22
本郷先輩はマジックペンを手に取り、キャップを外した。きゅぽん、と軽い音が響く。
私はパイプ椅子に腰を下ろし、背筋を正した。玉梓は相変わらず真夏の膝上にいて、不服そうに耳を動かしている。カルラはというと床に足を投げ出していたものの、真夏に勧められると、おずおずと彼女の隣の席へよじ登った。
「まずはおさらいといこうか。塚貝、双魂にはどんな特徴があった?」
「えーと、たしか三つのパターンがあって。真夏は最後に当てはまるんですよね」
先輩が短く首を縦に振った。
「その通り。ここは話の前提だからな、それぞれについて詳しく解説しよう」
先輩はホワイトボードの前に立ち、ペンを走らせた。「1」から「3」の数字が左端、その横に「器」と「霊」の綺麗な文字が並んだ。
私がその達筆ぶりに感心していると、彼は「1」を赤ペンで囲い、僅かに口元を緩めた。
「パターンその一。憑依体が宿主に対して優位な形だ。この場合、肉体の主導権は霊体が握ることになる」
器<霊
文字同士の間に、左不等号が書き足された。なるほど、これならわかりやすい。教科書をそのまま写すだけの授業より、ずっと頭に入りやすかった。
「玉梓。お前の言うこの「器」についてだが……力、もしくはそれを伴う霊体を受け入れられる許容量、という解釈でいいか?」
先輩からの質問に、玉梓はこくりと頷いた。
「ああ。それで良い。いちいち訂正するのも面倒だからな」
「非常に的確な表現だ。今後も参考にさせて貰う」
かつかつとペンの反対側でホワイトボードを叩いてから、彼は窓際のバスケットから紙コップを手に取った。ハーブティーを淹れるのに使った余りだという。
「これを仮に器と定義して、霊体優位型は入れた中身が溢れたような状態だ。中身が釣り合っていないため、力を受け止め切れない」
「溢れ……じゃあ、もとの宿主のほうはどうなっちゃうんですか」
私の疑問に、玉梓が淡々とした口調で告げた。机の上に突っ伏して、組み上げた腕に頭を載せている。
「……消えるんだ。綺麗さっぱりとな」
一瞬、時が止まったような感覚を覚えた。私の背筋にひやりとしたものが流れる。
そんなの嘘だよね、と言いかけた。けれど、黙ったままの二人の顔を見て、喉元まで来たその言葉は呑み込むしかなかった。
先輩から強奪した紙コップをくるくると回し、玉梓が嫌そうな顔で呟いた。
「霊に負けた器の人格は、だんだんひしゃげて壊れていく。最後は自分が誰だったのかすら忘れて、存在そのものが溶けてなくなるんだ」
本郷先輩が目尻を押さえた。苦虫を噛み潰したような表情で、呻くように口を動かした。
「それだけではない。宿主の人格が消失した瞬間、肉体は霊体の本来の性質に引っ張られる。芋虫が蝶に羽化するように、まったく別の身体に変化する」
彼はそこで言葉を切り、窓のほうを向いた。カーテン越しに夕暮れが迫っているのがわかった。
「こうなってしまえば、もはや死体すら残らない。有機物からアストラル体へ補完されてしまえば、この世にいないも同然だからな。宿主には実質、完全な消滅が待っている」
ぐしゃり、と玉梓が紙コップを押し潰した。容器として役に立たなくなったそれは、彼女の手のひらで燃え、跡形もなく消えてしまった。
私は、自分の腕に鳥肌が立っているのに気づいた。自然と腕を抱き抱えた。
本郷先輩が替えのコップを手に取り、ワイングラスを揺らすように手首を捻った。「2」の数字が赤丸で囲われる。
「パターンその二はこの逆だ。器に力が完全に収まり、憑依体でなく宿主が主導権を得る」
器>霊
今度は右不等号が書き足された。先輩は紙コップを再びテーブルに安置すると、指先で縁をなぞった。
「だがこちらにも問題はある。宿主が憑依体を制御するためには、必然的に霊体は格の低いものにならざるを得ない。そのぶん、どうしても双魂としての戦力的価値は低くなる」
「わたしみたいな妖怪の霊体は、そこらの怨霊なんかよりよっぽど強いからな。器に収まったとしても、並の人間じゃ喰われるのがオチだ」
気怠げに頬杖をつく玉梓。私はふと、カルラのほうへ目を向けた。
「そういえば、幽霊と妖怪って違うの? 玉梓が出てくる前から私、烏天狗のこと見えてたけど」
「烏天狗じゃない、狩楽様だろ」
私が睨みつけると生意気天狗は途端に縮み上がった。真夏のほうへ助けを求める視線を向けたカルラに、玉梓は汚いものでも見るような冷たい目でまったをかける。
「真夏はわたしのだからな。他をあたれ」
きっぱりと断言しきった狐っ子をなだめる真夏は複雑な表情を浮かべていた。嬉しいような、困ったような、そんな顔。彼女はぴくぴくと揺れる狐耳の側で、囁くように呟いた。
「ねえタマ? できれば皆と仲良くしてくれると私、嬉しいんだけど……」
「……こいつらはおまえとは違う。理由なんてそれだけで十分だ」
玉梓は両腕を机の上に置き、前のめりな姿勢になった。頭を腕に載せ、明後日の方向へ視線を投げる。うっすらとカーテンの映る紅色の双眸は、どこか遠くを見つめているようだった。
本郷先輩が小さく息をつき、持っていた紙コップを私に手渡した。
「……話が逸れてしまったな。塚貝、妖魔領域の危険性は覚えているな?」
「嫌ってくらいに。ポルターガイストですよね」
「そこだ。そこに妖怪と怨霊の決定的な違いがある」
先輩はホワイトボードの端に、トイレの標識みたいな人形を描いた。マジックペンがちょうど胸のあたりから人形の外をなぞる。
「怨霊の類は人の思念が妖力に変換されて存在している。つまり、これらはもともと人間だ。しかし、妖狐や天狗といった妖怪たちはその限りではない。俺たちと同じように、生まれつき肉体を有している」
「えっ、でも玉梓は……」
ぎい、とパイプ椅子が軋む音が私の言葉を遮った。いつの間にか目を伏せていた玉梓のお腹を、真夏が腕を回して引き寄せていた。
「タマは妖力が意思を持ってるみたいな状態だから、妖怪より霊体のほうが近いの」
「……あんな吹けば消えるような雑魚どもと一緒にするな」
「してないってば。タマはタマだもん。そうでしょ?」
「……わかってるならいい」
心なしか、玉梓の表情が幾分和らいだような気がした。身体を共有してるから当然なのかもしれないけど、玉梓はやっぱり真夏に対してかなり甘い気がする。
玉梓はゆっくりと左右に尾を揺らしながら、口元を綻ばせた。
「妖怪と人間じゃ、そもそも魂の強度が違う。人格を力に変えなきゃ存在できないような、軟弱なやつはいない。未練なんかなくたって、もとの妖力だけで霊になれるんだ」
「そこが妖怪霊の厄介なところでな……霊能力に秀でた者でもない限り、霊としては長く存在できないはずなんだが」
私はふと、あのときのことを思い出した。真夏の火矢が射抜いた、黒いスライムもどきのことだ。
「……あれ? 前にデパートの記念碑から出てきたやつは、火災で犠牲になった人たちの無念って話でしたよね。事故があってから半世紀も続くなら、長いんじゃ……」
「それは怨念がひとつに結集したせいだな」
先輩がまたホワイトボードに向き直り、矢印をたくさん書き足した。人形から飛び出たそれらは、全て一箇所に向かっている。彼は矢印の先端に描いた円をぐりぐりと塗り潰した。
「百人規模で周辺に同質の念が集まると、ひとつの個体として統合することがある。加えて、参拝客の犠牲者を憂う念を妖力として吸収することで、怨念を風化させることなく存在を維持していたんだ」
「そ、そんなこと出来るんですか!? お参りしに来た人たちをエネルギー源にするなんて……」
「無論、そう易々と頻発するわけではないがな。大規模な災害など、限られた場所で相当数の念が発生した場合に起こりうる現象だ。記念碑やお堂といった、妖力を溜め込む場所も必要になってくる」
玉梓が腕を組み上げ、片目を伏せた。
「器にも同じことがいえるな。いくら力があっても自分の中に収まり切らなかったら、溢れた力は己に必ず牙を剥く。ま、身の程を知れってことだ」
先輩は黒で塗り潰した円をペン先でとんとんと叩いた。
「まとめると、霊体が存在するためには常に妖力が必要となる。ただし、肉体がない以上は力を留め切れず、自然に霧散してしまう」
イレーザーを手に持ち、先輩はホワイトボードの右半分を車のワイパーのような動きで綺麗に消した。
「それを防ぐためには、常に新たな妖力を補給し続けなくてはならない。妖魔領域内が危険区域と化すのは、霊体が生者を襲撃するのにうってつけの機会だからだ」
「ふつうなら透けて触れないもんね。わざわざ霊力を変換するのは手間だけど、それだけ生きるのに必死なんだよ」
私は自然と、あのガシャドクロのことを思い浮かべていた。九尾の尾を手に入れてなお「力をよこせ」と呻いていたのは、霊として生き続けるためか。それとも玉梓の言っていた通り、身の丈以上の力に酔っていただけなのか。
「この通り、妖怪の霊体との双魂は基本的に成立することはない。生前の人格と力をほぼそのまま維持しているため、並の悪霊では比較にならないほどの力があるからな」
「……じゃあ、そんな霊が取り憑いたとしたら」
私が思わず喉を鳴らすと、本郷先輩は静かに頷いた。
「まず宿主は助からない。肉体を失っているとはいえ、人間と妖怪とでは、綱引きにすらならない。そこには絶対的な壁があるんだ」
部屋の空気が一段と重くなった気がした。
真夏は神妙な表情で、何も言わずに玉梓の尻尾をそっと撫でていた。
「だが、ひとつだけ例外がある」
先輩は赤ペンに持ち替えて、残っていた「3」の数字を丸で囲った。ホワイトボードに書かれた左右の不等号。空いていた最後の隙間に、まっすぐ横線が書き加えられる。
器=霊
「パターンその三。理論上、双魂として最も理想的な形だ」
「それが、真夏と玉梓の……」
「ああ。この形態であれば、妖怪霊との双魂も可能になる。宿主は使役型とは比較にならない恩恵を受けることができる」
彼はそこで一旦言葉を区切り、再びホワイトボードの前に立った。スペースの空いた右側に、ぐるりと大きな円を描いた。
「塚貝、これら三種の分布はどうなっていると予想する?」
「え? うーん、どれも同じくらいじゃないですか? だいたい三割ずつくらいで」
「……本当にそれでいいんだな?」
本郷先輩が私の向かいの席を一瞥した。つられて私もそちらを見やる。とんとん、と玉梓が不服そうに指先で机の上を叩いていた。鼻を鳴らし、真夏の身体に寄りかかる。
「残念だが、現実はそこまで甘くない。答えはこうだ」
先輩は円の中をマジックペンで横断した。
しかし、円の中に作られた区画は二つしかなかった。




