第15話
スマホの通信が途絶え、通知の振動がピタリと止まった。
だが、恐怖は消えない。
ネット上の悪意は消えたわけではない。ただ見えなくなっただけだ。
見えないからこそ、余計に恐ろしい。今この瞬間も、どこかの誰かが俺を嘲笑い、根も葉もない噂を拡散しているのだろう。
世界中から拒絶され、真っ暗な海の底に沈められたような孤独感。
俺はルーターのコードを握りしめたまま、ただうつむくしかなかった。
「……ごめん」
静まり返ったリビングに、結衣の小さな声が響いた。
彼女は俺の震える手から視線を外し、申し訳なさそうに眉を下げる。
俺は慌てて顔を上げ、首を横に振った。
「お前のせいじゃない。俺が勝手にやってることだ」
結衣は唇を噛み締め、手話でゆっくりと紡ぐ。
『私のために、こんなに叩かれて。もう、やめてもいいんだよ』
その指先は微かに震えていた。俺のせいで、彼女にまで罪悪感を背負わせてしまった。
俺はルーターのコードを床に置き、結衣の目を真っ直ぐに見返した。
「絶対にやめない。お前がゲームを楽しめるようにする。そのやり方は絶対に変えない」
俺の強い語気に、結衣は少しだけ目を丸くした。
そして、ふっと柔らかく微笑む。
『あなたの編集センスが絶望的にダサいのは、今に始まったことじゃないしね』
冗談めかした手話に、俺は思わず息を吐き出した。
「悪かったな。ダサくて」
照れ隠しのような結衣の言葉が、冷え切っていた胃の奥を少しだけ温めてくれる。
世界中が敵に回ったとしても、目の前にいるこの視聴者さえ笑ってくれればいい。
俺は改めて、自分の信念を曲げないことを心に誓った。
◆ーーーー◆
翌日の昼休み。
教室で机に突っ伏していると、大輔が血相を変えて駆け寄ってきた。
「蒼太! お前、早くスマホ見ろ!」
大輔のただならぬ様子に、俺は渋々ポケットから端末を取り出し、モバイル回線でブラウザを開いた。
昨日まで罵詈雑言で埋め尽くされていた俺のチャンネルの様子が、一変している。
低評価の赤いバーは消え去り、高評価の青いバーが異常な勢いで伸びていた。
再生回数も、一晩で数十万回という信じられない数字を叩き出している。
「KANAが新しい動画を出したんだよ。お前の実況の検証動画だ」
大輔が自分のスマホを突き出してくる。
再生されたのは、俺が投稿したFPSゲームの切り抜きだった。
だが、KANAの音声が被せられている。
『みんな、一回ミュートにしてこの動画を見てみてほしい』
KANAの指示通り、ゲームの音声が消える。
モニター上に残るのは、俺が打ち込んだ極彩色のテキストだけだ。
『右斜め前・砂利を踏みしめる音』
『遠方・くぐもった爆発音』
『自身の荒い呼吸』
『これ、ただ騒がしいだけじゃないんだよ。足音の方向、距離、環境音。ゲーム内のすべての音響情報が、テキストだけで完全に再現されてる。耳が聞こえなくても、このテキストを追えば状況が完璧に把握できるんだ』
KANAの興奮した声が響く。
『こんな狂った作業量、普通じゃない。これは音のない世界にいる人へ向けた、究極の神編集だ』
動画が終わると同時に、俺のスマホに次々と新しい通知が飛び込んできた。
昨日の炎上が嘘のように、コメント欄は称賛の言葉で溢れかえっている。
『ミュートで見たら鳥肌立った』
『叩いてた奴ら息してる?』
『リナとかいう奴、完全に的外れだったな』
KANAの熱狂的なファンであるリナのアカウントを見ると、彼女はすでに過去の攻撃的な投稿を削除し、『誤解してました。本当にごめんなさい』という謝罪文を掲載していた。
「お前、すげえよ! 完全に評価がひっくり返ったぞ!」
大輔が俺の肩をバンバンと叩く。
だが、俺の心境は複雑だった。
俺が望むのは、結衣が笑ってくれることだけだ。世間の評価なんてどうでもいい。
勝手に叩き落とし、今度は勝手に持ち上げる。その無責任な熱狂が、ひどく薄気味悪かった。
◆ーーーー◆
数日後。
俺のチャンネル登録者数は爆発的に伸び続け、あっという間に数十万人に達した。
それに伴い、新たな問題が発生していた。
PCのメールボックスを開くと、見知らぬ宛先からのメッセージがずらりと並んでいる。
『〇〇テレビの者です。障害を持つ妹さんのために奮闘する兄の姿を、ぜひドキュメンタリーで』
『Webメディアの△△です。福祉の観点から、あなたの素晴らしい活動を取材させてください』
どいつもこいつも、俺たちを感動の美談として消費しようと群がってくる。
彼らの頭の中には、かわいそうな障害者と献身的な兄という陳腐な物語が出来上がっているのだろう。
「……ふざけるな」
俺はマウスを操作し、取材依頼のメールをすべてゴミ箱に放り込んだ。
結衣はかわいそうな存在なんかじゃない。俺は純粋に、一緒にゲームを楽しみたいだけだ。
それを勝手なお涙頂戴の道具にされることだけは、絶対に許せなかった。
夕食後、リビングで結衣にそのことを伝えた。
「テレビとか雑誌から連絡が来てるけど、全部無視してるから。安心しろ」
結衣は少しだけ表情を強張らせ、手話を返す。
『私のこと、何か言ってるの?』
「気にするな。大人が勝手に騒いでるだけだ。俺たちは今まで通り、二人で楽しめばいい」
俺は努めて明るく振る舞った。
だが、結衣の瞳には暗い影が落ちていた。
彼女は自立心が強く、特別扱いされることを何よりも嫌う。世間から同情の目を向けられることは、彼女の心を深くえぐる刃になる。
俺の動画がバズったことで、結衣にその刃を向けてしまったのではないか。
そんな不安が、胸の奥でどす黒く渦巻いていた。
◆ーーーー◆
その夜。
自室で次の動画の編集作業をしていると、背後のドアが静かに開いた。
振り返ると、結衣が立っていた。
いつも着ているお下がりのゲームTシャツではなく、きちんとした部屋着に着替えている。
その表情には、これまでに見たことのないような固い決意が秘められていた。
「結衣? どうした、こんな時間に」
俺が声をかけると、結衣はゆっくりと歩み寄り、PCのモニターを見つめた。
ディスプレイには、俺が何時間もかけて打ち込んだ極彩色のテキストが並んでいる。
赤や青、極太フォントや細字が入り乱れるその画面は、音の性質を視覚化するための俺なりのルールだった。
結衣は小さく息を吸い込み、俺の目を真っ直ぐに捉えた。
そして、はっきりとした手話で告げた。
『もう、私のために動画を作らなくていい』
心臓が冷水を浴びたように縮み上がった。
「……は? 何言ってんだよ。今、いいところまで編集進んでて……」
俺は慌てて取り繕おうとしたが、結衣の冷たい視線に言葉が詰まる。
『あなたが傷つくのを見たくない。それに……』
結衣の手が微かに震えている。
『私も、かわいそうな子扱いされるのは嫌。世間の人たちに、同情されたくない』
「違う! 俺はそんなつもりじゃ……お前が楽しめるようにって、それだけで!」
俺は必死に反論しようとした。
だが、喉の奥が干からびたように張り付き、声が出ない。
結衣の言う通りだ。
俺のエゴが、結果的に彼女を世間の好奇の目にさらし、最も嫌がる特別扱いを強いてしまった。
彼女を笑顔にするための動画が、彼女を一番苦しめている。
『今までありがとう。でも、もう終わりにしよう』
結衣は深く頭を下げると、逃げるように部屋を出ていった。
パタン、とドアが閉まる乾いた音だけが残される。
俺はPCの前に座ったまま、完全に言葉を失っていた。
モニター上では、俺が作ったテキストが虚しく明滅を繰り返している。
誰のために、何のために、俺はこんな作業を続けてきたのか。
唯一の支えであり、原動力だった笑顔が、俺自身のせいで失われた。
「もう作らなくていい」という結衣の言葉が、俺のすべてを奪い去った。
部屋の中には、PCの冷却ファンの音だけが、無機質に響き続けていた。




