第17話
重い足取りで教室に入ると、すでに朝の喧騒が始まっていた。
昨夜は一睡もできなかった。ベッドの上で目を閉じても、ネット上で膨れ上がる称賛のコメントと、勝手に消費されていく自分たちの姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
自分の席にカバンを置き、机に突っ伏す。周囲の笑い声や話し声が、やけに遠く感じられた。
「なあ、ちょっと面貸せ」
不意に肩を叩かれ、顔を上げる。大輔が真剣な表情で見下ろしていた。
軽口を叩いてくるはずの親友が、声のトーンを落としている。嫌な予感がした。
促されるまま、人気の少ない渡り廊下へと向かう。窓の外では、グラウンドで体育の授業の準備が進められていた。
「単刀直入に聞くぞ」
大輔はポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。
表示されていたのは、見慣れた動画配信サイトの画面。そして、現在進行形で大炎上から大絶賛へと評価が反転している、俺のチャンネルだった。
「この大騒ぎになってる実況者、お前だろ」
心臓が冷たい汗をかいたような感覚に陥る。息を呑み、必死に表情を取り繕った。
「何言ってんだよ。俺がこんな面倒なこと、するわけないだろ」
「誤魔化すなよ。俺の目は誤魔化せないぜ」
大輔は動画を再生し、画面の隅に映る手元カメラの映像を指差した。
「プレイ中、敵に囲まれて焦った時、右手の親指が不自然に浮いてる。これ、お前が俺の家で対戦ゲームやってて追い詰められた時にやる癖と全く同じだ」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
「それに、選んでるゲームの好みが完全に一致してる。お前、昔からこういう音で状況を判断するようなタイトルばっかりやってただろ。極めつけは、昨日俺が『更新止まったな』って言った時の、お前のあの死にそうな顔だ」
逃げ道は完全に塞がれていた。大輔は普段はお調子者だが、こういう時の観察眼は異常に鋭い。
観念して、小さく息を吐き出す。
「……誰かに言ったか」
「言うわけねーだろ。俺とお前の仲じゃんか」
大輔はスマホの画面をスワイプし、別の動画を表示させた。それは、大手実況者であるKANAが投稿した検証動画だった。
「KANAの動画、見たか? あの人、お前の動画の異常なこだわりに気づいてたぞ。音を消して見てみろってさ」
大輔が再生ボタンをタップすると、KANAの落ち着いた声が流れてきた。
環境音の距離感、風の吹く方角、敵の息遣い。それらがすべて、極彩色の文字とエフェクトで完全に視覚化されていることを、KANAは丁寧に解説していた。
「お前、妹のためにこんなすげーことやってたのかよ」
大輔の言葉に、俺は身構えた。同情されるのか、それとも美談として持ち上げられるのか。どちらにせよ、今の俺には耐えられそうになかった。
しかし、大輔の目は純粋な興奮で輝いていた。
「マジで尊敬するわ。あんな狂った編集、普通は思いついてもやらないぜ。お前、本当にすげーよ」
哀れみでも、過剰な神格化でもない。ただのゲーム好きの友人としての、率直な称賛。
孤立無援の暗闇に一人で立っていると思っていた俺の心に、思いがけない友人の言葉がスッと染み込んでいく。
張り詰めていた糸が、少しだけ緩むのを感じた。
「……馬鹿野郎。大げさに言うなよ」
「大げさじゃねーって。お前のやってることは、間違いなく誰かに届いてる。だから、アンチなんかに負けんなよ」
大輔は俺の肩を力強く叩き、ニカッと笑った。
その笑顔に、俺は小さく頷き返すことしかできなかった。
◆ーーーー◆
放課後、足早に帰宅すると、リビングのソファで結衣がスマホをいじっていた。
俺の顔を見るなり、彼女は画面をこちらに向けてくる。
表示されていたのは、テレビ局やネットニュースの公式アカウントからのダイレクトメッセージだった。
『感動の兄弟愛について取材させてください』
『障害を乗り越える姿を密着させていただけませんか』
薄っぺらい言葉の羅列に、胃の奥がむかむかとする。
世間は俺たちを、都合の良いお涙頂戴のコンテンツとして消費しようとしている。彼らにとって、俺がどれだけの時間をかけてテロップを打ち込んだかなど、どうでもいいのだ。ただ「泣ける物語」が欲しいだけ。
「こんなの、全部無視する」
俺は結衣の隣に座り、自分のスマホを取り出した。
俺のアカウントにも、同じような取材依頼が山のように届いている。それらを一つ残らず選択し、一括で削除ボタンを押した。
「俺たちは見世物じゃない。誰かの感動ポルノになるために、動画を作ってるわけじゃないんだ」
結衣は俺の横顔をじっと見つめ、やがて小さく頷いた。彼女の表情から、張り詰めていた緊張が少しだけ解けたように見えた。
世間の無理解と身勝手な期待。それに迎合せず、沈黙を貫くこと。それが、今の俺たちにできる最大の抵抗だった。
結衣は手話で素早く手を動かす。
『取材、断ってくれてよかった。でも』
彼女は少しだけ口角を上げ、からかうような笑みを浮かべた。
『あの極彩色のテロップ、やっぱりセンスは致命的にダサいよね』
照れ隠しの言葉だとすぐにわかった。俺が世間の声に押しつぶされそうになっているのを察して、あえていつもの調子で接してくれているのだ。
「うるせえ。あれは必要な情報を全部詰め込んだ結果だ」
俺はわざとぶっきらぼうに返し、結衣の頭を軽く小突いた。
「お前がゲームを楽しんで、笑ってくれるなら、俺は絶対にあのスタイルを変えない。誰に何を言われようと、文字の色も大きさも、今まで通りだ」
結衣は嬉しそうに目を細め、もう一度大きく頷いた。
世間がどう評価しようと関係ない。たった一人のリスナーは、目の前でこうして笑ってくれている。
それだけで、俺が動画を作り続ける理由としては十分すぎるほどだった。
自室に戻り、カバンを床に放り投げる。
ふと机の上に目をやると、ラップがかけられた皿が置かれていた。中には、俺の好物である唐揚げが山盛りに積まれている。
皿の脇には、見慣れた母さんの字で書かれたメモが添えられていた。
『唐揚げ、温めて食べてね。無理はしすぎないように』
ネットでの大騒ぎを、母さんが知らないはずはない。ニュースにも取り上げられ始めているのだから、職場で耳にしている可能性も高い。
あえて何も聞かず、ただこうして無言の応援を示してくれている。
俺が自分で決断を下すまで、静かに見守ってくれているのだ。
ラップを外し、冷めた唐揚げを一つ口に放り込む。
醤油とニンニクの香りが口いっぱいに広がり、空っぽだった胃袋に温かいものが落ちていく。
大輔の言葉。結衣の笑顔。母さんの気遣い。
自分は決して一人ではなかった。暗闇の中で立ち止まっていた俺の背中を、彼らがそっと押してくれている。
深く、長い息を吐き出す。
迷いは消えていた。
机の前に座り、数日間触れていなかったマウスに手を伸ばす。
冷たかったプラスチックの感触が、今はなぜか頼もしく感じられた。
もう一度だけ、やってみるか。
世間のためじゃない。バズるためでもない。
ただ、結衣に音の世界を届けるために。
PCの電源ボタンを押し込む。
低くファンが唸る音が響き、真っ暗だったモニターが青白い光を放ち始める。
OSが立ち上がり、デスクトップ画面が表示される。
ブラウザのアイコンをクリックし、動画配信サイトの管理画面を開いた。
その瞬間。
画面の右上に表示された通知アイコンの数字に、俺は息を呑んだ。
信じられないものが、そこに飛び込んできたのだ。
マウスを握る手に、じわりと汗が滲む。
俺は瞬きを忘れ、その通知の詳細を確認するために、震える指でクリックした。




