上着を揺らして入ってくる。蜂蜜色の巻いた髪は、今日も高いところできちんとまとまっていた。
片手に教科書、もう片方に細い杖。
先生の杖にはリボンではなく、銀色の輪がはまっている。
「昨日はよく眠れたかしら? 新しいベッドって、落ち着かないものね」
後ろの方で、あくびを隠していた子が手を下ろした。
先生は笑いながら教卓へ本を置き、黒板に大きく『水』と書いた。
「最初の授業は、水を集める魔法です。浮かべて、形を保って、それから終わらせる。今日は、この三つを練習しましょう」
「水は、形が崩れたところを目で確かめやすいので、最初の練習に使います」
チロルの背筋が伸びた。
杖を机の上へ置き、両手を膝に揃える。
見たことがないくらい、ちゃんとした生徒の姿だった。
「学院の教室には、安全結界が掛かっています」
先生は黒板の文字の下へ、もう一行書き足した。
――安全結界。
「練習の魔法で人が怪我をしたり、机や服がびしょ濡れになったりしないように、魔法の効果を抑えてくれる仕組みよ。初めての子も、怖がらなくて大丈夫」
「魔法を使ってよいのは、学院が管理する練習場所で、許可された課題をするときだけです。人へ向ける練習も、先生の許可を待ってください」
どこかで、ほっと息を吐く音がした。
私は机の表面を見た。
細かな傷はあるけれど、水で膨らんだような跡はない。
最初から濡れないようにしてあるなら、便利なのだろう。
「ただし、先生が実演する教卓の水盤の上は、結界の働きを変えてあります。ここでは本当に水が落ちるから、後で触ってもいいわよ」
先生は黒板の前から、水盤の横へ移った。
白い袖口が、教卓の上へ伸びる。
「では、お手本を見せますね」
細い杖が、盤の上で小さな円を描いた。
「水よ、集まれ」
教室が静かになった。
誰かの笑い声まで、途中で止まる。
杖の先の、何もないはずの空間。
そこに、小さな水の粒があった。
最初は、朝露くらいだった。
それが、見る間に大きくなる。豆粒から、ぶどうの粒。さらに、手のひらに乗るくらいの大きさへ。
透明な玉の向こうで、先生の緑色の上着が曲がって見えた。
先生が杖を右へ動かす。
水の玉も動く。
窓からの光を受けて、表面を白い点が滑っていった。
「……わあ」
隣から、ほとんど息だけの声がした。
チロルの両手は、膝の上で握られている。口を少し開け、目を離さずに玉を追っていた。
私も、同じものを見ていた。
薄い板や糸がついている様子はない。
水は丸いまま、先生の胸の高さで浮いている。
「形を保てたら、最後は手放します」
杖が下がった。
水の玉も下がり、盤のすぐ上で形を崩す。
ぱしゃっ。
水盤から、何滴か水が跳ねた。
教卓の端に、色の濃い点ができる。先生は用意していた布で、その点を拭った。
「はい。これが今日の魔法です」
教室のあちこちから拍手が起こった。
チロルも両手を打ち合わせている。
「すごい。ほんとに、浮いてた……!」
私は手のひらを机へ置いたまま、空になった空間を見ていた。
どこから水が来たんだろう。
水盤には、最初は何も入っていなかったはずだ。
机の下に配管があるのかもしれない。でも、それで空中に浮くものだろうか。
「ヴィヴィ、見た?」
「……見た」
「私たち、あれをやるんだよ」
チロルが自分の杖に触れた。
握りかけた指を一度開き、持ち手に沿わせて、もう一度握る。
私はまだ、教卓の濡れたところが気になっていた。
仕掛けなのか、本当に魔法なのか。
もう少し、近くで見てみたい。
*
先生は黒板に、三つの手順を書いた。
杖を握る。集める場所を見る。丸い水の形を思い浮かべて、呪文を唱える。
説明は、思っていたより短かった。
指の置き方を確かめている間に、もう練習が始まる。
「まずは隣の子と、片方ずつやってみましょう。見る方は、どこに浮かんだか教えてあげてね」
チロルが私を見た。
私が頷くより先に、杖が机の上へ出てくる。
「先にやっていい?」
「うん。私は見てる」
チロルは机の真ん中から、教科書をどけた。
私も自分の本を端へ寄せる。
何もない木の板の上へ、窓の光が細長く落ちていた。
桃色のリボンが、小さく揺れる。
「水よ、集まれ」
チロルの声は、思っていたより落ち着いていた。
杖の先を見つめる目だけが、少し強張っている。
私は机の上を見た。
何も――。
いや。
空中に、水の玉らしい丸い輪郭が浮かんでいた。
その輪郭の内側では、向こうの机が少しだけ揺らいで見える。
しゃぼん玉の薄い膜を、もっと薄くしたようなものだ。
窓の方へ目をずらすと、輪郭が消えかける。少し顔を戻すと、また見えた。
「できた」
チロルが小さく言った。
次に、私を見た。
「できたよ、ヴィヴィ!」
杖が跳ね上がりかけ、チロルは慌てて手首を止めた。
顔を近づけてきたのに、右手だけは机の上へ残している。
消してしまいたくないらしい。
「ほら、ここ! 私の、初めての魔法!」
机の中央を、空いた左手で指さす。
机の少し上に、薄い輪郭はまだあった。
「……うん。丸いのは分かる」
「きらきらしてるでしょ?」
私は顔を少し傾けた。
光が当たっている気はする。
でも、先生の水ほどはっきり見えない。
「先生のより、薄くない?」
「そう? 小さいからかな」
チロルは水の玉を見直した。
それから、また私を見る。
「でも、出たんだよね」
確かめるような声だった。
私は、その透き通った玉の輪郭をもう一度見た。
「うん。そこには見える」
チロルの頬が、ゆっくり緩んだ。
さっきまで結ばれていた口が、笑う形になる。
列車で、最初に見せると約束してくれた魔法。
私は、いまそれを見せてもらっている。
「いい丸だね。歪んでない」
思いついた感想は、それだった。
チロルは一瞬目を丸くして、それから声を立てずに笑った。
「なんか、パンの形を褒めるみたい」
「だって、丸いのが課題なんでしょ」
「そうだね。じゃあ、合格かな」
右手は相変わらず、机の上から動かさない。
先生に声を掛けてもらうまで、そのまま眺めていたいようだった。
前の席でも、男の子が「出た!」と叫んだ。
廊下側の机では、女の子が小さな玉を友達に見せている。
私には、どちらもチロルの水と同じくらい薄く見えた。
けれど、玉が浮いている机は、まだ数えるほどしかなかった。
後ろの女の子は何度も持ち手を握り直し、何もない杖の先を覗き込んでいる。隣の子が「私も出ない」と言うと、二人で教科書を開き直した。
反対側では、小さな粒が見えた途端に消え、男の子が「ああ、もうちょっとだったのに」と肩を落としていた。
「きれいな球になったわね、チロル。初めてでここまで保てるのは、よくできていますよ」
机の間を回っていたロール先生が、足を止めた。
チロルは顔を上げたくせに、すぐまた自分の水へ視線を戻した。
「ありがとうございます。これ、動かしてもいいですか?」
「まずは保つ練習ね。慌てると崩れるから」
先生は私の方へ、目を向けた。
「ヴィヴィは、もう試したかしら?」
「まだです」
「では、交代してみましょう。チロル、杖を少し下げて、終わりを思い浮かべてね」
チロルは名残惜しそうに、水の玉を見た。
その表情を見て、私はなぜか、手を伸ばしかけた。
せめて一度、ちゃんと水かどうか確かめておきたかった。
でも、私の指が届く前に、輪郭がほどけた。
小さな粒のようなものが、机へ向かって落ちる。
私は、思わず手を引いた。
机は、乾いたままだった。
「……濡れないんですね」
「安全結界が働いているからね。形は見えても、机や服には影響しないの」
先生は、黒板の文字を杖で示した。
私もそれを見直す。
最初に説明されたことなのに、実際に見ると変な感じがする。
後ろの席で笑い声がした。薄い水の筋が、隣の子の肩へ飛んで、ほどける。
「わっ。……当たったのに、痛くない」
向けられた子が肩を撫で、杖を持つ子が笑った。
「安全結界があるからよ。でも、人へ向けていいとは言っていません。杖を下げて」
ロール先生の声に、笑いが止まった。
「ヴィヴィのも見たい」
チロルが、少し机の端へ寄った。
空けてくれた場所に、私は杖を出した。
*
右手で、持ち手を握る。
水を集める場所を見る。
ここまではできた。
次は、丸い水の形を思い浮かべる。
丸い水。
丸い水って、なんだ。
水は器に入れたら器の形になる。こぼしたら広がる。
さっき先生が見せてくれたものを、そのまま思い出せばいいのだろうか。
「水よ、集まれ」
机の上は、変わらなかった。
私は杖を少し動かした。
チロルも一緒に目を動かす。
何もついてこない。
「……もう一回やってみる?」
私は頷いた。
持ち手を握り直して、同じ呪文を言う。
やっぱり、何も出なかった。
失敗したからといって、驚くことはない。
私は昨日まで、木の棒を振ったら水が出るなんて、考えたこともなかったのだから。
後ろでも、まだ何も出ないと話している。私だけができないわけではない。それでも、チロルと顔を合わせにくかった。
私は机の上から目を離さず、杖の溝に人差し指を合わせ直した。
「手は、それで合ってるわ」
先生が、私の肘の位置を少しだけ直した。
「力を入れすぎないで。水はつかむものではなく、集めて留めるものだと思ってね」
言われたとおり、指の力を抜く。
先生のお手本を思い出す。
丸い、水の、玉。
「水よ、集まれ」
隣の机で、歓声が上がった。
そこに浮いた丸い輪郭を、私も見てしまった。
私の机には、なかった。
「初日は、持ち方と集める場所を覚えられれば大丈夫。球にして保つところまで進めた子は、早い方よ」
先生は穏やかな声で言った。
「魔力を感じ取る力にも、個人差があります。授業では、それを『感応』と呼びます。ほかの子の魔法は、どんなふうに見えるかしら?」
「見えますけど……薄くて。先生のは、はっきり見えました」
「そう。目が慣れるまでにも差があるの。今日は形をよく見て、手順を覚えましょう」
先生は後ろの席でも、杖の向きや指の置き方を確かめていた。何も出なかった女の子が肘を直してもらい、隣の子に見てもらいながら、もう一度呪文を唱えている。
ひと回りして教卓へ戻ると、先生は帳面に何か書き込んだ。
私のことなのか、授業のことなのかは、ここからでは分からない。
私は杖を机の上へ置いた。
隣で、チロルが私の右手を見ている。
「……もう少しだけ、やってみる?」
「指に力が入ってるって言われたから。ちょっと休む」
握っていた手を開いて見せると、チロルは頷いた。
それ以上、杖を持たせようとはしなかった。
後ろの席から、水の玉を二つ出した子の声が聞こえる。
チロルが振り返った。
一瞬、見に行きたそうに腰を浮かせ、それから座り直した。
「見てきていいよ」
「……すぐ戻るね」
チロルが席を離れると、私はもう一度、机の真ん中を見た。
窓の光と、教科書を置いていた四角い跡。
昨日までは、魔法が使えないことなんて、困る理由にならなかった。
今も、生活に必要なわけじゃない。
ただ、さっきのチロルは、私の魔法を見るために場所を空けてくれた。
あの空いた場所が、まだそこにある。
少し休んだ指を、持ち手へ戻した。
あんな大きな玉でなくてもいい。一滴くらいなら、形を思い浮かべられる。
「水よ、集まれ」
今度は、小さな声で言った。
杖の先を、机から指二本分ほど離しておく。
木目に沿って、かすかな白い光がにじんだ。
ほこりより小さな粒が、二つ、三つ。ほかの子の丸い輪郭とは違い、木の表面にまとわりついている。
目を近づけると、先端に透明な雫がふくらんだ。
落ちた。
机に、針の頭ほどの濃い点ができた。
そっと指で触れると、冷たい。指の腹に、水がついていた。
……水、なのかな。
でも、机は濡れないと言われたはずだ。浮かべる前に落としてしまったから? どこか、順番を間違えたんだろうか。
顔を上げると、先生は教卓で、別の子の教科書を覗き込んでいた。チロルも後ろの席にいる。
私は指についた水をハンカチで拭き、机の小さな点も押さえた。
杖の光は、もう消えている。
もう一度だけ、同じようにやってみた。
今度は、木目も机も変わらなかった。
さっき何が違ったのか、指の置き方を見ても分からない。
「ヴィヴィ、二つはやっぱり難しかった」
戻ってきたチロルが、隣へ座った。
「私、一粒くらいなら、できたかも」
「ほんと?」
「すぐ落ちちゃった。今は、もう出ない」
「そっか。でも、ちょっと出たんだね」
チロルは嬉しそうに私の杖を見た。
私は、先端を指で確かめる。乾いていた。
*
授業の終わりに、先生が全員へ声を掛けた。
「それでは、杖をいったん置いてください。今日うまくいった人も、まだ形にできなかった人も、練習するときは一人で無理をしないこと」
木の杖が机に触れる音が、ばらばらに続く。
チロルは、杖のリボンを指で整えている。私はハンカチを畳み、鞄へ戻した。
先生が、机の間を最後にひと回りした。
「ヴィヴィ、どうだった?」
「ほんの少しだけ、粒みたいなのが出ました。でも、すぐなくなって」
「そう。今日は、小さいところからでいいわ。続けすぎず、手順を覚えていきましょうね」
先生は私の杖を見せるようには言わず、隣の机へ移った。
私は教卓の水盤を見た。
窓の光が、本当にたまった水の表面で揺れていた。
先生の実演場所と、私たちの机では、結界の働きが違うという説明だった。
それなら、先生の水がはっきり見えたのも、その違いのせいなのかな。
ほかの子には、両方とも同じくらい見えていたのだろうか。
聞いてみようと思ったところで、先生が黒板の端に新しい文字を書いた。
――明日・光。二人組。
「次の基礎魔法は、明日の午前です。光の練習魔法を使って、向かい合って相手の魔法をよく見てみましょう。効果は安全結界で抑えられるので、怖がらなくていいわ」
私は、自分の杖へ目を落とした。
水は一滴、しかも落としただけなのに、明日は別の魔法を試すらしい。
「水がまだ出なかった人も、明日は光を試してね。出しやすいものは人によって違いますから」
「組みたい相手がいる人は、今のうちに――」
「ヴィヴィ!」
すぐ隣から、名前を呼ばれた。
チロルは先生の説明を待ちきれず、私の方を向いている。
「私とやろう」
「……一粒しか出てないんだけど」
「うん。だから、次は私が見てるね」
机の真ん中を空けて、チロルが自分の杖を置いた。
私の杖と、少しだけ先端の向きを揃える。
断られることを考えていない顔は、列車の中と同じだった。
でも、今日はその顔を見て、少し息がしやすくなった。
「……じゃあ、お願い」
頷くと、チロルは満足そうに笑った。
黒板には、『二人組』と並んで明日の文字があった。
*
次の教室では、杖の代わりに鉛筆を持った。
読み書きの授業で、寮から家へ出す手紙の宛名を練習する。お昼にいったん部屋へ戻ると、スズは空の餌皿の前で待っていた。
午後は算術だった。
品物の値段と、もらうお釣りを紙の上で計算する。チロルは途中で一桁ずらして書き、私が指さすと、慌てて消した。
「魔法より難しいかも」
「お釣りが減ると困るでしょ」
チロルは真剣な顔で、もう一度数字を並べた。
そのページの隅には、朝の水の玉が、小さく丸く描いてあった。




