第11話
翌日の夕方。西日が差し込む自室で、俺はモニターと睨み合っていた。
昨夜録画したFPSゲームの編集作業だ。ヘッドホンから流れる環境音に耳を澄ませ、波形データと睨み合いながら、ミリ単位でテロップの表示タイミングを調整していく。連日の深夜に及ぶ作業のせいで、頭の芯がぼんやりと痺れている。それでも、画面に向かっている間だけは不思議と眠気を感じなかった。
砂利を蹴る微かな摩擦音、遠方で反響する爆発音、キャラクターの焦燥を伝えるような呼吸音。それらすべての情報を、視覚だけで理解できるように変換していく。
背後で床が微かに軋む振動を感じ、振り返ると結衣が立っていた。
「ちょうどいいところに来た。昨日の続き、できたぞ」
俺が声をかけると、結衣は少しだけ肩をビクッと揺らした。だが、すぐにいつものように小走りで近づいてきて、俺の椅子の後ろからモニターを覗き込む。
スペースキーを押してプレビューを再生する。
画面には、銃声や足音を示す極太のフォントが、赤や青の派手な色使いで次々と表示される。
結衣は画面を見つめていた。しかし、その表情はどこか硬い。いつもなら、敵の足音を示すテロップが出た瞬間に身を乗り出し、俺が敵を倒すと花が咲いたように笑うはずだった。
だが今日の結衣は、ただ静かに画面の文字を追っているだけだった。
「どうだ?」
俺が尋ねると、結衣はハッとしたように瞬きをし、大げさな身振りで笑いを作った。
「相変わらず、編集センスがダサいね。目がチカチカする」
手話と口パクを交えて、からかうように言う。
その言葉に、俺は鼻で笑った。
「うるせえ。お前が一番わかりやすいように作ってんだ。誰が何と言おうと、このスタイルは絶対に変えねえよ」
世間の奴らがどれだけ騒ごうが関係ない。俺の動画のターゲットは、目の前にいる妹だけなのだ。
結衣は一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。だが、すぐに視線を伏せ、「……うん。お兄ちゃん、無理しないでね」とだけ伝えて、足早に部屋を出て行ってしまった。
閉まったドアを見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
結衣の様子が少しおかしかった気もするが、きっと俺の寝不足を心配してくれているのだろう。
俺は頬を叩いて気合を入れ直し、再びマウスを握った。結衣が笑ってくれるなら、いくらでもこの字幕を打ち続けてやる。その信念だけが、俺を突き動かしていた。
◆ーーーー◆
だが、その日を境に、結衣の態度は明らかに変わり始めた。
いつもなら、俺が動画をアップロードした直後にリビングでタブレットを開き、熱心に見てくれるはずだった。
しかし、結衣はタブレットを開こうとしない。
夕食の席で、母さんが不思議そうに尋ねた。テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、食卓の空気はどこか重かった。
「結衣、最近蒼太の動画見てないの? いつも楽しそうにしてたのに」
結衣は箸を止め、ビクッと肩を震わせた。俺と目を合わせようとせず、視線を泳がせる。
「ごめん……最近、小テストの勉強が忙しくて。また今度見るね」
手話でそう答えると、結衣はそそくさと食事を終え、逃げるように自室へ戻ってしまった。
「蒼太、あんた最近ちゃんと寝てるの? 顔色が悪いわよ」
母さんが心配そうにため息をつく。その言葉には、温かい心配が込められていた。俺が無理をしているのではないかと、密かに気を揉んでいるのだろう。
「大丈夫だって。ちょっと凝った編集をしてるだけだから」
冷めた麦茶を喉に流し込み、結衣が早々に立っていった空席を見つめた。
ゲームのチョイスが悪かったのだろうか。それとも、本当に勉強が忙しいだけなのか。
戸惑いを抱えたまま自室に戻り、パソコンの前に座る。
ブラウザを開き、自分のチャンネルの管理画面にアクセスした。通知アイコンが異常な数を示している。
そこには、目を疑うような光景が広がっていた。
コメント欄の荒らしが、かつてないほど激化している。
原因の一つは、皮肉なことに鉄平だった。
『お前ら何もわかってねえな。この編集には意味があんだよ』
『文句言うなら見なきゃいいだろ。俺は毎日見てるけどな』
鉄平のアカウントは、数分おきに新しいコメントを投稿し、アンチに対して片っ端から噛み付いていた。完全にレスバトルの中心になっている。
斜に構えた口調で擁護する鉄平に対し、アンチたちはさらにヒートアップしている。
『信者が暴れてて草』
『独りよがりの偽善のくせに』
『身内を盾にして同情を引こうとしてるだけだろ』
ページを更新するたびに、鉄平宛ての罵倒が数十件単位で追加されていく。
一瞬、マウスを握る指先が止まった。胸の奥を冷たい刃で撫でられたような不快感が走る。
俺は何も言い返さず、ただブラウザのタブを閉じた。
他人の評価なんて気にしていない。俺は結衣のためにやっているんだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は動画編集ソフトを立ち上げた。
銃声の波形に合わせて、赤いテロップを打ち込む。足音の方向を計算し、青い矢印を配置する。
妥協は一切しない。結衣が音の情報を正確に掴めるように、すべてを視覚化する。
だが、マウスを握る手は鉛のように重かった。
連日の深夜作業による慢性的な寝不足で、頭の芯がぼんやりと痺れている。目の下のクマはさらに濃くなり、鏡を見るたびにひどい顔をしていると自分でも思う。
それに加えて、結衣が動画を見てくれないという事実が、俺の心を確実に削り取っていた。
◆ーーーー◆
数日が経過した。
動画の再生数は、炎上の余波で異常な勢いで伸び続けている。
低評価のバーは赤く染まり、コメント欄は相変わらず荒れ果てている。
それでも、俺は毎日動画を投稿し続けた。
いつか結衣のテスト勉強が落ち着いたとき、すぐに新しい動画を楽しめるように。
しかし、結衣の笑顔は見られない。
リビングで顔を合わせても、結衣はどこかよそよそしく、俺と目を合わせようとしない。まるで、俺という存在そのものを避けているかのようだった。
「お兄ちゃん、今日も遅いの?」
夕食の片付けを手伝いながら、結衣が背を向けたまま手話で尋ねてくる。
「ああ。ちょっと編集が立て込んでてな」
「……そっか。おやすみなさい」
短いやり取りだけで、結衣は自室に消えていく。
俺は、シンクに置かれた空のコップを見つめ、深くため息をついた。
深夜二時。
部屋には、パソコンの冷却ファンの音だけが響いている。窓の外は完全に寝静まり、時折遠くを走る車の音が聞こえるだけだ。
画面の中では、俺の操作するキャラクターが敵を倒し、過剰なエフェクトとともに極太の文字が躍っている。
暗闇から飛び出してくるクリーチャーの咆哮を、画面いっぱいの紫色の極太フォントで表現したとき、結衣は驚いて肩をすくめ、そのあとにおかしそうに笑い転げた。
結衣が笑ってくれた、あの編集だ。
だが、今の俺の背後には誰もいない。
振り返っても、楽しそうに笑う妹の姿はない。
「……俺は、誰のためにこれを作っているんだ?」
呟いた声は、誰に届くこともなく部屋の空気に溶けて消えた。
結衣に音の世界を届けるため。その信念だけで、俺はネットの悪意にも耐えてきた。
だが、肝心の結衣が受け取ってくれないのなら、この過剰な字幕に何の意味があるのか。
プレビュー画面で明滅する原色のテロップから、思わず目を逸らした。
胃の奥が冷たくなるような感覚が広がる。
マウスから手を離し、両手で顔を覆った。
目の裏に、結衣の硬い表情が浮かぶ。
俺の努力が空回りしているのではないか。結衣はもう、俺の動画なんてどうでもよくなってしまったのではないか。あるいは、俺の存在自体が彼女の負担になっているのか。
静かな不安と、激しい無力感が、波のように押し寄せてくる。
画面の中で明滅する文字が、ひどく虚しく見えた。
解決の糸口は見えない。
ただ、重苦しい夜だけが、どこまでも深く更けていく。




