第1話 星恋岬
高校三年の春、修学旅行のしおりには、必要なことと、必要ではないことが、同じ熱量で書かれていた。
集合時間。持ち物。班別行動の注意事項。旅館での消灯時刻。先生の携帯番号。
そして最後の方のページに、なぜかこうある。
『星恋岬展望台――星鳴りの鐘を三度鳴らし、大切な人の名前を心の中で呼ぶと、恋が叶うと言われています』
「これ、いる?」
後ろの席で、誰かが笑った。
悠も、まあ、いらないとは思った。学校配布のしおりに恋愛成就スポットを載せるのは、修学旅行の浮ついた空気を差し引いても、少し攻めている。
けれど、笑えなかった。
三列目の左側、通路際の席で、白石澪が同じしおりを読んでいた。
真正面ではない。けれど、少し顔を上げれば、通路を挟んだ斜め前に彼女の横顔が入る。見ようとしなくても、ときどき視界に入ってしまう。
成績は学年でも上の方で、先生からの信頼も厚い。顔立ちも整っていて、男子が名前を出すときは、だいたい半分冗談で、半分本気だった。
けれど、悠が彼女を目で追ってしまう理由は、たぶんそこではない。
誰かが笑った言葉を、澪はすぐには笑わない。それが、誰かにとって大事なものかもしれないと、一度だけ考える。
悠には、そう見えていた。
澪なら、星鳴りの鐘のことを笑うだろうか。
たぶん、笑わない。信じるとか信じないとかではなく、誰かが大事にしているかもしれないものを、雑に笑ったりはしない。
そういう人だと思う。そういう人であってほしい、と思っているだけかもしれない。
どちらにしても、悠は笑えなくなった。
恋が叶う展望台。星鳴りの鐘。大切な人の名前。
くだらない。
そう言ってしまえば楽なのに、言えない。
その程度には、悠は白石澪のことが好きだった。
窓際は、冷房が少し効きすぎていた。肩口が冷える。悠は制服の上着を少し引き寄せながら、しおりを閉じた。
隣の席から、藤崎が身を寄せてくる。
「なあ、相沢。お前、誰の名前呼ぶの?」
「何の話」
「星鳴りの鐘。大切な人の名前を心の中で呼ぶと恋が叶うんだってよ」
「読んでるなら分かるだろ。心の中で呼ぶんだから、言う必要ない」
「そういう返しするやつが一番ガチなんだよな」
「どういう統計だよ」
藤崎は声を抑えて笑った。
藤崎は、軽い。軽いが、薄いわけではない。
人を茶化すけれど、踏みつけるほど無神経ではない。冗談の強度を見て、相手が本当に嫌がりそうなら引く。そういう距離の取り方ができるやつだった。
「白石さんとか?」
一瞬、息が詰まった。
藤崎は悪意なく言ったのだと思う。軽い冗談。誰にでも言うやつ。もし悠が本気で否定すれば、それはそれで不自然になるし、雑に流せば、そのまま何もなかったことになる。
だから悠は、しおりを膝に置きながら言った。
「そういうの、本人に聞こえたら迷惑だろ」
「うわ、まじめ」
「まじめじゃなくて普通」
「普通のやつはそんなにちゃんと怒らない」
怒ってはいない。ただ、澪の名前が笑いの中に置かれるのが嫌だった。
それだけだった。
藤崎は一度だけ悠を見て、それから少し肩をすくめた。
「まあ、白石さんなら分かるけどな」
「何が」
「いや、いい人じゃん」
その言い方は軽かった。けれど、馬鹿にしているわけではなかった。
悠は斜め前に視線を向けかけて、やめた。見れば、また藤崎に何か言われる。見なくても、澪がそこにいることは分かっている。
バスが大きくカーブした。
車内が少し傾き、誰かが小さく声を上げる。その拍子に、澪の長い黒髪が肩から少し滑った。彼女は何気なくそれを押さえ、振り返った。
目が合った、気がした。
いや、たぶん違う。澪はただ、車内の揺れに反応して顔を上げただけだ。悠を見たわけではない。こちらの方向に視線が流れただけで、その先にたまたま悠がいただけ。
それでも、胸の奥が一度だけ強く鳴った。
こういうのが、面倒くさい。
何でもないことに意味を見つけて、すぐにそれを取り消す。期待して、否定する。近づきたいと思って、踏み出す前に言い訳を探す。
好きだと言えるほど、何かをしているわけではない。ただ、見ているだけだ。
見ているだけの気持ちに、名前をつけていいのか、悠にはよく分からなかった。
「まもなく、星恋岬に到着します」
バスガイドの声が、車内のスピーカーから流れた。
先生がマイクを取り、班ごとの集合時間と注意事項を読み上げ始める。
星恋岬。
名前からして、逃げ場がない。
悠はもう一度しおりを開いた。
ページの隅に、小さなイラストが載っている。海を見下ろす展望台と、そこに立つ鐘。観光案内らしい柔らかな線で描かれたその絵は、信じる人だけを受け入れるように、妙に明るかった。
大切な人の名前を心の中で呼ぶと、恋が叶う。
悠は試しに、その一文から目を逸らさずにいた。
白石澪。
心の中で呼ぶだけなら、誰にも聞こえない。誰にも迷惑をかけない。何かを期待したことにすらならない。
それなのに、胸のあたりが落ち着かなかった。
名前を呼んだだけでこうなるなら、鐘など鳴らしたらどうなるのだろう。
いや、鳴らさない。鳴らすわけがない。
「相沢、顔赤くない?」
藤崎が横から覗き込んでくる。
「バス暑い」
「冷房効いてるけど」
「窓際は日差しが強いんだよ」
「今、海側じゃなくて山側だけど」
「うるさい」
藤崎が楽しそうに笑う。
その笑い声を聞きながら、悠は窓の外を見た。海の向こうで、太陽が細かく砕けている。
恋が叶う場所。
そんなものが本当にあるなら、叶える前に、まずはこの中途半端な気持ちの扱い方を教えてほしい。
好きなのか。憧れているだけなのか。ただ、澪のような人を好きでいられる自分でいたいだけなのか。
答えは出ない。
バスはゆっくりと速度を落とし、駐車場へ入っていった。




