第9話不意のデートと煮干しの約束
「あら、ごめんあそばせ」
帝国ヴィクトリア貴族学院の中央回廊。スカーレット・アグニスは手にした扇子で口元を覆い、艶然と微笑んだ。
足元には、ドレスの裾に足を引っかけられた平民の男子生徒が無様に這いつくばっている。
「前をよく見て歩かないから、このような無様な目に遭うのですわ。身分の低さだけでなく視界の狭さまで露呈するなんて……お可哀想なことですこと。おーほほほほ!」
「ひっ……す、すみません……!」
男子生徒が青ざめた顔でレポート用紙をかき集めて走り去ると、すかさずミリアが黄色い声を上げて拍手喝采を送った。
「さすがはスカーレット様ですわ! あのような分を弁えない平民、もっと踏みつけて差し上げればよろしかったのに!」
「……お疲れ様です、スカーレット様」
その隣で、クール無口なレムが淡々と短い労いの言葉を口にする。
「ええ、大したことではなくてよ。……さあ、教室へ戻りましょう」
扇子の影で、スカーレットは内心で激しく胃を押さえていた。
(……痛い! 今日はいびる前から胃が痛い! あの子、転んだ拍子に指を擦りむいてなかったかしら!? 放課後に職員室裏で軟膏と『王都水道局』への推薦状を渡さなきゃいけないのに、指を怪我してたらペンが握れないじゃないの……私の胃薬はどこ……!?)
◆
放課後、無事に男子生徒へ軟膏と推薦状を手渡し、取り巻きたちの無駄話に相槌を打ち続け――。
アグニス伯爵邸の自室に戻った瞬間、スカーレットはベッドへダイブした。
「……つ、疲れたぁあああああ……っ!」
手足を大の字に広げて天井を仰ぐ。
「今日も生き延びた……。平民をいびり倒し、裏で完璧な再就職ルートを敷き、セレスティーヌ様の逆鱗に触れることなく一日を終えられたわ……」
ぐぅぅぅぅ……と、静まり返った部屋に間抜けな音が響き渡る。
「……お腹が、空いたわ」
その瞬間、スカーレットの脳裏に鮮烈な光景が蘇った。
銀色に濁った濃厚なセメント色スープ。
パツパツと歯切れのいい低加水麺。
「……ダメ。思い出しちゃったわ! あの煮干しのビターな雫が、今無性に恋しいですわ……!!」
スカーレットはガバッと跳ね起き、普段着に濃紺のマントを羽織って財布を握りしめた。
「待っていなさい、煮干し! 今夜も私の傷ついた胃袋を満たして差し上げますわ!」
◆
夜の路地裏。
白木の格子戸の前に掲げられた藍色の暖簾――『麺処・青銀の雫』。
引き戸をガラガラと開けると、煮干しの香ばしい匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
厨房の奥、白い前掛け姿のレイン・クロイツが寸胴の前に立っていた。
「……特製濃厚煮干しそばを一杯。お願いいたしますわ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
カウンター越しに供されたのは、銀色に輝く至高の一杯。スカーレットはレンゲで銀色のスープをすくい、口へと運ぶ。
ずずっ……。
「……っはぁあああ……っ!」
一口含んだ瞬間、五臓六腑に染み渡る濃厚な煮干しの旨味とビターな苦味。
続いて、低加水の細麺を一気に啜り上げる。
「ずるるっ……んんっ……!」
「美味しい……! 今日の疲れも、胃のキリキリも、全部このスープが洗い流してくれますわ……!」
最後の一滴まで飲み干し、丼をコトッと置く。
「……ふぅ。大変、結構なお味でしたわ。ごちそうさまでした」
銀貨を置き、席を立とうとしたその時だった。
「――アグニス様」
振り返ると、エプロンを外したレインが真剣な眼差しで立っていた。
「な、何ですの? 代金ならぴったり置いてありますけれど」
「頼みがあるんです」
「頼み……? 修行の件なら誰にも言っていませんわよ?」
「いえ、そうではなくて。……私は、あなたが『ラーメンの本当の味』を正しく理解できる人だと思っています」
「……は?」
「この店に来る客の多くは、ただ珍しい味だと騒ぐだけです。ですが、あなたは違います。スープを舌の上で転がし、麺の歯ごたえを確かめ、最後の一滴まで素材のバランスを味わい尽くしてくれる。作り手には分かるんです」
レインは一歩踏み込み、まっすぐに頭を下げた。
「明日、私の仕込みが休みなんです。……私と一緒に王都の別の店へ行き、その店のラーメンを評価してくれませんか。あなたのような、本当に味の分かる方の意見を聞きたいんです」
スカーレットの脳内で言葉が反芻される。
『あなたがラーメンの本当の味を正しく理解できる人だと思っています』
『本当に味の分かる方の意見を聞きたい』
(……な、何ですって……!?)
セレスティーヌからは脅され、裏では無給の就職コンサルタントとして胃を痛める日々。
誰からも評価されなかったスカーレットの自尊心が、成層圏までぶち上がった。
(味の分かる人……! ラーメンの本当の味を理解できる女……! 私の舌が、ついにプロの料理人に認められたのですわ……!!)
スカーレットは胸を張り、扇子をパチンと広げてみせた。
「……ふふっ。お目が高いですわね、レイン!」
「……受けてくださるのですか?」
「ええ、よろしくてよ! この類まれなる私の舌で見極めて差し上げますわ! プロの料理人がそこまで頭を下げるのですもの、真実の評価を下して差し上げようではありませんか!」
「ありがとうございます、スカーレット様! では、明日の正午、中央広場の時計塔の前で」
「ええ、遅れずにおいでなさいな!」
◆
深夜、アグニス伯爵邸の寝室。
スカーレットはご機嫌でベッドに潜り込んだ。
「ふふ〜ん♪ 明日はどんなラーメンかしら。私の鋭い味覚で完璧なフィードバックをして差し上げますわ……」
枕に頭を乗せ、明日の予定を反芻する。
明日、休日。
場所は中央広場の時計塔前。
相手は、学園随一の美貌を持つ同年代の男子。
二人きりで、食事へ行く。
(………………へ?)
スカーレットの思考が完全に凍結した。
休日に。
男女が二人きりで。
待ち合わせをして。
食事に行く。
「――っっっ!!!!」
「そ、それって世間一般では完全に……『デート』じゃありませんことぉおおおおおおおおっ!?」
ベッドの上でガバッと跳ね起き、枕を抱えて絶叫する。
「な、なんで!? 私、ただ味を評価してくれって頼まれただけで……! でも客観的に見たら完全に男の人とのお出かけじゃありませんの!?」
『私は、あなたがラーメンの本当の味を正しく理解できる人だと思っています』
(あんなイケメンボイスで口説き文句みたいな台詞を言われて! 『お目が高いですわね!』なんてドヤ顔でノリノリで承諾しちゃったんですの私ぃいいいいっ!?)
もしミリアにバレたら『わたくしを振った男と抜け駆けデートだなんて!』と大号泣される。
もしセレスティーヌの耳に入ったら『色恋にかまけて任務を怠けるなんて』と即座に処刑台送りだ。
「ど、どうしましょう……! 断る!? いえ、『アグニス家の辞書に前言撤回はない』みたいな態度で引き受けた手前、今さら逃げるなんて貴族のプライドが許しませんわ……!」
枕に顔をぎゅうぎゅうと押し付け、足をバタバタと暴れさせる。
「ああっもう! ラーメンですわ! あれはただのラーメンの視察! 業務! 味覚のフィールドワークですわよ!!」
必死に自分に言い聞かせるが、耳たぶの熱さは一向に引かない。
「……何を着ていけばいいんですのよ、もう……っ!」
深夜の静かな寝室で、下っ端悪役令嬢は真っ赤な顔で悶絶し続けるのだった。
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