第三話 悪役令嬢は顔で馬を選ぶ
「それで、私は具体的に何をすればいいの?」
翌朝、ヴィオレッタ様は私の部屋までやってきた。
昨日、私から「モテない」「殿下に媚びている」「お金を出す機械と同じ」と言われた女性とは思えない。
怒って解雇しに来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「殿下に振り向いていただくには、何を変えればいいの?」
私はベッドの上で毛布を抱えたまま考えた。
ヴィオレッタ様は美しい。
家柄も教養も申し分ない。
足りないのは、殿下との個人的な関係だ。
王子と婚約者ではなく、一緒に過ごして楽しいと思える関係。
そのために最も手っ取り早い方法は――。
「競馬ですね」
「……競馬?」
「はい」
ヴィオレッタ様は、私が寝ぼけていないか確かめるように顔をのぞき込んだ。
「王都競馬場で馬を走らせ、勝つ馬に賭ける、あの競馬?」
「他に競馬があるんですか?」
「そのような、はしたない遊びを私にしろと言うの?」
この国では、競馬はかなり人気がある。
もともとは軍馬や種馬の能力を競うために始まったらしいが、今では王家や大貴族が自慢の馬を出走させる一大娯楽になっている。
貴族は専用の観覧席から馬を眺め、庶民は外周の席で声を張り上げる。
上品な服を着ていても、賭けた馬が負ければ全員同じ顔をする。
非常に平等な場所である。
「まず、男というものについて説明します」
「競馬の説明をなさい」
「競馬を説明するために、男から説明します」
「馬と同じように言わないで」
馬の方が分かりやすいと思う。
嫌なら騎手を振り落とすし、走りたければ走る。
男性は嫌なのに笑ったり、好きなのに距離を取ったりする。
「男性は、恋人であると同時に、友達のように付き合える女性を好みます」
「友達?」
「はい。一緒に遊べて、くだらない話ができて、自分の好きなものを理解してくれる女性です」
ヴィオレッタ様は納得していない顔をした。
「恋人と友人は別でしょう」
「別です。でも、友達のような雰囲気を出せる女性は強いんです」
恋愛だけで関係を作ると、話題が二人のことばかりになる。
私のことが好きか。
どれくらい好きか。
他の女性を見ていないか。
しかし共通の趣味があれば、もっと気楽に一緒にいられる。
同じものを見て笑い、次はどこへ行くか話せる。
「リリア様がまさにそうです」
ヴィオレッタ様の表情が固くなった。
「彼女は庶民出身ですから、殿下に対しても気さくです。少し男勝りで、殿下とも友人のように話します」
「礼儀を知らないだけではなくて?」
「礼儀を知らないことが、恋愛では良い方向に働いています」
世の中は不公平だ。
何も知らない人間の失敗は、無邪気で可愛いと評価される。
正しく振る舞う人間は、堅苦しいと言われる。
ならば、正しい人間はどうすればいいのか。
相手の武器だけ借りればいい。
「ヴィオレッタ様がリリア様の真似をする必要はありません。殿下との共通の話題を作ればいいんです」
「それが競馬なの?」
「はい。レオンハルト殿下は競馬がお好きです」
ヴィオレッタ様は黙った。
知ってはいたらしい。
「殿下は王家の厩舎に、ご自分の競走馬をお持ちです」
「存じています」
「その馬の名前は?」
ヴィオレッタ様は答えない。
「得意な距離は?」
さらに黙る。
「最近の成績は?」
静かに睨まれた。
答えられないときに睨むのは、貴族の礼儀なのだろうか。
「リリア様は競馬を好みません」
「そうなの?」
「動物を競わせて賭け事をするのはかわいそうだと、殿下に話したそうです」
「あの方らしいわね」
「殿下は最近、競馬場へ行くのを控えようとなさっています」
「どうして?」
「嫌われたくないからでしょう」
ヴィオレッタ様の眉が動いた。
自分のためには変わらなかった男が、別の女性のために趣味をやめようとしている。
これは腹が立つ。
恋愛はしない私にも分かる。
「ですが、これは機会でもあります」
私は人差し指を立てた。
「殿下は、自分の好きなものを一緒に楽しめる相手を失おうとしています」
「そこに私が入るのね」
「そうです。競馬を覚えて、殿下の馬について話せるようになる。そうすれば、二人だけの共通の話題ができます」
「でも、私は競馬を知りません」
「覚えればいいでしょう」
私は笑った。
「勉強は得意ですよね」
ヴィオレッタ様は少し考え、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。殿下に媚びるのではなく、殿下がお好きなものを理解するのね」
「一度、自分で見てみればいいんです。つまらなければ、その後やめればいい」
「分かったわ」
理解が早い。
美人で、頭がよく、素直に学ぶこともできる。
やはり素材はいい。
展示方法を間違えていただけなのだ。
「では、説明は以上です」
私はベッドから降りた。
良い仕事をした。
昨日の暴言も、これで多少は許されるだろう。
あとは競馬について書かれた本を何冊か渡せばいい。
「待ちなさい」
部屋を出ようとした私の肩を、ヴィオレッタ様がつかんだ。
「今日、王都競馬場で春季競走会があるわ」
「そうですね」
「一緒に来なさい」
「嫌です」
即答した。
「なぜ?」
「休日なので」
「私に競馬を学べと言ったでしょう」
「本で学べます」
「自分の目で見ろとも言ったわ」
「ヴィオレッタ様が見ればいいんです」
「初めての場所へ一人で行けと言うの?」
「護衛も侍女もいるでしょう」
ヴィオレッタ様は目を細めた。
「あなたも侍女でしょう」
忘れていた。
「私はお話し相手に近い立場です」
「では、お話し相手として来なさい」
「今日はあまり話したくありません」
「命令よ」
権力。
話し合いを諦めた人間が使う最終兵器である。
こうして私は、ヴィオレッタ様と競馬場へ行くことになった。
王都競馬場は、王宮から馬車で半刻ほどの場所にある。
広大な競走路を囲むように観覧席が並び、王家や大貴族の旗が風になびいていた。
貴族用の席には、着飾った男女が集まっている。
競走馬を所有することは富と名誉の象徴でもあり、社交の場としても人気があるのだ。
ただ、ヴィオレッタ様は目立ちたくないと言った。
私たちはつばの広い帽子をかぶり、貴族席の端に座った。
護衛は少し離れた場所にいる。
「思ったより騒がしいのね」
ヴィオレッタ様が周囲を見回した。
「お金を馬に預けている人たちですから」
「預けているのではなく、賭けているのでしょう」
「戻ってくると信じている間は預金です」
私は競走表を開いた。
今日の主競走には八頭の馬が出る。
前走の順位。
距離への適性。
血統。
騎手との相性。
競馬は考えることが多い。
だから面白い。
人間より馬の方が、過去の行動から未来を予測しやすい。
「私は三番のストームレインにします」
「なぜ?」
ヴィオレッタ様が競走表をのぞき込んだ。
「最近の成績が安定しています。今日と同じ距離でも二度走って、二度とも二着以内です」
「そう」
「ヴィオレッタ様は?」
彼女は競走路へ入ってきた馬たちを眺めた。
黒い馬。
栗色の馬。
銀色の毛が混じった馬。
歩き方や筋肉を見ているのだろうか。
初めてにしては真剣だ。
「七番にするわ」
「シルバーナイトですか」
「ええ」
「理由は?」
「顔がいいわ」
私はヴィオレッタ様を見た。
「顔?」
「一番、気品のある顔をしているもの」
「馬の気品で勝敗は決まりませんよ」
「でも、勝ちそうな顔をしているわ」
「シルバーナイトは最近三走、すべて五着以下です」
「今日は勝つかもしれないでしょう」
「それなら全部の馬に可能性があります」
「なら、顔のいい馬を選ぶわ」
駄目だ。
この人は競馬に向いていない。
私は自分の給料の一部をストームレインに賭けた。
ヴィオレッタ様は、私の三倍をシルバーナイトに賭けた。
金持ちはこれだから嫌だ。
こちらが生活を懸けて出した金額を、顔だけで軽く超えてくる。
やがて発走を知らせる鐘が鳴った。
馬たちが一斉に走り出す。
観客席から大きな歓声が上がった。
ストームレインは三番手につけている。
対するシルバーナイトは後方だ。
「ほら、七番は後ろです」
「まだ始まったばかりよ」
「位置取りは重要なんです」
私は得意げに説明した。
最後の曲線に入る。
ストームレインは順調だ。
勝てる。
給料が増える。
今月は高いお菓子を買おう。
そう考えた瞬間、後方にいたシルバーナイトが外へ出た。
一頭。
また一頭。
次々と前の馬を抜いていく。
「えっ」
声が出た。
「七番!」
ヴィオレッタ様が立ち上がった。
いつもの落ち着いた声ではない。
普通の女の子の声だった。
「行きなさい、シルバーナイト!」
「三番、頑張って。私の給料が懸かってるから」
「七番よ!」
「三番です!」
二頭が並ぶ。
ストームレインがわずかに前へ出る。
いける。
そう思った瞬間、シルバーナイトが首を伸ばした。
ほとんど同時にゴールを通過する。
判定を待つ間、私は祈った。
神様。
異世界に転生させた件は許します。
だから三番を勝たせてください。
やがて結果が掲示された。
一着、七番。
シルバーナイト。
「勝ったわ!」
ヴィオレッタ様が私の腕をつかんだ。
「見た? 私の馬が勝ったわ!」
「私の給料が……」
「顔で分かったのよ。あの馬は勝つ顔をしていたもの」
「顔で競馬をしないでください」
「あなたはあれだけ調べて負けたのね」
「一度勝っただけの初心者が、一番言ってはいけない言葉です」
ヴィオレッタ様は声を上げて笑った。
殿下の前でも、令嬢たちの前でも見せない顔だった。
未来の王妃ではない。
ただ競馬に勝って喜んでいる、十六歳の女の子の顔。
なるほど。
これは強い。
この顔を殿下に見せれば、今までとは違う関係を作れるだろう。
それなのに私は、少しだけ思った。
殿下に見せるのは、なんだかもったいない。
「次の競走も賭けるわ」
「やめた方がいいです。初心者が最初に勝つと危険です」
「次はどの馬の顔がいいかしら」
「私の分析も聞いてください」
「負けた人の?」
「帰りますよ」
「嫌よ。次も見るわ」
「私の休日なんですけど」
「あなたも楽しんでいたでしょう」
否定しようとした。
仕事だ。
恋愛指南の一環だ。
仕方なく来ただけだ。
でも、言葉が出なかった。
前世の私は、誰かと出かけるのがあまり好きではなかった。
相手が楽しんでいるか気にするのも、自分が楽しそうに見えているか考えるのも疲れた。
一人なら、何も考えなくていい。
だから一人が好きなのだと思っていた。
けれど、隣で競走表も読まず、馬の顔だけで大金を賭けているヴィオレッタ様を見ていると、少しだけ思う。
こんな友達がいたら、前世ももう少し楽しかったのだろうか。
「何をぼんやりしているの?」
ヴィオレッタ様が私の顔をのぞき込んだ。
「別に」
私は次の競走表を開いた。
「次は絶対に勝ちます」
「次も顔で選ぶわ」
「競馬をなめないでください」
「負けたくせに」
「それ以上言ったら、殿下への助言をやめますよ」
「それは困るわ」
ヴィオレッタ様は笑いながら、私の腕を引いた。
二人で次の馬を見に行く。
私はヴィオレッタ様に、殿下との遊び方を教えるつもりだった。
でもその日、初めて誰かと遊ぶ楽しさを教わったのは、たぶん私の方だった。




