第2話 魔女の道具と、重い荷物
列車が止まる前から、チロルは鞄の持ち手を握っていた。
降りる準備は万全、と言いたいところだけど、肝心の鞄が座席の隙間にはまっている。
「ちょっと待って。引っ張ると、留め具が引っかかる」
「えっ、どこ?」
「こっち。少し傾けて」
片側を持ち上げてやると、大きな鞄はようやく通路へ出た。
チロルの頭の桃色のリボンが、勢いよく跳ねる。
「ありがとう! 降りられなくなるところだった!」
「降りられないのは鞄だけだよ」
列車で知り合ったばかりなのに、もうこの鞄を助けるのは二度目だ。
私は自分の荷物を片手で持ち、もう片方の腕でスズを抱えた。
開いた扉の向こうから、冷たい風が入ってくる。
石造りの小さな駅に降りると、機関車の方から白い蒸気が流れてきた。濡れた鉄のにおいがする。スズが腕の中で身を縮め、私の襟に鼻を押しつけた。耳を伏せて、短くにゃあと鳴く。
『大きいの、まだ怒ってるにゃ』
「怒ってないって。蒸気を出してるだけ」
「耳がぺたんこだね。スズ、汽車が怖いの?」
隣へ降りてきたチロルが、スズの丸まった背中を覗き込む。
「音が大きいからね。早く離れよう」
他の新入生たちも、鞄を抱えてホームへ降りていた。
友達と並ぶ子。一人で案内冊子を確かめる子。背伸びして、駅の屋根越しに時計塔を探している子。
車内にいるときはあまり分からなかったけれど、みんな私たちと同じくらいの年らしい。
「新入生はこちらよー。忘れ物がないか、もう一度確かめてね」
ロール先生の声が、人の流れを駅の出口へ導いていた。
緑色の上着の裾が、白い蒸気の向こうで揺れている。
出口の先には、学院の門へ続く並木道があった。
若い葉の間を風が抜け、道に落ちた光と影が細かく動く。列車から見えた赤茶色の屋根は、近くで見るとずいぶん高い。
門の左右には、花の咲いた鉢が並んでいた。
「ここ、毎日通れるんだね」
チロルが立ち止まり、道の奥を見上げた。
鞄を地面へ置いた両手には、持ち手の跡が赤く残っている。重さから解放された指を動かしながらも、目は校舎から離れない。
「毎日は通らないでしょ。寮に住むんだから」
「じゃあ、毎日ここにいられるんだ」
言い直したチロルの声は、もっと嬉しそうだった。
私は腕の中の猫を持ち直した。
そうか。今日から、ここに住むのか。
おばあちゃんの家では、窓を開けると畑が見えた。
ここでは何が見えるんだろう。
*
門を入ってすぐの受付で、名前を告げて入学の書類を渡す。
代わりにもらった封筒には、寮の部屋番号と、用品を受け取る場所が書いてあった。
「最初に購買へ寄ってね。校舎の右手、青い扉の建物よ。その後は、それぞれの寮へ。荷物を置いたら、食堂で遅いお昼を食べられるわ」
ロール先生が行き先を指さして教えてくれた。
青い扉は、受付からでも見えた。道に迷う心配はなさそうだ。
それでも、チロルは私の袖を軽くつまんだ。
「一緒に行こう」
「行く場所は一緒だからね」
「うん。だから一緒に行こう」
私は封筒を上着のポケットに入れて、頷いた。
購買は、校舎よりずっと低い、木造の建物だった。
青い扉を開けると、木と革と、新しい布のにおいがした。壁沿いの棚には、靴や鞄、紙の束がきっちり並んでいる。
見たところ、普通のお店だ。
ただし、奥の棚に箒が十本ほど立っていた。
掃除用なのか、空を飛ぶ用なのかは、分からない。
「いらっしゃい。新入生かい?」
帳面から顔を上げたのは、袖をまくった男の人だった。
短い焦げ茶色の髪に、太い眉。腰につけた革の前掛けから、折り畳んだ物差しがはみ出している。幅の広い手には、細かい引っかき傷がいくつもあった。
私たちの後ろを見てから、帳面を閉じる。
「俺はローレン。ここの店番と、道具の修理をやってる。何か壊れたら、捨てる前に持ってきな」
「よろしくお願いします!」
チロルの挨拶で、店の中が少し賑やかになった。
スズも顔を上げ、棚の下へ鼻を向けている。
『革のにおいがするにゃ』
「かじらないでね」
「猫も一緒か。寝床なら、寮で頼むといい」
ローレンさんは笑いながら、私たちの封筒を確かめた。
「制服と授業用の鞄はこっち。杖は、そこの箱から一本ずつ選んでくれ」
杖。
チロルが私の方を向いた。
何も言わない。言わないけど、口元がもう、どうしようもなく緩んでいる。
「行ってきなよ」
「うん!」
箱には、肘から指先くらいの長さの木の棒が並んでいた。
先端は丸く、持ち手のところだけ少し太くなっている。一本ずつ木目が違って、握る場所には細い溝が彫ってあった。
チロルは鞄を足元へ置き、両手で一本取り上げた。
まっすぐ立てて眺めてから、そっと右手に握り直す。
「これが、魔法の杖……」
さっきまであんなに元気だったのに、声が小さくなった。
指を一本ずつ添えている。大切な陶器でも持つみたいな手つきだった。
「先生に習うまでは、振り回すなよ。人の目に入ったら大変だ」
「はい!」
そこは普通の棒と同じらしい。
私も、空いている手で一本取った。
軽い。表面は滑らかで、指に引っかかるところもない。
握っても光らないし、何かが飛び出してくることもなかった。
「飾りをつけてもいいんですよね?」
チロルが真剣な顔で尋ねる。
ローレンさんは持ち手を指さした。
「ここならな。先の方は空けておくこと。それと、長い紐を垂らすのはやめとけ。周りの物に引っかかる」
「小さなリボンなら?」
「邪魔にならなきゃ大丈夫」
その答えを聞いた瞬間、チロルの手が大きな鞄へ伸びた。
開けた鞄から、三つのリボンが出てくる。
桃色、薄い青、白。まだ他にもありそうだった。
「どれが似合うと思う?」
「……いま決めるの?」
「杖があるんだよ?」
その返事で、十分な説明になっているらしい。
「頭のと同じ色でいいんじゃない」
「やっぱり? 私もそう思ってた!」
チロルは桃色の一本を残し、あとの二本をしまった。
訊かなくても決まっていたんじゃないかと思う。
でも、杖に並べて色を確かめる横顔は、とても満足そうだった。
制服は生成りのシャツと、濃い灰色のスカート、それから短い黒の上着だった。
上着の胸元には、小さな銀色の留め金がついている。
先端を指で押すと、かちりと音がして外れた。着るときは、左右の金具を重ねれば留まる。
「紐を毎回結ばなくていいんですね」
「手袋をつけたままでも外せるようにしてある。冬は便利だぞ」
私は留め金を戻した。
こういう道具は、ちょっと好きだ。
チロルは上着を胸に当てて、棚の端の鏡を覗いていた。
黒い布の上へ茶色の髪がこぼれ、頭の桃色がいっそう明るく見える。
「帽子はついてないんですか?」
「基本の支給品にはないな。欲しけりゃ、そのうち売り物も見ていくといい」
「そのうち、絶対来ます」
買い物の予定まで決まった。
入学費用に含まれる用品を全部受け取ると、荷物は来たときより増えていた。
制服の包みが二つ。教科書も二人分。それに、肩から掛ける授業用の鞄が二つ。
ローレンさんは、チロルの大きな鞄と、私の腕の猫を順番に見た。
「寮まで台車を使うか? 返すのは夕飯前でいい」
店の脇から出してくれたのは、四つの車輪がついた、小さな荷物台車だった。
低い荷台の後ろに、押すための取っ手がある。
「助かります」
「助かります!」
ここに来てから、初めて私たちの声がぴったり揃った。
*
チロルが押す台車は、ゆっくり進んだ。
持参した鞄と支給品を重ね、間にスズまで乗っている。
歩いてもらうつもりで地面へ下ろしたのに、自分で飛び乗ってしまったのだ。
『ここ、ちょうどいいにゃ』
私の鞄の上で前足を折り、尻尾を体に巻きつけている。
猫は、新生活の準備がいちばん早い。
「私たち、寮も同じかな」
チロルが取っ手に体重を掛けながら言った。
「封筒に書いてあるよ。女子寮、二階……二〇三号室」
「えっ、私も二〇三!」
チロルは台車を止めて、自分の封筒を確かめた。
中の紙にも、同じ番号が書いてあった。
「同じ部屋だ!」
「そうみたいだね」
「よかったー!」
思っていたより大きな声だった。
顔を上げた私に、チロルはちょっとだけ肩をすくめた。
「知らない子と同じ部屋だったら、どうしようかなって思ってたの」
「私も、今日知り合ったばかりでしょ」
「でも、もう友達だもん」
チロルは封筒をしまい、取っ手を握り直した。
最初に声を掛けるところで困りそうな子には見えない。
それでも、決まるまでは気にしていたらしい。
寮は、購買から庭を挟んだ向こう側だった。
ローレンさんが封筒の裏に描いてくれた簡単な地図によれば、校舎の脇を通って、庭の手前で左へ曲がる。
私が先に角を曲がると、二階建ての長い建物が見えた。
窓の下に洗濯物が揺れ、玄関には編み籠が置いてある。
「あったよ、チロル。あの――」
後ろで、がたん、と音がした。
振り返ると、台車が斜めになっていた。
前の左側の車輪が、石畳の溝にはまっている。石の端が欠けていて、そこだけ隙間が深い。
チロルは押そうとして、慌てて力を抜いた。
「ごめん! そっちを見てたら……」
上の包みが滑りかけ、私が押さえる。
スズは立ち上がり、耳を横へ向けていた。
『この床、動き方が下手にゃ』
「降りて。そこで待ってて」
スズを庭側の平らな場所へ下ろすと、不満そうに前足を舐め始めた。
「押すと、倒れそうだね」
チロルがしゃがんで、車輪を覗き込んだ。
さっきの笑顔が消え、唇をきゅっと結んでいる。
私も車輪を覗いた。縁が石の角に引っかかっている。
前側の枠をつかんで持ち上げてみたけれど、ほとんど上がらなかった。
「……重い」
「魔法が使えたら、ふわって持ち上げられるのかな」
チロルが荷台を見た。
制服の上に置いた杖を見つけ、それからもう一度、溝を見る。
「でも、いまは無理だね。どうしよう」
「先に、重くない台車にすればいいんじゃない?」
私はいちばん大きな鞄を指さした。
「これ、降ろせる?」
「降ろせる!」
大きな鞄を二人で庭の端まで運び、教科書の束も降ろした。通りかかった新入生に、チロルが「すぐ動かすから!」と頭を下げる。
「私がここを持ち上げるから、合図したらゆっくり押して」
「うん。ゆっくりね」
前側の枠を握って膝を伸ばすと、今度は車輪が浮いた。
「いま」
台車が進み、車輪が溝を越えた。そっと下ろすと、四つの車輪が平らな石の上へ戻った。
「出た!」
チロルの声に、スズが顔を上げた。
私もようやく息を吐く。
短い作業だったのに、額の髪が頬へ張りついていた。頬を袖でこすろうと腕を上げて、手のひらが汚れているのに気づく。
チロルが、ポケットからハンカチを出した。
「使う?」
「土がつくよ」
「洗えばいいよ」
白い布の隅に、小さな花が縫ってあった。
私は少し迷ってから借りて、手のひらを拭いた。
「……ありがとう」
「こちらこそ。ヴィヴィがいなかったら、ずっと押してたかも」
「私一人でも、荷物をどかして、持ち上げて、押すのは無理だったよ」
チロルは一度瞬きをして、それから嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、同じ部屋でよかったね」
私は汚れの残った指を握って、もう一度台車を見た。
「うん」
今度は、すぐ返事ができた。
重い物から積み直し、今度は私が取っ手を握った。
チロルは台車の横に並び、溝のない方を指さしてくれた。
道が庭へ開けると、水の音がした。丸い噴水の向こうで、制服姿の子たちが袋を抱えて走っている。誰かが呼び、別の誰かが振り返る。列車で見ていた赤茶色の屋根の下には、もう、ここで暮らしている人たちがいた。
「あ、見て。輪っか!」
チロルが空を指した。噴水の水の筋より上に、淡く光る輪が三つ、上下に重なっている。顔を動かすと、空の明るさへ紛れてしまうほど淡かった。
「下から、金色、桃色、水色。帽子のつばにも、こんな色を並べたら可愛いかな」
「全部つけると、頭が噴水になるよ」
「水は出さないもん。色だけ」
そう言いながらも、彼女は台車の車輪が噴水の縁へ寄らないよう押さえてくれた。見上げた横顔に水しぶきの光が映り、緑の目が、さっきよりずっと大きく見える。
「窓からも見えたらいいね。朝、起きるのが楽しみになる」
「それで、ちゃんと起きてね」
「起きるよ。たぶん」
たぶん、を付けたところで二人とも笑った。私は取っ手を押し、彼女はもう一度だけ噴水を振り返った。
*
「おや。ずいぶん働いてきた顔だね」
女子寮の玄関から、丸い頬の女の人が声を掛けてきた。紺色の服に、白い前掛け。袖を肘までまくり、片手に大きな鍵の束を持っている。
チロルは女の人の後ろにある柱を見上げていた。柱の上で、細い蔓のようなものがゆっくり輪を描いている。私には葉の縁が少し見えるだけだったけれど、彼女は首を傾け、てっぺんまで目で追った。
「入り口まで、魔女の家だ」
ため息みたいな声だった。さっきまで車輪を押さえていた手が、胸元へ上がる。
私たちが土のついた台車を止めると、女の人は腰に手を当て、荷台を見渡した。
「まずは玄関の横へ置いておいで。そこの流しで手を洗って。私はマイミー。寮の世話と食堂の仕事をしてるよ」
言われるままに手を洗った。
流しの上には真鍮の蛇口があり、ひねると水が出る。
家では井戸から汲んでいたので、それだけで少し感心した。
「お湯も出るんですか?」
「夕方にはね。裏の釜で沸かして、配管で送るの。お風呂の時間は後で教えるよ」
窓の向こうに、細い煙突が見えた。
学校の暮らしは、思っていたより便利らしい。
部屋番号を伝えると、マイミーさんは帳面を指で辿った。
「二〇三。ヴィヴィとチロルだね。二人部屋だから、鍵も一本ずつ。中から掛ける鍵は、二人とも戻ってからにしておくれ」
小さな鍵が、それぞれの手のひらへ乗る。
頭の部分に、部屋番号が刻んであった。
「猫の水皿も要るね。食事は、味をつける前の魚を少し取り分けておくよ」
「ありがとうございます!」
思わず大きな声が出た。
スズのご飯を相談する前に、もう準備してもらえるらしい。
私たちの足元まで歩いてきたスズが、尻尾をぴんと立てた。
『ここに住むにゃ』
「うん、知ってる」
チロルが笑いながら、かがんで猫の背中を撫でた。
「ご飯の話になったら、すごく元気だね」
スズは撫でられる間だけ足を止め、それから玄関の中へ入った。
案内する人を待つつもりはなさそうだったので、慌てて抱き上げた。
荷物は二度に分けて部屋へ運んだ。
マイミーさんが大きい鞄の片側を持ってくれて、階段はずいぶん楽だった。
スズは、先に部屋へ入れた。窓も扉も閉まっているのを確かめてから、一階へ戻る。
台車を玄関脇に置き、二人で食堂へ行ったときには、お腹が鳴りそうになっていた。
食卓には、丸いパンと、野菜の入った温かいスープが並んだ。
まだ湯気の上がる器を両手で包むと、冷たい水で洗った指が温まっていく。
パンは表面がぱりっとしていて、中は柔らかい。
「おいしい……」
チロルは二口目を飲み込んでから、ようやく言った。
口の端に、小さなパンくずがついている。
「取れてないよ。こっち」
「え、ここ?」
私が自分の頬を指すと、チロルは同じ場所を拭いた。
窓の光を浴びた髪と、少し乱れたリボン。列車の中で魔女のポーズを取っていた子が、今は一生懸命パンを食べている。
魔法学校でも、お腹は普通にすく。
そこは、家にいるときと変わらなかった。
*
午後、借りた台車を購買へ返して、部屋へ戻った。
靴底についた土は玄関で落とし、二〇三号室の鍵を開ける。
部屋には、窓を挟んでベッドが一つずつ置いてあった。
壁際には机が二つ、小さな棚が二つ。洗ったばかりの寝具のにおいがする。
窓を少し開けると、庭を渡ってきた風が入った。校舎と、あの噴水が見える。
庭の道を歩く生徒は、ここからだとずいぶん小さい。
スズは、私のベッドで昼寝をしていた。
魚の入っていた皿は、もう空だ。
私はベッドの足元へ鞄を置き、チロルは反対側で大きな鞄を開けた。
服と本が出てくる。その間から、小さな箱も出てきた。
蓋を開けると、リボンが巻いて並べてあった。
「……予備、多くない?」
「今日、役に立ったでしょ」
チロルは箱を机に置き、購買で選んだ桃色を取り出した。
杖の持ち手に結び、左右の輪を指で整える。
余った先が長すぎないか確かめてから、窓の光にかざした。
「できた」
その言い方が、なんだか嬉しかった。
ただの棒だったものが、彼女の杖になったように見える。
「制服も着てみようよ」
「まだ着替えるの?」
「いま着てみたら、明日の朝は慌てないよ」
もっともな理由がついてきた。
私は上着を脱ぎ、支給されたシャツに腕を通した。
新しい布は少し硬い。黒い上着を重ね、胸元の留め金を押し合わせる。
かちり、と軽い音がした。
先に着替え終わったチロルが、私を見て笑った。
「ヴィヴィ、似合う」
「……みんな同じ服でしょ」
「でも、似合うよ」
私は返事の代わりに、上着の裾を引いた。
向かいのチロルは、さっき鏡の前で合わせていたときより、ずっと嬉しそうだった。頭のリボンを直し、杖を胸の前へ持ってくる。
「どう?」
「魔法学校の生徒には見える」
「そうだよ。魔法学校の生徒になったんだよ、私たち!」
私たち、と言われて、自分の胸元を見下ろした。
黒い布に、同じ銀色の留め金。
隣に並べば、ちゃんと同じ学校の生徒なのだ。
チロルは足元に物がないことを確かめ、杖を前へ出した。
列車で見たのと同じポーズ。でも、今度は手に本物の道具がある。
「きらめく光よ――」
そこで、言葉が止まった。
「まだ呪文、知らないんだった」
「明日習うんでしょ」
「うん。明日」
机に置いた時間割を、チロルが指で押さえる。
一番初めの授業には、『基礎魔法・水』と書いてあった。
その下には、読み書きや算術、植物の世話も並んでいる。普通の勉強の合間に魔法の授業が入るのであって、一日中、杖を振っているわけではないらしい。
計算なら、私にもできる。少しほっとしてから、もう一度『基礎魔法』の文字を見た。
学期の予定には、入学から半年ほど先の見習い市と、その後の卒業認定が載っていた。最初の学期は、半年余り続くらしい。
「お水って、どんなふうに出るんだろう。丸く浮くのかな。それとも、雨みたいになるのかな」
「とりあえず、教室が濡れないといいね」
チロルは笑った。
けれど、時間割からなかなか指を離さなかった。
「私、明日の朝、寝坊したくない」
「私も。場所を調べる時間がなくなると困るし」
「起きた方が、もう片方を起こす?」
「うん。それでいいんじゃない」
チロルがようやく時間割から手を離した。
杖を机の端に置きかけ、それから真ん中へ置き直す。ベッドに腰を下ろしても、目は桃色のリボンへ戻っていた。
私はその隣の机へ、便箋を置いた。
まだ、最初の一行も書いていない。
でも、手紙に書くことなら、列車にいたときより増えていた。
同じ部屋の子がいること。
荷物の運び方が少し上手になったこと。
パンがおいしくて、スズのご飯もあること。
それから、明日。
私たちは、初めての魔法の授業を受ける。
「ヴィヴィ」
顔を上げると、チロルがベッドから私を見ていた。
膝の上で両手を握り、少しだけ声を落とす。
「明日、ほんとに魔法が使えるんだよ」
疑っているというより、自分でもまだ信じられないみたいな声だった。
私は机の上の杖と、その向こうの彼女を見比べた。
「……見せてもらうからね」
チロルは、すぐに頷いた。
スズがベッドの上で寝返りを打った。
窓から入る風に、杖の小さなリボンが揺れていた。




