第7話
エンコードの完了を知らせる電子音が、静かな部屋に響き渡った。
俺はマウスを握り、次の一手を打つための準備を始めた。完成したばかりの動画ファイルをドラッグし、アップロードの枠へと放り込む。プログレスバーがゆっくりと伸びていくのを眺めながら、先ほどのダイレクトメッセージを思い返していた。
『炎上系配信者の鮫島が、あなたの身元を割り出しました』
見知らぬ捨てアカウントからの警告。悪戯にしては具体的すぎる。だが、相手の素性がわからない以上、こちらから動くことはできない。
アップロードが完了し、公開設定を予約に切り替える。今はただ、いつも通りに動画を作り続けるしかなかった。
翌日の放課後。
学校の校門を出たところで、俺は足を止めた。通学路の少し先、電柱の陰に派手な柄シャツを着た男が立っている。男はスマートフォンを顔の高さに構え、下校する生徒たちを舐め回すように撮影していた。
鮫島だ。
動画サイトで見かけたことのある特徴的な服装と、人を小馬鹿にしたような薄ら笑い。警告は本当だった。俺は咄嗟に制服の襟を立て、他の生徒の影に隠れるようにして足早に通り過ぎた。背中にまとわりつくような視線を感じたが、振り返ることはしなかった。
帰宅して自室のパソコンを立ち上げると、状況はさらに悪化していた。
SNSのタイムラインに、鮫島のアカウントが投稿した短い動画が流れてくる。俺の過去の配信アーカイブを悪意ある形で切り貼りしたものだった。
『美談の裏側! 障害者をダシにした再生数稼ぎのカラクリを暴く』
そんな扇情的なサムネイルが添えられている。動画の中の鮫島は、大げさな身振り手振りで俺の編集スタイルを嘲笑していた。
「見てくださいよ、この過剰なテロップ。目が痛くなるだけでしょ? 本当に妹のためなら、こんな派手な色使いにする必要ないじゃないですか。結局、奇をてらってバズりたかっただけなんですよ、こいつは」
挑発的な口調がスピーカーから流れ出す。コメント欄には、鮫島の言葉を鵜呑みにした連中からの心ない言葉が次々と書き込まれていた。
『自己満足の偽善者』
『妹を利用するとか最低だな』
『ただの視覚的ノイズじゃん』
胃の奥が鉛のように重くなる。俺自身がどう言われようと構わない。だが、結衣の存在までが彼らの娯楽として消費され、汚されていくことだけは耐えられなかった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、ドアが開いた。
結衣が立っていた。彼女の視線が、俺のモニタに映る無数の誹謗中傷の言葉に向けられる。
一瞬、彼女の顔が青ざめた。結衣は自分のスマートフォンを取り出し、震える指で何かを打ち込むと、俺の前に突き出した。
『私のせいで、また叩かれてる』
メモアプリに打たれた文字を見て、俺は首を横に振った。
「違う。お前のせいじゃない」
声に出して言いながら、同時に手話で伝える。結衣はうつむき、自分の袖口をきつく握りしめていた。俺は彼女の震える手をそっと包み込み、顔を上げさせた。
俺は結衣の肩を引き寄せ、パソコンの前に座らせた。そして、昨日徹夜で仕上げたばかりの新しい動画ファイルを再生する。
ディスプレイいっぱいに、極彩色の文字が弾けた。
右側から近づく重い足音は、赤黒い極太のフォントで。遠くで鳴る風のざわめきは、水色の細い斜体で。キャラクターの荒い息遣いは、明滅する白い文字で。
ゲーム内のすべての音が、視覚的な情報として再構築され、次々とモニタを埋め尽くしていく。一般の視聴者からすれば、状況が把握できないほどの情報量だろう。かつて、見づらいと散々ネタにされたスタイルだ。
だが、結衣の目は違った。
彼女の視線は素早く文字を追い、ゲーム内の空間を正確に把握していく。背後からの奇襲を知らせる赤い文字が出た瞬間、結衣はビクッと肩を揺らした。直後に俺のキャラクターが振り向いて敵を撃ち抜くと、彼女の顔にパァッと花が咲いたような笑顔が広がった。
俺にとって、重要なのは再生数でも世間の評価でもない。この笑顔を引き出すことだけが、動画を作る唯一の理由だった。
結衣が振り返り、手話で『すごい』と伝えてくる。
俺は小さく頷き、彼女の頭を撫でた。ネットの悪意がどれほど押し寄せようとも、この編集スタイルだけは絶対に曲げない。
◆ーーーー◆
深夜。
結衣が眠りについた後、俺は一人でデスクに向かっていた。新しいゲームの録画データをタイムラインに並べ、銃声の波形に合わせて赤いテロップを打ち込んでいく。
作業の合間に、ふとブラウザのタブを切り替えた。
鮫島の扇動によって、俺のチャンネルの最新動画にも荒らしのコメントが殺到していた。通知のアイコンが絶え間なく赤い数字を更新し続けている。
反論の動画を出すべきか。いや、それは鮫島の思う壺だ。奴らは俺が感情的になって隙を見せるのを待っている。沈黙を貫き、ただ結衣のための動画を投稿し続けること。それが俺にできる最大の抵抗だった。
荒れ狂うコメント欄をスクロールしていた俺の手が、ふと止まった。
有象無象の罵倒の中に、異質な長文が混ざっていたのだ。
『お前ら、ちゃんと元動画見てから言えよ。このテロップのタイミング、波形と完全に一致してんだぞ。鮫島の切り抜きは都合よく繋ぎ合わせてるだけだろ』
投稿者の名前は、鉄平。
見覚えのあるアカウントだった。俺の動画が最初にバズった時、誰よりも激しく噛み付いてきたアンチの代表格だ。
その鉄平が、今は鮫島の信者たちを相手に一人で喧嘩を売っていた。
『あんたらの目は節穴かよ。この編集の手間考えたら、ただの再生数稼ぎでやれるわけねえだろ。少しは頭使って見ろ』
次々と書き込まれる鉄平のコメント。彼はネットスラングを交えた斜に構えた口調のまま、鮫島の論理の矛盾を的確に突き、俺の編集の意図を必死に擁護していた。
『偽善だなんだって騒ぐ前に、この技術の凄さを理解しろよ。俺は毎日見てるからわかるんだよ』
多勢に無勢。鉄平のコメントはすぐに他の罵倒に流されていくが、彼は諦めずに何度も書き込みを続けていた。
俺はモニタの青白い光に照らされながら、その不器用な擁護の言葉を何度も読み返した。
かつて俺の動画を否定していた人間が、今は誰よりも熱心な味方となって盾になってくれている。その事実が、冷え切っていた胸の奥に静かな熱を灯していくのを感じた。
マウスを握る手に力がこもる。
俺は鉄平のコメントに無言で「いいね」のアイコンをクリックした。
そして、編集ソフトの画面に戻り、新しいテロップの打ち込みを再開する。
鮫島の悪意は、まだ俺たちの周囲をうろついている。現実の脅威が去ったわけではない。
だが、俺はもう一人ではなかった。
キーボードを叩く音が、静かな夜の部屋に力強く響き続けた。




