第3話
『てか、この実況者、プレイ中に時々コントローラーから手離してない?』
『手元カメラの動き、なんか不自然じゃね?』
『もしかして、チートツールでも使ってんのか?』
俺はマウスのホイールを回し、掲示板の書き込みを無表情でスクロールした。
画面の端に映る、俺の不自然な手の動き。それは、ゲームの操作とは無関係な、ある特定の動作だった。
称賛の裏側で、その奇妙な動作に対する新たな憶測が、ネットの海に広がり始めていた。
憶測は勝手に膨らみ、真実とは無関係な場所で熱を帯びている。だが、そんなノイズをかき消すほどの勢いで、チャンネル登録者数のカウンターは回り続けていた。
九十九万八千。
大台の百万人が、もう目の前に迫っている。
連日の深夜編集による慢性的な寝不足で、頭の芯がぼんやりと痺れている。目の下のクマを指でこすりながら、俺はため息をついた。
有名になることなど、欠片も望んでいなかった。ただ、目の前のたった一人に音を届けたかっただけだ。それなのに、事態は俺のコントロールを離れ、勝手に巨大化していく。
駅前の喫茶店。
冷房の効きすぎた店内で、俺は向かいの席に座る男を観察した。
仕立ての良いスーツを着こなし、完璧な営業スマイルを浮かべている。大手クリエイター事務所のスカウトを名乗る、神宮寺という男だった。
「素晴らしい理念です。音のない世界に音を届ける。このバリアフリーの精神は、今の時代に完璧にマッチしています」
神宮寺はテーブルの上に、分厚い企画書を滑らせた。
「企業案件、グッズ化、そして大規模なイベント出演。私どもにお任せいただければ、あなたの活動をより大きなビジネスへと昇華させることができます。もちろん、報酬の面でもご満足いただける条件をご用意しております」
滑らかな口調で語られる言葉の端々に、数字と利益への執着が透けて見えた。彼にとって、俺の動画は金になるコンテンツでしかない。
俺は企画書には触れず、グラスの氷が溶けるのを見つめた。
「あんたのビジネスには興味ない」
「……おや。条件にご不満ですか?」
「俺は自分が作りたいものを作ってるだけだ。誰かのための美談に仕立て上げられるのも、金儲けの道具にされるのも御免だ」
神宮寺の笑顔は一ミリも崩れなかった。
彼はゆっくりと企画書を引き寄せ、鞄にしまう。
「もったいないですね。百万人の影響力を、ご自身だけでコントロールできるとお思いですか?」
慇懃無礼な響きを残し、神宮寺は席を立った。
直接的な反論はなかったが、その背中には冷たい計算が張り付いているように見えた。
◆ーーーー◆
自室に戻り、パソコンの電源を入れる。
机に突っ伏して眠気と戦っていると、背後のドアが開いた。
「ねえ、見て。これ」
結衣がスマホの画面を突き出してきた。
彼女が通う聾学校の友人たちから届いたDMの束だった。
『この実況のおかげで、ゲームの状況がすごくよくわかる!』
『今まで音ゲーは諦めてたけど、これなら遊べるかも』
次々とスクロールされるメッセージの中に、小学生くらいの男の子からの長文があった。
「健太くんっていうの。後輩なんだけどね」
結衣が誇らしげに胸を張る。
『ぼくも耳がきこえません。でも、あなたのおかげでゲームがたのしいです。ありがとう、お兄さん』
素直で丁寧な言葉が、画面の中で光っていた。
「わたし以外にも、こんなに役立ってる。あなたの動画、本当にすごいよ」
結衣はパァッと花が咲いたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、胃の奥に溜まっていた鉛のような疲労が、すっと溶けていくのを感じた。
俺は世界を救うヒーローになりたいわけじゃない。神宮寺が言うような、バリアフリーの象徴になるつもりもない。
ただ、目の前のたった一人を楽しませたくて、ここまでやってきた。
その結果として、健太のような子供たちにも音が届いたのなら。
「……そうだな。悪くない」
俺は短く答え、キーボードに手を置いた。
やるべきことは一つだ。初志を貫く。それ以外にない。
夜九時。
チャンネル登録者数が、ついに百万人を突破した。
俺はあらかじめ告知していた記念配信の枠を開いた。音声は入れず、いつものようにゲーム画面とテキストチャットだけの簡素な画面だ。
開始と同時に、数万人の視聴者が雪崩れ込んできた。
コメント欄が滝のように流れ、画面の右端を猛スピードで埋め尽くしていく。
『百万人おめでとう!』
『神編集いつもありがとう!』
称賛の声に混じって、例の憶測もちらほらと見え隠れしている。
『手元の動き、今日はどうなの?』
『チート疑惑について説明しろよ』
俺はマウスから手を離し、ゆっくりと息を吐いた。
そして、テキストチャットの入力欄にカーソルを合わせる。
『今日は、少しだけ話をさせてくれ』
俺が文字を打ち込むと、激流のようだったコメント欄の動きが、一瞬だけピタリと止まった。
『俺は、バリアフリーの活動家でも、立派な人間でもない』
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。
『この異常な編集を始めたのは、たった一人のリスナーのためだ』
画面の向こう側にいる、無数の視線を感じる。
『その一人がゲームを楽しめるように、音の世界を見せたくて、ただそれだけを考えて作ってきた』
『世界を変えようなんて思ってない。俺はただ、大切なやつの笑顔が見たかっただけだ』
送信キーをターンと叩く。
数秒の空白。
そして、コメント欄は爆発的な勢いで加速した。
『泣いた』
『かっこよすぎだろ』
『たった一人のためだったのかよ……!』
無数の言葉が画面を埋め尽くしていく。
俺は椅子の背もたれに深く寄りかかり、小さく息をついた。
肩の荷が、少しだけ下りたような気がした。
◆ーーーー◆
都内の高層ビルの一室。
窓ガラスに夜景が反射する中、神宮寺はタブレット端末で記念配信のアーカイブを眺めていた。
「たった一人のため、ですか。美しい物語ですね」
彼は完璧な営業スマイルを浮かべたまま、手元のスマートフォンを操作する。
画面には、蒼太の過去の配信動画と、手元カメラの動きを解析したデータが表示されていた。
「しかし、美談だけで終わらせるには惜しい。少し、スパイスを加えましょうか」
神宮寺は連絡先リストから、特定のメディアのアドレスをタップした。
「百万人の影響力。それが暴走した時、彼はどう対処するのか……見物ですね」
冷たい声が、静寂の部屋に溶けていく。
画面の中では、無数の称賛コメントが流れ続けていた。
その熱狂が、やがて鋭い刃となって彼らの日常を脅かすことになるとは、まだ誰も気づいていなかった。




