第16話
部屋の中には、PCの冷却ファンの音だけが、無機質に響き続けていた。
モニター上で明滅するテキストエディタのカーソルを、俺はただぼんやりと見つめている。
結衣が部屋を出て行ってから、どれくらいの時間が経ったのかわからない。
彼女を笑顔にするために始めた作業が、結果として彼女を最も苦しめていた。その事実が、鉛のように胃の奥へ沈み込んでいる。
不意に、背後のドアがわずかに開く気配がした。
振り返ると、パジャマ姿の結衣が所在なげに立っている。彼女は少し伏し目がちに歩み寄り、俺の前に立った。
『さっきは、ごめんなさい』
小さな手の動きが、空気をそっと撫でる。
俺は首を横に振った。謝るべきは俺の方だ。独りよがりな思い込みで、彼女を世間の好奇の目に晒してしまったのだから。
結衣はモニターに映る未完成の動画データに視線を移し、ふっと息をついた。
『でも、あの極太の赤い文字、やっぱりダサかったよ』
手話とともに、彼女の口角がわずかに上がる。それは、不器用な彼女なりの照れ隠しであり、歩み寄りだった。
俺の胸の奥で、冷え切っていたものが微かに熱を帯びる。
「お前が笑ってくれるなら、それでいいんだ。俺はあのスタイルを絶対に変えない」
はっきりと声に出して伝えると、結衣は困ったように眉を下げ、小さく頷いた。
絆が途切れたわけではない。互いを思いやる気持ちは、確かにここにある。
だが、世間の悪意が彼女を標的にしている現状が変わるわけではない。俺はマウスに手を伸ばし、編集ソフトを閉じた。
そして、PCの電源を落とす。
黒く沈んだディスプレイに、疲れ切った自分の顔が映り込んでいた。
◆ーーーー◆
数日後。
俺は動画の更新を完全にストップしていた。
昼休みの教室は、生徒たちのざわめきで満ちている。
俺は自分の席で突っ伏し、窓から差し込む光をやり過ごしていた。
「なあ蒼太。あの実況者、ついに更新止まったな」
隣の席から、大輔がスマホをいじりながら声をかけてきた。
「アンチに負けたのかな……ちょっと寂しいわ。あんな目障りな編集、他じゃ見られないし」
彼の言葉に、俺は顔を上げずに応じる。
「……そうだな」
力なく返すのが精一杯だった。
自分の存在意義が消え失せたような虚無感が、全身を重く支配している。
大輔は俺の正体を知らない。だからこそ、その無邪気な感想が今の俺にはひどく堪えた。
「おっ、マジか。ちょっと蒼太、これ見ろよ!」
突然、大輔が弾かれたように声を上げ、俺の肩を揺さぶった。
鬱陶しさに顔をしかめながら身を起こすと、目の前にスマホの画面が突きつけられる。
「数日前にKANAがヤバい検証動画上げてたみたいだぞ。お前の……いや、あの実況者のやつだ! 俺、全然知らなくて今気づいたんだけど!」
画面の中で再生されていたのは、大手配信者であるKANAの最新動画だった。
『こいつの字幕、ただの飾りじゃない』
KANAの真剣な声が、スマホのスピーカーから響く。
『靴音のする位置、距離感、環境音。全部が完璧に視覚化されてる。騙されたと思って、音を消して見てみろ』
動画内では、俺が作ったプレイ映像が無音で流れていた。
極彩色のテキストが明滅し、アバターが振り向くタイミングと完全に同期している。
KANAの解説によって、俺が意図した「音の視覚化」というルールが、次々と紐解かれていく。
「すげえ……これ、全部計算だったのかよ」
大輔が息を呑む音が聞こえた。
SNSのタイムラインを開くと、状況は一変していた。
『神編集すぎる』『音のない世界の人間に音を伝えるためだったのか』『今まで叩いててごめんなさい』
数日前まで俺を嘲笑い、罵倒していた言葉の波が、今度は真逆の方向へと押し寄せている。
「おい、これでお前も……いや、あの実況者も大逆転だな!」
大輔は自分のことのように興奮して笑っている。
だが、俺の心は少しも晴れなかった。
評価が反転したところで、何になるというのか。
◆ーーーー◆
帰宅すると、スマホの通知ランプが狂ったように点滅を繰り返していた。
動画サイトのメッセージボックスを開くと、見慣れない宛先からのメールが山のように届いている。
『感動のアクセシビリティ実況! ぜひ当番組で取材を』
『障害を持つ妹さんへの愛に涙しました。独占インタビューのお願い』
吐き気がした。
彼らは俺の動画を、手軽に消費できる「美談」として扱おうとしている。
結衣が最も恐れ、最も嫌悪している「かわいそうな子に対する特別扱い」の極致だった。
リビングに下りると、結衣がソファに座ってスマホを見つめていた。
彼女の表情は硬く、指先が微かに震えている。
俺が近づくと、彼女は顔を上げ、すがるような視線を向けてきた。
『みんな、私のことをかわいそうだって言ってる。あなたが、私のために犠牲になってるって』
手話の動きが、焦りと不安で乱れている。
「気にするな。あいつらは何もわかってない」
俺は結衣の隣に座り、彼女のスマホを伏せさせた。
『でも、このままじゃ……』
「俺が全部止める。お前はもう、何も見なくていいから」
俺はそう言って彼女の肩を抱き寄せたが、自分の声がひどく空虚に響くのを感じていた。以前にも取材は受けないと約束したが、ただ無視を決め込むだけでは事態が収束しないことは明白だった。それでも、今はそう言って誤魔化すことしかできない。
前に決めた通り、俺たちのスタンスは変わらない。手のひらを返して押し寄せる称賛の波も、美談に仕立て上げようとするメディアの思惑も、すべてシャットアウトするだけだ。
俺は通知が鳴り止まないスマホの電源を完全に切り、画面を伏せてテーブルの端へ追いやった。
ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだと、震える彼女を安心させるために、あえて力強い態度を作ってみせる。
結衣は少しだけ安堵したように息を吐き、俺の肩に頭を預けた。
その温もりに触れながら、俺は静かに奥歯を噛み締める。
夜が更け、自室に戻った。
部屋の電気はつけず、ベッドの上に仰向けに倒れ込む。
ネット上では、俺のチャンネル登録者数が爆発的な勢いで増え続けていた。
称賛のコメントが秒単位で書き込まれ、動画の再生数は見たこともない桁に達している。
だが、俺の心の中には冷たい風が吹き荒れていた。
自分は純粋に、妹に音の世界を届けたかっただけだ。
彼女がゲームを楽しんで、笑ってくれる。それだけで十分だった。
枕元のスマホが短く震え、画面に『感動しました』という見知らぬアカウントからの通知が浮かび上がる。
世間が勝手に騒ぎ立て、勝手に感動し、勝手に俺たちを消費しようとする。
その巨大な波の前では、俺のささやかな願いなど、いとも簡単に飲み込まれてしまう。
動画の更新を再開すれば、また結衣を美談の渦中に引きずり込むことになる。
かといって、このまま何もしなければ、彼女からゲームの楽しさを奪ったままになってしまう。
どちらを選んでも、結衣を傷つける未来しか見えない。
暗闇の中で、俺はゆっくりと目を閉じた。
PCの電源は落ちたまま、部屋には重苦しい静寂だけが残されている。
この暗闇から抜け出す術はあるのか。




