14話禁止令と夜鳴きそば
「……わたくしに、死ねとおっしゃる気かしら?」
追放執務室にて、スカーレットは机の上に叩きつけられた羊皮紙を睨みつけ、震える声で呻いた。
羊皮紙に踊る仰々しい文字は、貴族院風紀委員会が全学徒へ通達した緊急布告。
『王都治安維持および風紀粛正に関する特別夜間外出禁止令』
夜間の無用な外出の全面禁止、および下層街や歓楽街の飲食店への立ち寄り厳罰化。
違反者は即刻「停学および親権者への通報」、すなわち社交界からの追放を意味していた。
もし万が一、この禁令を破って下民のラーメン屋に潜入している姿がセレスティーヌの耳にでも入れば、「貴族の品位を著しく汚した」として一族ごと処刑台行きである。
「日中は無能どもの就職斡旋で頭を抱え、夜は胃袋を癒やすことすら許されないなんて……! 誰がこんな悪法を考えつきましたの!?」
机の上には、ミリアが気を利かせて差し入れてくれた最高級サロンのマカロンとスコーンが並んでいる。
だが、今のスカーレットが求めているのは砂糖の甘みではない。暴力的な豚骨の脂、舌を刺す塩分、そして脳天を直撃するニンニクの刺激なのだ。
「塩分……背脂……極太麺……誰かわたくしに熱々の油を……」
「スカーレット様、うわ言のように脂を連呼なさらないでくださいまし……!」
ミリアが涙目でハンカチを握りしめ、レムが無言で特製胃薬の小瓶を差し出してくる。
しかし、空っぽの胃袋と擦り切れた神経に、薬など何の気休めにもならなかった。
◆
深夜一時。
禁断症状による頭痛と激しい胃痛に苛まれ、ベッドの上でのたうち回っていたスカーレットの耳に、ふと奇妙な音が届いた。
ぴーひょろろ……ぴーひょろ……。
風に乗って夜空を揺らす、どこか哀愁を帯びた細い笛の音。
(……な、なんですの、この音色は……?)
スカーレットは重い身体を起こし、部屋着の上に濃紺のマントを羽織ると、窓辺へと歩み寄った。
カーテンの隙間から階下の裏庭を見下ろす。
アグニス伯爵邸の通用門の脇、夜の深い闇と外壁の死角に――小さな赤い提灯が、ぽつりと一つ灯っていた。
木製の小さな荷車。
そこから、ゆらゆらと白い湯気が立ち上っている。
提灯の薄明かりの下、黒いフードを目深に被り、寸胴の前に立っていたのは――。
「……レイン・クロイツ……!?」
スカーレットは目を見張り、即座に気配を消して部屋を抜け出した。
◆
冷たい夜風が吹き抜ける裏庭。
通用門を抜けた暗がりへ駆け寄ると、スカーレットは扇子を構え、声を潜めて鋭く問い詰めた。
「レ、レイン!? あなた、正気ですの!?」
「通達の件は知っています」
寸胴の蓋を静かに開けたレインは、立ち上る湯気の向こうから、いつもの冷徹で整った美貌を覗かせた。
「昼間、アグニス様が苦しんでおられると、ある方から聞きました。……店に来られないなら、私が作って持ってくるしかありません」
「なっ……」
「座ってください。見張りの巡回ルートは把握しています。通り過ぎたばかりですから、あと十分は誰も来ません」
荷車――いや、見事な造りの移動式屋台の前に、小さな折りたたみベンチが置かれていた。
レインは慣れた手つきで平ザルを振り、湯切りした麺を小ぶりの丼へと滑り込ませる。
「――お待たせしました。『屋台仕立て・夜泣き月大葉中華そば』です」
差し出された丼を目にした瞬間、スカーレットの喉がゴクリと鳴った。
月明かりに照らされ、琥珀色に透き通る鶏ガラスープ。
その表面には、エメラルドグリーンの月大葉香味油がキラキラと星のように浮かんでいる。具材は薄切りの煮豚が一枚と、細裂きメンマ、そして夜風にそよぐ白髪ネギ。
「……いただきますわ」
震える指で割り箸を割り、レンゲで熱々のスープをすする。
ずずっ……。
「……っっあぁああっ……!」
口いっぱいに広がる、滋味深く力強い丸鶏の旨味。
そして直後、月大葉の気品ある柑橘の薫香が、疲弊しきった脳の隅々を吹き抜けていく。
続いて、細麺を一気に啜り上げる。
ずずずっ、ちゅるるっ……!
(美味しい……! 身体中の細胞が、生き返っていくようですわ……!)
深夜の冷たい空気の中で啜る、熱々の麺とスープ。
禁令を犯し、夜の静寂の中で二人、肩を並べてすする背徳感。
そのすべてがスパイスとなり、至高の味わいへと昇華されていく。
無我夢中で麺を手繰り、最後の一滴までスープを飲み干したスカーレットは、ほぅ、と温かい息を吐き出した。冷え切っていた指先と頬に、じんわりと血色が戻っていく。
「……ふぅ。大変、結構なお味でしたわ」
「……良かった。少し、顔色が戻りましたね」
レインが安堵したように、ふっと口元を緩める。
その無防備な笑顔の破壊力にスカーレットの心臓が小さく跳ねた、まさにその時だった。
カツン、カツン――。
路地の角から、規則正しい硬質な足音が響いてきた。
「――誰かそこにいるのか!?」
太い怒号とともに、魔導ランタンの青白い光が裏庭の壁を舐めるように差し込んでくる。
(し、しまった……! 見回りの巡回が、予定より早いですわ……!?)
逃げる隙も、屋台を隠す時間もない。
スカーレットの全身から血の気が引いた。
「っ……!」
次の瞬間、レインがスカーレットの手首を強く引き寄せた。
屋台の幌と外壁のわずかな隙間――闇に沈む狭隘な空間へと強引に引き倒される。
ドンッ、とスカーレットの頭のすぐ横の壁にレインの手が突かれた。
二人の身体が、隙間なく密着する。
(ひ、ひぃぃぃ……っ!? ち、近いですわ! 近すぎますことよ……!!)
互いの吐息が触れ合うほどの至近距離。
暗闇の中で静かに息を潜めるレインの切れ長の瞳と、彫刻のように完成された横顔が、間近でスカーレットを射抜く。
ドクン、ドクンと、早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音。
胃痛などとうに吹き飛び、全身が火照るような熱さが駆け巡る。
「……動かないで」
耳元で囁かれた低く澄んだ声に、スカーレットは声もなく硬直した。
ランタンの光が屋台のすぐ脇を通り過ぎる。あと数歩でこちらを照らされる――その瞬間。
カラン、コロン!
遠くの路地の屋根の上から、小石が跳ねる乾いた音が響いた。
「……むっ!? あっちか!」
見回りの衛兵たちは声に反応し、足早に闇の向こうへと走り去っていった。
遠くの屋根の上に、月光に照らされた長い青髪が一瞬だけ揺らめき、闇の中へと消えるのが見えた。
◆
「……ふぅ。助かりましたね」
レインが身体を離し、息を吐いた。
スカーレットは沸騰しそうなほど真っ赤になった顔を扇子で隠し、掠れそうな声を必死に整えてツンと顎を上げた。
「……ふ、ふん! 美味しかったですけれど、少しスープの温度が下がっていましたわね! 減点ですわ!」
「厳しいですね。屋台の魔導保温器に、もう少し改良が必要なようです」
レインは困ったように眉を下げつつも、どこか誇らしげに微笑んだ。
「でも、アグニス様の顔色を見たら安心しました。……また限界になったら呼んでください。帝都のどこにいようと、あなたのためにラーメンを作りに行きますから」
(な、何を少女漫画のヒーローみたいな台詞を平然と吐いてますの、この男はぁあああっ!?)
内心で絶叫しながら、スカーレットはそっぽを向いて小さく頷いた。
「……今夜のところは見逃して差し上げますわ。さあ、疾風の如く撤収なさい!」
リヤカーを引き、闇夜へと静かに消えていくレインの背中を見送りながら、スカーレットは熱くなった胸を押さえて自室へと戻るのだった。
◆
翌朝。追放執務室の豪奢な扉を開けたスカーレットの顔には、かつてないほどの輝きと生気が満ち溢れていた。
「おはようございます、皆様!」
「まあ、スカーレット様! 昨夜までのやつれ具合が嘘のように、お肌がツヤツヤでいらっしゃいますわ!」
目を丸くするミリア。
その横で、長い青髪を揺らしたレムがすっと歩み寄り、無表情のままスカーレットへ囁いた。
「……スカーレット様。昨夜の陽動代。……屋台の中華そば、一杯希望」
「ひっ……! な、何のことかさっぱり分かりませんわ!」
扇子をバタバタと仰いで赤面するスカーレット。
そこへ、息を切らせたクラリッサが廊下から飛び込んできた。
「アグニス様、大変です! 貴族院から緊急の通達が掲示されました!」
「……通達? また新たな禁止事項ですの?」
スカーレットが眉をひそめると、クラリッサは掲示板の写しを広げて見せた。
「いえ、逆です! 例の夜間外出禁止令ですが……夜会帰りの生徒たちや、深夜営業を潰された商業ギルド、さらには『夜の帝都の活気を削ぐな』という上位貴族たちから凄まじい数の猛抗議が殺到したらしく……わずか一日で、完全撤回が決定いたしました!」
「……は?」
スカーレットの思考が一瞬、停止した。
(わ、わたくしが昨夜味わった、あの死ぬほどのスリルと……壁ドン密着の心臓破裂イベントは……一体何でしたの……!?)
「まあ、良かったですわねスカーレット様! これで夜のお散歩も自由ですわ!」
能天気に手を叩くミリアの横で、レムが無表情に呟く。
「……禁令、無駄死に」
「あ、あ、あ……ああっもう、皆様! 本日の追放業務を始めますわよぉおおおおっ!!」
怒りと羞恥に顔を真っ赤に染め上げ、下っ端悪役令嬢は扇子を机に叩きつけるように振り下ろすのだった。
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