第2話 星鳴りの鐘
バスを降りた瞬間、潮の匂いがした。
春の終わりの海は、近くで見ると思ったより青くなかった。白く光っているところと、深く沈んでいるところがあって、風が吹くたびに、その境目だけが細かく揺れる。
駐車場から展望台までは、ゆるい坂道の遊歩道が続いていた。両側には低い植え込みがあり、ところどころに観光地らしい看板が立っている。
『星恋岬展望台まで徒歩七分』『星鳴りの鐘はこちら』『三度鳴らして、大切な人の名前を心の中で』
余計な情報が、現地ではさらに増えていた。
「すげえな。全力で恋を叶えにきてる」
藤崎が看板を見上げて言った。
「観光地だからな」
「相沢も鳴らす?」
「鳴らさない」
「即答じゃん」
「鳴らす理由がない」
そう言いながら、悠は自分の声が少し固くなったのを感じた。
理由がない、という言い方は便利だった。理由がないと言えば、理由があることを隠せる。
班行動とはいっても、最初の三十分はほとんど自由散策だった。先生は集合時間だけを念押しして、生徒たちはそれぞれ写真を撮ったり、売店の方へ流れたり、展望台の方へ歩いたりしている。
澪は、女子数人と一緒に案内板の前に立っていた。
案内板には、星鳴りの鐘の由来が書かれている。古い漁村の言い伝え。海へ出た恋人の無事を祈って、岬の上で鐘を鳴らした少女の話。その音が星に届き、離れた人の心をつなぐのだという。
話としては、よくある。よくあるけれど、よくあるから嘘だとは言い切れない。
人が何度も同じような話を作るのは、たぶん、何度も同じような願いを持つからだ。
「こういうのってさ、本当に信じる人いるのかな」
澪の隣にいた女子が、半分笑うように言った。
澪は案内板から目を離さず、少しだけ首を傾けた。
「叶うかどうかは分からないけど」
その声は、特別に真面目でも、茶化すようでもなかった。
「ここまでして願った人がいたんだな、とは思う」
悠は足を止めた。
たぶん、澪本人にとっては何でもない一言だった。会話の流れで、自然に出ただけの言葉。
それでも悠は、さっきバスの中で自分が勝手に考えていたことを、少しだけ許されたような気がした。
澪なら笑わない。
そう思っていた。そういう人であってほしいと思っていただけかもしれない、とも思っていた。
けれど少なくとも今、澪は笑わなかった。
「相沢?」
藤崎が隣で不思議そうに言った。
「何」
「いや、急に黙ったから。鐘、気になる?」
「気になってない」
「鳴らす理由がないって言ってたわりには?」
「案内板を読んでただけだろ」
「へえ。ずいぶん丁寧に読むんだな」
「うるさい」
藤崎は軽く笑った。
悠も、笑って流せばよかった。
ただの観光案内だ。
恋が叶う鐘なんて、まともに受け取る必要はない。
そう思っている。
たぶん。
でも、笑いきれない。
その中途半端さが、自分でも少し面倒だった。
展望台へ続く道は、思ったよりも細かった。
木の柵に沿って歩くと、途中で視界が開ける。海が一気に近くなり、風が強くなった。
展望台の中央には、銀色の鐘があった。
思っていたより小さい。けれど、観光地の飾りというには、少しだけ古びている。表面には細かな傷があり、何人もの手が触れた跡のように、取っ手の部分だけが鈍く光っていた。
生徒たちが次々に写真を撮る。
「三回鳴らすんだって」
「誰の名前呼ぶ?」
「心の中でって書いてあるじゃん」
「じゃあ言わなくていいやつだ」
笑い声が風に混ざる。
悠は少し離れたところから、それを見ていた。鐘の向こう側に、澪が立っている。
澪は鐘を鳴らさなかった。ただ、近くの説明板を読んでいた。
その横顔は、楽しそうというより、静かだった。誰かの願いを読むときの顔だった。
「鳴らさないの?」
藤崎が、また余計なことを言った。
「鳴らさない」
「白石さん、鳴らすかもよ」
「だから何だよ」
「いや、こういうのって、乗った方が楽しいじゃん」
「楽しいかどうかで鳴らすものなのか」
「そういうとこだよな」
藤崎は笑って、鐘の方を見た。
「夢がないなあ」
夢がない。その通りかもしれない。
悠は願うことが苦手だった。願ったところで叶わない、と思っているからではない。叶わなかったときに、自分がそれを望んでいたことまで明らかになるのが嫌だった。
願わなければ、失敗しない。期待しなければ、傷つかない。好きだと言わなければ、失恋もしない。
それはたぶん、賢さではない。ただの保留だ。
集合写真を撮り、売店で土産を見て、展望台の下の小さな店で水を買って、星恋岬での自由時間はあっけなく終わった。
旅館は、星恋岬のふもとにあった。
昼に歩いた遊歩道を戻れば、展望台までは十分ほどだと、先生が夕食前の注意事項で言っていた。もちろん、夜に出歩くな、という注意のためだった。
夕食。入浴。部屋での雑談。消灯前の先生の見回り。
修学旅行らしい時間が、順番に過ぎていく。
けれど悠は、眠れなかった。
布団に入って目を閉じると、昼間の鐘の音が頭の中で鳴った。
誰も鳴らしていないのに、風だけで小さく揺れた鐘。説明板を読む澪の横顔。「ここまでして願った人がいたんだな、とは思う」という声。
あの言葉は、澪が悠に向けて言ったものではない。それでも、悠の中には残っていた。
澪の名前を呼びたいのか。それとも、呼んだことにしたくないだけなのか。
どちらにしても、あの鐘の前に立てば、何かを願ったことになってしまう。
それが嫌だった。
考えているうちに、部屋の空気が重くなった。
悠はそっと起き上がった。
枕元のスマホを見る。時刻は二十三時四十一分。
藤崎は隣の布団で、口を半開きにして眠っていた。嘘みたいに平和な寝顔だった。大野は布団から半分はみ出していて、川島は壁際で静かに寝息を立てている。
同じ部屋に三人もいるのに、誰も悠が起き上がったことには気づかなかった。
別に、鐘を鳴らしに行くわけではない。ただ、外の空気を吸うだけだ。少し歩いて戻るだけだ。
そういう言い訳なら、いくらでも作れた。
悠はジャージの上着を羽織り、音を立てないように部屋を出た。
廊下は薄暗く、非常灯だけが足元を照らしていた。旅館の裏手から、海沿いの遊歩道へ出ることができた。
夜の海は、昼間よりずっと近かった。
見えないのに、音だけがある。波がすぐそばで動いているのが分かる。風は冷たく、ジャージの袖口から入り込んできた。
星恋岬へ続く道には、足元灯が点々と埋め込まれている。
昼間はただの観光地だった看板が、夜になると少し違って見えた。
『星鳴りの鐘はこちら』
悠は息を吐いた。
本当にくだらない。
そう思った。
けれど、足は止まらなかった。
展望台へ上がる階段の手前には、小さな踊り場があった。
ベンチと案内板だけの、海を見下ろすには少し低い場所。昼間は誰も気に留めなかったが、夜になると、その半端な位置が妙に落ち着かなかった。
悠はそこで足を止めた。
階段の上、星鳴りの鐘のそばに、先客がいた。




