第16話揺れる天秤と剛鉄の食券機
帝国ヴィクトリア貴族学院の追放執務室。
スカーレット・フォン・アグニスは重く湿った溜息を吐き出した。
執務机の上には、ここ数週間で急速に勢力を拡大させている新興貴族同盟『オズヴァルド派』に関する調査報告書が、連ねて積み上がっている。
下級貴族への理不尽なみかじめ料の要求、平民特待生の私物破棄、反抗的な生徒への執拗な集団リンチ。
だが、彼らの本質は単なる粗暴なチンピラ集団ではない。
学園の有力派閥に連なる伯爵家や子爵家の令息たちが結託し、帝国の身分制を盾に取って学内の実権を握ろうと目論む、極めて政治的で陰湿な権力闘争の牙城であった。
彼らはあろうことか、その悪行を「帝国の純血と秩序を守るための崇高なる粛清」と嘯き、自らこそが「あのセレスティーヌ様の冷徹な意志を継ぐ正統な後継者」だと勝手に吹聴していたのである。
「……ただのチンピラ不良貴族なら、とっくに冤罪の一つもでっち上げて放逐の手配を完了させておりますわ。ですが……」
スカーレットは激しくズキつくこめかみを親指で押さえた。。
オズヴァルド派がここまで増長し、学園の秩序を脅かす規模にまで膨れ上がった背景には、他でもないスカーレット自身の「手落ち」があった。
(わたくしが……保身と胃痛に怯え、生徒を一人ずつ穏便に逃がすような小細工ばかりに腐心していたせいですわ……!)
セレスティーヌの粛清を恐れるあまり、問題児の適性を必死に吟味しては、裏でハローワーク紛いの再就職ルートを敷いて帳尻を合わせる日々。
目先の減点回避と延命措置に追われ、学園全体のパワーバランスを監視する余裕を失っていた。
その統治の緩みという名の空白地帯を、オズヴァルドたちにまんまと突かれたのだ。
もしこの醜態が本家本元のセレスティーヌの耳に入れば――『あら、わたくしの名前を騙る不届き者すら処理できないの?』と、オズヴァルド派どころかスカーレット諸共、アグニス伯爵家ごと消し炭にされる未来が目に見えている。
「スカーレット様……! お顔が真っ白ですわ!」
執務机の前に回り込んできたミリアが、今にも泣き出しそうな瞳でスカーレットの手を包み込んだ。
「ここ数日、ずっとため息ばかりついて、お食事も喉を通っていらっしゃらないのでしょう!? オズヴァルド派の横暴など、わたくしたちが何とかいたしますから、どうか少し横になって休んでくださいまし……!」
「……スカーレット様、心拍数不安定。胃粘膜の崩壊率、推定八割」
レムもまた、いつもの無機質な表情の奥にわずかな憂いを滲ませ、冷たい濡れタオルと濃縮胃薬の小瓶を机の上に並べた。
「……濃縮胃薬、ダブル投与推奨。無理は、禁物。……レムがオズヴァルドの首を刈ってきてもいい」
「物騒な冗談はおやめなさいなレム……。ミリアも、心配してくれてありがとう。でも、わたくしが倒れるわけにはいきませんの」
二人の献身的な優しさに胸を締め付けられながらも、スカーレットは引き攣った微笑みで首を横に振るしかなかった。
彼女たちには言えない。言えるはずがないのだ。
(伯爵令嬢に過ぎないわたくしに、あの公爵家の威光を背負った巨大な派閥を動かす資格なんて……本当にあるのかしら……?)
セレスティーヌ=ル=デポンは帝国の頂点に君臨する公爵家の令嬢であり、第一王子の婚約者。
その絶対的な家格と血も凍るようなカリスマがあってこそ、何十人もの高位貴族たちが平伏していたのだ。
傘下に連なる侯爵家や上級伯爵家の令息たちに対し、一介の伯爵令嬢でしかない自分が号令をかけたところで、一体誰が本気で命を預けて従うというのか。
(わたくしごときが、セレスティーヌ様の代行など……最初から分不相応な茶番だったのではなくて……?)
重圧、恐怖、そして己の無力感。
冷たい暗雲が心を覆い尽くしそうになったその時、ふと脳裏に鮮烈に浮かび上がったのは――。
薄暗い路地裏の厨房で、真剣な眼差しで寸胴の火を見つめていた、あの男の横顔だった。
『私には、あなたのように妥協なく味を評価してくれる人が必要なんです』
あの冷徹で人を寄せ付けなかったレイン・クロイツが、初めて真っ直ぐに自分を信じて向けてくれた言葉。
(……レインのところへ、逃げ出したい)
あの静かなカウンターに座り、あいつの作る温かいスープを啜って、何もかも投げ出してしまえたらどれほど救われるだろう。
――だが、次の瞬間、スカーレットは唇を強く噛み締め、自らの両頬をパチンと叩いた。
(何を情けない甘えを考えていますの、スカーレット! レインは、自分の夢に向かって一人で歯を食いしばって戦っているのですわ。わたくしが自分の職責から逃げ出してどうするのですの。)
「……ダメですわ。レインのことを考えていたら、らーめんが食べたくなってきてしまいましたわ。濃い脂と塩分を補給して、一度脳をリセットしなければ……!」
◆
夕暮れ時。スカーレットはフードを目深に被り、王都の裏路地に佇む新進気鋭の家系風ラーメン店『麺王・剛鉄亭』の暖簾をくぐった。
店内に立ち込める、ガツンと鼻腔を貫く濃厚な豚骨と焦がし醤油の野生的な匂い。
重圧に押し潰されそうな夜こそ、暴力的な塩分と熱い油で麻痺させなければやっていられない。
だが、入口のすぐ脇で待ち構えていたのは、店員ではなく――異界の古代魔導具を模した鉄の塊、『魔導食券発行機』だった。
「な、なんですのこれ……?」
金属板の上には、細かな魔導文字と数字が記されたボタンが百個近くびっしりと並んでいる。
『醤油並』『特製大』『ほうれん草増し』『麺硬め』『油抜き』……。
狙いの「並盛り・味薄め」が見つからず、スカーレットの額にじんわりと冷汗が滲んだその時だった。
ガラリッ!
背後の引き戸が乱暴に開き、屈強な冒険者風の男二人組が入ってきた。
男たちは食券機の前で固まるスカーレットの背後にピタリと密着し、腕組みをしながら舌打ち混じりに呟いた。
「ちっ、並んでるぜ」
「おいおい、さっさと選んでくれよ……腹減ってんだからよ」
――ゾワッ!
(ひ、ひぃいいいいっ! う、後ろに人が並ばれましたわぁあああっ!)
背中に突き刺さる無言の殺気と重圧。
早くしなければ怒鳴られるという強烈な焦燥感。
学園の派閥争いなど比べ物にならないほどの、純粋で暴力的な「券売機プレッシャー」がスカーレットの脳内を完全にショートさせた。
(あ、あああ、もうどこでもいいですわぁああああっ!!)
自暴自棄になった指先が、盤面の中で一番目立つ左上の巨大な赤いボタン『特製・剛鉄ラーメン(全部乗せ・極太麺大盛り・背脂マシ)』をバンッと勢いよく連打していた。
◆
カウンター席に逃げ込み、呆然と待つこと数分。
「へいお待ち! 特製全部乗せ、大盛り背脂マシね!」
ドスン、とカウンターを揺るがして叩きつけられた巨大な丼。
そこには、厚切りの煮豚チャーシューが花びらのように敷き詰められ、海苔の屏風がそびえ立ち、雪崩のような純白の背脂とニンニクが山を成す、まさにカロリーの要塞が鎮座していた。
(な……なんという凶悪な質量……!)
しかし、普段のスカーレットならば、この程度のデカ盛りなど気合と胃袋でねじ伏せて完食できたはずだった。
アグニス家の辞書に『お残し』の文字はない。
スカーレットはドレスのコルセットを限界まで緩め、覚悟を決めて割り箸を割った。
レンゲでドロリとした茶褐色のスープをすくい、極太の縮れ麺を無理やり胃袋へと流し込んでいく。
ガツンと殴りつけてくる濃厚な豚骨醤油の塩分と、背脂の圧倒的な甘み。
旨い。
確かに暴力的で旨いのだ。だが――。
(……うっ……入っていきませんわ……!)
連日の極限ストレスと恐怖で、スカーレットの胃壁はとうに悲鳴を上げていた。
麺を半分ほど食べたところで、喉の奥がピキリと拒絶反応を起こし、胃袋が強烈な満腹シグナルを乱打し始める。
「ぐ、苦しい……もう一ミリも入りませんわ……」
カラン、と割り箸が手から滑り落ちた。
肩で息をしながら、スカーレットは半分以上残った丼を呆然と見つめた。
残してしまった。
最後まで食べ切ることすらできず、後ろの男たちの視線に怯えて自滅し、無様な姿を晒してしまった。
令嬢として、そして何よりラーメンを愛する一人の人間としての誇りまでもが、ズタズタに引き裂かれていた。
(……わたくしは、一体何をやっておりますの……?)
なぜ、こんな無様なことになったのか。理由は明白だ。
後ろの男たちの視線に怯え、プレッシャーに負けて焦り、自ら望みもしないボタンを連打して逃げ出したからだ。
(そうですわ……! 周りの威圧感に呑まれて勝手に焦るから、こうして選択を間違えて自滅するのですわ!)
オズヴァルド派も同じだ。
なぜ自分は、伯爵令嬢だからと引け目を感じ、敵の勢力に気圧されていたのか。
セレスティーヌの名代を任されたのは他でもない自分自身であり、逃げ腰になっていたからこそ付け入る隙を与えたのだ。
自分一人で抱え込む必要などない。
こちらには、セレスティーヌ様の名のもとに集う圧倒的な「本物の暴力(組織力)」があるではないか。
(プレッシャーに屈して自分を見失うのは、もうこのラーメンだけで十分ですわ……!)
屈辱の涙をシルクのハンカチで拭い、スカーレットは背筋をピンと伸ばして立ち上がった。
その琥珀色の瞳には、冷徹で揺るぎない覚悟の炎が燃え盛っていた。
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