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教室の空気が変わった。皆、口々になにがあったのかと言い合っている。
菅原先生は常に快活な印象で、病気なんかとは無縁な人だと思っていたから、わからなくもない。
度重なる生徒指導のほうで臨界点超えちゃったのかな、と私が不憫に思っていると、真夏が教卓のほうへ近寄っているのが見えた。
「はいはーい、せんせ。体調不良って、風邪? それともインフル?」
「いや……聞いたところによれば、頭に怪我をしてしまったらしい」
徳川先生は首の後ろをかきながら、ばつが悪そうに視線を落とした。
気難しい寄りの先生だから、気兼ねなく接してくれる生徒は珍しいんだろうな。
「頭……キッチンの戸棚でぶつけちゃったとか?」
真夏は人差し指を立て、側頭部に軽く押し当てた。すると、徳川先生は太い首をふるふると横に振った。
「そんなんじゃない。ビルから落ちてきた屋外看板に、運悪く当たってしまったそうだ。先日は突発的な強風が吹いていたらしいからな。その影響で、古いのが外れたんだろう」
教卓の近くにいた生徒を中心に、教室は騒然となった。
安否を心配する声と、面白半分に嗤う声。皆の反応はまちまちだった。他人事だとしても、笑うような話じゃないと思うんだけど。
「こわ……看板降ってくるとか」
「そんなに昨日、風強かったっけ」
「台風でも近付いて来てるんじゃねーの」
「でも、天気予報は快晴ってさ」
収集がつかなくなってきたところで「君たちも帰り道には気をつけてな」と徳川先生が一際大きな声で、私たちに注意を促した。
まだ動揺の波は残っていたものの、一旦はそれで決着がついた。しかし、戻ってきた真夏の表情に、私は嫌な予感を覚えた。
「どうかした?」
「ん……ちょっとね」
真夏はふと、窓の向こう側に視線を投げた。自転車置き場の近くで、落ち葉が流されていくのが見えた。
彼女はそれ以上、なにも言わなかった。
───
自販機の投入口に、私は硬貨を吸い込ませた。点灯したボタンのひとつを押し込むと、ゴトゴトという音と共に、太い缶が下に落ちた。取り出し口からそれを攫い、ベンチに腰掛けている真夏に、私はもう片方の手に持ったパックのいちごミルクを差し出した。
「いる?」
「……うん、ありがと」
真夏が受け取ったのと同時、私は少し間を空けて座り、コーラのプルタブをこじ開けた。
隣にいる彼女は、浮かない顔をしていた。ストローも付けずに、パックは膝の横に置かれている。どこか、遠くを見ているようだった。
私は晴れない気分のまま、ひと思いに飲み口を近づけ、煽った。
勢いよく飲みすぎて、喉が開封直後の炭酸に耐えきれず、むせかえってしまう。
「げほ……けほっ」
「もー、なにやってるの弥生ちゃん」
真夏が背中を優しく叩いてくれた。目尻に溜まった涙を拭い、私は唇を尖らせた。
「だって、真夏が何も話してくれないのが悪いんじゃん」
すると、彼女は目を丸くして、ふいと視線を外した。居心地の悪そうに髪の毛先を弄り始める。
それ、意地張ってるときの癖だよね。こっちはお見通しなんだから。
「もしかしてだけど、先生が怪我したの、霊の仕業だって考えてる?」
今日の午前からずっと見てて、なんとなくそうなんじゃないかと推測していた。授業中もどこか上の空だったし、奢りのジュースに手をつけないのも、彼女らしくない。
真夏は口をもにゅもにゅさせていた。言うかどうか、決めかねている様子だった。やがて、小さく息をつくと、観念したように唇を動かした。
「かもしれない、ってとこ。まだわからないけどね」
「絶対、じゃないんだ」
「なんでもかんでも霊のせいにしてたら、キリがないもん」
真夏は口元を緩め、苦笑した。けど、その表情はさっきより幾分か和らいだ気がする。
「もし、霊のせいだとして、どんなやつが犯人だと思ってる?」
「最初、梨々香たちの話を聞いたときは、カマイタチなんかの悪戯かなって思ってたんだけど」
私は虚を突かれた気分だった。
遠山さんたちがいってた、不気味な風。あの時点で、真夏は怪奇現象を疑ってたんだ。
「でも、違うかな。ビルの看板って、結構頑丈に取り付けられてるんだよ? それを吹き飛ばすってことは、かなり強い妖怪が絡んでるんじゃないかなって」
「その、カマイタチってどんなやつ? 弱いの?」
真夏はお腹の前で指を広げてみせた。両手の中指と親指を合わせて、輪っかをつくる。
「これくらいの、風船みたいなの。風の妖精ってゆったほうが近いかもね」
「え、鎌を持ってる大きなイタチじゃなくて?」
「事実は見てみないとわからないものだよ、弥生ちゃん」
それを言われて、私は口を強く結んだ。ついこの間、信じられないようなことをこの目で見たばかりだ。
真夏はスマートフォンの画面をスワイプして拡大し、私に見せた。
「昨日の天気予報をチェックしたんだけど、暴風警報は地域一帯で出てなかった。つまり、それだけの強風がなんの前触れもなく吹いたことになるでしょ?」
私はスマホの画面と真夏の顔を何度も見比べた。
数学のテストじゃ途中式をちゃんと書けって怒られるのに、彼女はひとつひとつ、考えられる可能性を潰している。本当に同一人物なのか、疑わしいくらいだ。
「だから、悩んでたの。本当に強い妖怪や霊体が出てきたら、きっと弥生ちゃんを巻き込んじゃうと思ったから」
真夏の肩が糸の切れた人形のように、がくんと落ちた。
そのとき、私は自分が感じていた違和感の正体に、ようやく得心がいった。
真夏、私のためにあえて言わなかったんだ。嘘をつこうと思えば、いくらでもいいわけ出来たはずなのに。
私には霊感なんてないし、玉梓みたいな協力してくれる相棒もいない。なにも力になってあげられないのが、歯痒かった。
だから、せめて。
「なにいってるのさ」
私は真夏の背中を強く引っぱたいた。驚いた彼女が、全校集会のときみたいに、背筋を伸ばす。
「私が自分から首突っ込んだんだよ? そんなの気にすることないって」
しばらくの間、真夏は小さく口を開けていた。けれど、だんだんと口元が緩み、綻んだ。
「あはは、それもそうだね」
彼女は紙パックにストローを突き刺し、先端を唇で挟んだ。一口含んで飲み干すと、ベンチから立ち上がり、はにかんだ笑みを見せた。
「よーし、じゃあやろっか。犯人探し」
「なにか手掛かりとか、あったりするの?」
水を差したいわけじゃないけど、大事なことだ。校舎内ならともかく、市内全域を探すとなると、流石にやってられない。
「うーん、近くにいるならタマが気付いてくれると思うんだけど」
「放課後に現場を見に行ってみる?」
そう私が提案したとき、校舎のほうから甲高い悲鳴が聞こえてきた。




