第一章 1 『小さな火のつもりでした』
頬を撫でる風の冷たさで、雪城澪華は目を覚ました。
最初に見えたのは、どこまでも澄んだ青空だった。身体の下では膝ほどの草が風に揺れ、土と花の匂いが混じっている。見慣れた天井も、枕元に置いていたスマートフォンもなかった。
「……え?」
勢いよく身を起こした澪華は、そのまま固まった。
視界いっぱいに広がっているのは、見知らぬ草原だった。緩やかな丘の向こうには灰色の山並みが連なり、反対側には深い森が広がっている。道路も家も電柱もなく、人の気配さえ見当たらない。
「えぇ!? どこ、ここ!? 私、さっきまで日本にいたよね!?」
声を上げた瞬間、自分の声にも違和感を覚えた。少し高く、柔らかい。慌てて喉へ触れ、それから自分の手を見下ろす。
指は以前より細く、肌も白い。胸元まで垂れた髪を掴めば、見覚えのない淡い桃色がかった茶色だった。
「髪まで違う!? いや待って、なんで!? 染めた覚えないんだけど!」
立ち上がろうとして、今度は服装に気づいた。
日本で着ていた服ではない。柔らかな布の上着に膝丈のスカート、歩きやすそうな革靴。肩には小さな鞄が掛かっており、中には硬貨らしきものと、見たことのない文字が記された薄い札が入っていた。
その札へ目を向けた瞬間、読めないはずの文字の意味が頭へ流れ込んできた。
——フィナ・アウセリア。
「……フィナ?」
口にした名前は、知らないはずなのに妙に馴染んだ。
同時に、ここがエルシアという世界であること、この辺りがセレフィア王国の領域であること、魔法や魔物が存在することまで、最初から知っていたように理解できる。
けれど、自分は雪城澪華だ。その意識だけは、はっきりと残っていた。
「私、澪華なんだけど……フィナって呼ばれるの?」
試しに胸へ手を当てると、フィナという名前にも自分自身としての感覚が返ってくる。二つの名前が頭の中で並び、澪華は眉を寄せた。
「転生……ってこと? いやいや、そんな急に言われても困るよ!」
どうしてこうなったのかは分からない。日本で最後に何をしていたのか思い出そうとすると、記憶の端が白くぼやけた。
考え続ければ不安に押し潰されそうになり、澪華――この世界ではフィナらしい少女は、両手で頬を軽く叩いた。
「と、とにかく人を探そう。ここで一人で悩んでても、何も分からないし!」
草原を見回すと、少し離れた場所に土の道が伸びていた。草を掻き分けて近づけば、車輪と蹄の跡が幾重にも残っている。
街道なら、どこかの町へ続いているはずだ。
左右を見比べたフィナは、より新しい轍が残る方へ歩き始めた。
自分をフィナと考えることにはまだ戸惑いがあったが、いつまでも澪華と呼び続けていては、この世界の人へ説明できない気がした。
「雪城澪華、十五歳。今日からフィナ・アウセリア……って、簡単に切り替えられるわけないよね!」
一人で勢いよくツッコミを入れながら歩く。
しばらくすると、前方から馬の激しい嘶きが聞こえた。
「——荷台を守れ!」
「右からも来るぞ!」
切迫した叫び声に続き、獣の唸りと金属音が響く。
知らない世界の言葉であるはずなのに、意味は自然に理解できた。転生というものの親切な機能なのかもしれないが、今は疑問に思っている場合ではない。
「誰か襲われてる!」
フィナは街道を駆けた。
道が曲がった先で、一台の幌馬車が斜めに止まっていた。二頭の馬は怯えて暴れ、御者が手綱へしがみついている。荷台の周囲では、商人らしい男たちが短剣や棒を構えていた。
彼らを取り囲んでいるのは、狼に似た三体の魔物だった。
普通の狼より一回り大きく、灰黒色の毛の隙間から赤い光が漏れている。正面の一体が商人たちを牽制し、残る二体が馬車の左右へ回り込もうとしていた。
「後ろへ行かせるな!」
左側の魔物が、荷台の陰で座り込んでいる小柄な人影へ狙いを定めた。
「危ない!」
フィナの声に反応し、魔物が赤い目をこちらへ向ける。低く身を沈めた直後、鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
横へ避ければ、自分は助かるかもしれない。
だが、その先には馬車がある。自分が逃げれば、魔物はそのまま武器を持たない人へ向かう。
「何か……そうだ、火!」
狼のような魔物なら、火を見せれば怯むかもしれない。
しかし、フィナは魔法の使い方を知らなかった。日本にいた澪華が魔法を習っているはずもなく、この身体にも具体的な詠唱や術式の知識は浮かんでこない。
それでも、伸ばした右手の前へ小さな炎が灯る光景だけを強く思い描いた。
「お願い! 小さな火でいいから出て!」
掌の前で、空気が白く弾けた。
赤い光が集まり、拳ほどの火球へ変わる。詠唱も魔法陣もないまま生まれた炎が、激しく燃えながら宙へ浮かんだ。
「えぇ!? なんか出た!?」
驚いて腕を引こうとしたときには、火球はすでに飛び出していた。
迫っていた魔物の胸元へ赤い光が突き刺さる。
轟音と共に炎が膨れ上がり、魔物を一瞬で呑み込んだ。それでも火球は止まらず、街道脇の草を一直線に焼き払い、遥か先の岩壁へ激突した。
次の瞬間、岩壁の中央が内側から吹き飛んだ。
大地が震え、巨大な円形の穴が岩肌へ穿たれる。砕けた岩が煙と共に崩れ落ち、遅れて押し寄せた熱風がフィナの髪と服を激しく舞い上げた。
「えええぇ!? 小さな火は!? 私、小さな火ってお願いしたよね!?」
伸ばしたままの右手と、抉れた岩壁を何度も見比べる。
掌に火傷はなく、身体から力が抜けた感覚もない。だが、魔物がいた場所には黒い焦げ跡しか残っていなかった。
残る二体の魔物は、岩壁とフィナを交互に見た。耳を伏せ、尻尾を巻き、揃って草原の奥へ逃げ出す。
「あ、待って! もう何もしないから! ……って、今のを見たあとじゃ信じられないよね! 私だって信じられないもん!」
魔物を追うより先に、フィナは馬車へ駆け寄った。
「皆さん、大丈夫ですか!? 怪我してませんか!?」
御者は暴れていた馬を宥めながら、呆然と頷いた。荷台の陰にいた人物も無事らしく、積み荷へ手をついたまま何度も首を縦に振っている。
商人たちは武器を下ろすことも忘れ、フィナと岩壁を交互に見ていた。
「俺たちの心配より、あんたは今の魔法を説明できるのか?」
「できません! 私も今、すごく説明してほしいです!」
「詠唱も魔法陣もなかったぞ」
「火球にしても威力がおかしい。あれでは上級や戦略級という話でもない」
商人たちの言葉に、フィナは自分の掌を見つめた。
魔法が存在する世界へ転生したらしい。しかも、自分はその魔法を使えた。そこまでは分かる。
どうして小さな火が岩壁まで削ったのかは、まったく分からなかった。
「もう一回試せば、何か分かるかな……」
「やめてくれ!」
商人たちの声が見事に重なった。
「えぇ!? まだ何もしてませんけど!?」
「しようとしただろう!」
「ちょっとだけです! 今度こそ、本当に小さく!」
「その『ちょっと』を信用できる要素がどこにある!」
もっともな指摘に、フィナは伸ばしかけた手を慌てて背中へ隠した。
魔物が去ったことを確認した商人たちは、馬車と積み荷の点検を始めた。車輪や馬に大きな被害はなく、熱風で幌の留め具が外れただけらしい。
フィナも留め具を直すのを手伝いながら、年長の商人へ声を掛けた。
「あの、この街道って、どこへ続いてるんですか?」
「王都セレフィアだ。ここから馬車で半日ほどだな」
「セレフィア……」
聞いた瞬間、王都の名前と大まかな位置が頭に浮かんだ。
王立の魔法学院と魔導協会がある、この国で最も大きな都市。
自分がなぜフィナ・アウセリアとして草原にいたのかは分からないが、魔法について調べるなら向かうべき場所に思えた。
「行く当てがないなら、王都まで乗っていくか?」
「いいんですか?」
「命を助けてもらった礼だ。それに、一人で歩かせて次の魔物に会うたび、街道の地形を変えられても困る」
「変えませんよ! 次はちゃんと加減します!」
「その言葉は、今のところ岩壁より信用できん」
「そんなぁ!?」
商人たちの間に、ようやく小さな笑いが広がった。
フィナも頬を膨らませながら、胸の奥では安堵していた。
日本から離れ、知らない名前と身体を与えられ、何一つ分からないまま目覚めた。それでも今は、言葉を交わせる人たちがそばにいる。
やがて馬が落ち着き、馬車は街道の中央へ戻された。
荷台へ乗り込んだフィナは、膝の上で右手を握る。
雪城澪華だった自分と、フィナ・アウセリアという新しい名前。そのどちらもまだうまく受け止められない。
それでも、助けようとした人々が全員無事だったことだけには、素直に胸を撫で下ろせた。
馬車の車輪がゆっくりと回り始める。
草原に残された巨大な焦げ跡を背に、フィナを乗せた商隊は王都セレフィアへ続く街道を進んでいった。




