第10話味の監査と月大葉の真実
中央広場の時計塔の下。
スカーレットは薄くファンデーションを塗り重ね、扇子を握りしめて立ち尽くしていた。
(……一睡も、できませんでしたわ……!)
昨夜の「これは完全にデートなのでは」パニックのせいで、朝までベッドの上でのたうち回っていたのだ。
「落ち着きなさいスカーレット。これは視察、味覚のフィールドワークですわ……!」
「お待たせしました、アグニス様」
澄んだ声に振り返った瞬間、スカーレットの思考が再び停止した。
目の前に立っていたのは、制服を脱ぎ捨て、飾らないシンプルな黒のロングコートと白シャツに身を包んだレイン・クロイツ。
無駄な装飾が一切ないからこそ、その彫刻のように整った美貌と抜群のスタイルが際立っている。
(――っ、顔がいい……! 私服の破壊力が高すぎて眩暈がしますわ……!)
クラッとよろけそうになるのを、スカーレットは扇子で隠して強引に体勢を整えた。
「……え、ええ。遅れずによく来ましたわね」
「今日、味を見てほしい店はここです。案内します」
レインに先導されて路地を進むと、煉瓦造りの店舗の前に着いた。
掲げられた看板を目にした瞬間、スカーレットは眉をピクリと動かした。
「あら? このお店は……」
「ご存知ですか」
「王都の貴族街で最近噂の『麺処・翡翠亭』ですわね。高級食材の香草を使った上品なラーメンを出すとかで、令嬢たちの間でも話題になっていましたわ」
「ええ。入りましょう」
店内に足を踏み入れると、大衆店とは一線を画す落ち着いた空間が広がっていた。
カウンター席に通され、レインが店員に告げる。
「濃厚ラーメンを二つ」
「かしこまりました」
注文を終えた後、ふと静寂が訪れた。
(……ど、どうしましょう……!?)
スカーレットの内心はパニックだった。
休日に、年頃の男女が並んで座り、料理を待つ時間。
何を話せばいいのか。天気の話題? それとも学園のゴシップ?
「あの……レイン……?」
恐る恐る声をかけようと横を向いたが、レインは一切口を開かず、ただ静かに窓の外の遠くを見つめていた。
木漏れ日に照らされる冷徹な横顔。
絵画のように完成されたその美しさに、スカーレットは言葉を失い、さらに居心地の悪さと胸の高鳴りを募らせるしかなかった。
(……沈黙すら様になる男ですわね、本当に……っ)
「お待たせいたしました。『特製・濃厚ラーメン』です」
運ばれてきたのは、深みのある濃褐色のスープに、美しく整えられた麺とチャーシュー、そして緑鮮やかな香草が添えられた一杯。
湯気とともに立ち上る極上の香りに、スカーレットの緊張は一瞬で吹き飛んだ。
(……いい香り! 朝から何も食べていなかった私の胃袋が悲鳴を上げていますわ……!)
スカーレットは割り箸を割り、レンゲでスープを一口味わった後、無心で麺を啜り始めた。
「ずるるっ……ちゅるるっ……!」
いつもの深夜のストレス発散の癖。
無我夢中で麺を胃袋へと流し込んでいく。
「……ふぅ。ごちそうさまでしたわ」
最後の一滴までスープを飲み干し、ふと隣を見た瞬間――スカーレットの全身から血の気が引いた。
レインの丼には、まだ半分以上の麺が綺麗に残っていたのだ。
(………………へ?)
(淑女にあるまじき猛スピードで……男の人より早く……一瞬で完食してしまいましたわぁあああああっ!?)
顔から火が出るどころか、全身が消し炭になりそうなほどの恥ずかしさ。
だがレインは特に気にした様子もなく、自らのラーメンを淡々と平らげると、静かに立ち上がった。
「勘定は私が持ちます」
「えっ、あ、ちょ、ちょっと……!」
スマートに支払いを済ませるレインの後ろを、スカーレットは真っ赤な顔で俯きながらついていくしかなかった。
◆
「少し、落ち着いて話しましょう」
そう言ってレインがスカーレットを案内したのは、近くの落ち着いた喫茶店だった。
柔らかな日差しが差し込むテーブル席。運ばれてきた湯気立つ紅茶。
(ラーメンを食べた後に、カフェでお茶……!? こ、これはいよいよ言い逃れできない完全無欠の『デートコース』じゃありませんことぉおおおおっ!?)
カップを持つ手が震えるスカーレットに対し、レインは紅茶に一切口をつけず、極めて真剣な眼差しで切り出してきた。
「……アグニス様。さっきの店の味、どうでしたか」
冷徹で、真摯な料理人の目。
その視線を受け、スカーレットの中で渦巻いていた乙女のパニックがスッと引いた。
貴族としてのプライドと、毎夜培ってきたラーメン愛好家としてのスイッチが入る。
スカーレットは優雅に紅茶を一口含み、扇子をトンとテーブルに置いた。
「……味自体は、とても良かったですわ。ベースの鶏豚スープのコクも、熟成醤油のキレも文句のつけようがありません。ですが…」
「ですが……?」
レインが身を乗り出す。
スカーレットは琥珀色の瞳をまっすぐに向け、的確に言い放った。
「あの店が看板の売りにしている、『クロイツ産・月大葉』の繊細な風味――それが完全に、濃口醤油の強さに殺されて消えていましたわ」
「……っ」
「香草の爽やかな香りを立たせるべきなのに、カエシの塩分と脂が強すぎて、ただの飾りに成り下がっていましたのよ。食材の良さを活かしきれていない……実にもったいない一杯でしたわね」
淀みない、完璧な分析。
その言葉を聞いた瞬間、レインの瞳が驚愕に見開かれたのだった。
◇
「……やはり、そう思われますか」
レインは深く息を吐き出し、どこか吹っ切れたように小さく頷いた。
スカーレットは優雅に紅茶のカップをソーサーに戻し、カチャリと小さな音を立てる。扇子を指先で弄びながら、冷徹な微笑みを浮かべた。
「レイン・クロイツ……。あの店は、あなたの父親であるクロイツ子爵家が帝都で展開しているアンテナショップですわね?」
「……そこまで知っているとは」
「当然ですわ。学園から排除する生徒の家系、領地の特産品、家業の裏事情に至るまで、すべて私の頭の中に叩き込まれていますことよ」
下っ端悪役令嬢として、そして何よりセレスティーヌの粛清を避けるための「完璧な人事コンサルタント」として、情報収集の手を抜くことなど万に一つもあり得ない。
レインは驚きを隠すように目を伏せ、静かに語り始めた。
「……その通りです。私が子供の頃、実家の屋敷で働いていた元料理人が、領地で小さなラーメン屋を始めたんです。それが、私の原点でした」
窓の外を見つめるレインの横顔に、普段の冷徹さは微塵もなかった。
「領地の名産である『月大葉』の爽やかな香りを、澄んだ鶏清湯に溶け込ませた最高の一杯でした。私はその味に魂を奪われ、将来はラーメン職人になりたいと本気で願った。……ですが」
レインの拳が、テーブルの上でギュッと握りしめられる。
「数年前、父がその味を引っ提げて帝都に進出しました。しかし、当時の帝都では見向きもされず、大赤字を出した。焦った父は元料理人の反対を押し切り、流行りの『無難な濃口醤油』に路線変更を命じたんです。……皮肉なことに、それが大ヒットしてしまった」
「……なるほど。それで、本物の月大葉ラーメンは封印されたというわけですわね」
「ええ。父は売上と数字しか見なくなり、月大葉はただの『名産品アピールの飾り』に成り下がった。元料理人も店を去りました。……だから私は、あの本物の味を自分の手で蘇らせたいんです。父のやり方を否定し、帝都の連中に本当の美味さを認めさせたい」
レインは顔を上げ、まっすぐにスカーレットを見つめた。
その切れ長の瞳の奥に、燃えるような純粋な情熱が宿っている。
「食材の死を見抜き、味の真実を一瞬で言い当ててくれたのはあなただけです。……スカーレット様、俺が作る試作ラーメンの『味見の先生』になってくれませんか」
「は……? せ、先生……!?」
スカーレットは目を白黒させた。
だが――今のスカーレットの脳内環境は、完全に致命的な限界領域に達していた。
昨夜の「これはデートでは」悶絶による極度の睡眠不足。
先ほどラーメンを秒速で平らげたことによる、急激な血糖値の上昇。
そして何より、目の前の美男子から浴びせられる熱烈な視線。
思考の歯車がギシギシと音を立てて軋み、まともな判断能力が急速に失われていく。
「私には、あなたのように妥協なく味を評価してくれる人が必要なんです。……お願いできませんか」
そう言って、レインはふっと表情を緩めた。それは、普段の冷たい鉄面皮からは想像もつかない、どこまでも無防備で、春の陽だまりのように眩しい
――極上の笑顔だった。
(――っっっ!?)
ズキュン、とスカーレットの胸を何かが音を立てて貫通した。
頭がふわふわする。視界がピンク色に明滅する。
過労と満腹感と、イケメンスマイルの至近距離直撃。
完全に脳がショートしたスカーレットの口から、無意識のうちに言葉が滑り落ちていた。
「……は、はい……よろしくてよ……」
「本当ですか……! ありがとうございます、スカーレット様!」
少年のように相好を崩し、心底嬉しそうに頭を下げるレイン。
その眩しすぎる姿をぼんやりと見送りながら、スカーレットの意識の片隅で、冷徹な理性が急速に息を吹き返し始めていた。
(……あれ? ちょっと待ちなさい?)
冷めていく紅茶の湯気を見つめながら、背筋にツッと冷たい汗が伝う。
(私……今、何て言いました……? 味見の先生……? つまり、これからも定期的に彼と二人きりで密会する約束を……ノリと寝不足と顔の良さに流されて承諾してしまいましたの……!?)
もしこれがミリアに知られたら。
もしこれがセレスティーヌの耳に入ったら。
脳裏に浮かぶのは、泣き叫ぶ取り巻きと、処刑台で冷たく微笑む絶対権力者の姿。
(ひ、ひぃいいいいっ! 何やってますの私ぃいいいいっ!?)
引き攣った笑みを貼り付けたまま、下っ端悪役令嬢の胃は、かつてないほどの激痛で再び悲鳴を上げ始めるのだった。




