10
───そして、時間は現在へ戻る。
私は非常扉の裏で息を潜め、怪物がどこか別のところへ行ってくれることを願っていた。ここより上は屋上しかないし、当然施錠されているので行き止まりだ。
廊下の反対まで走って、もう一方の階段を降りる選択肢もあるけれど、直線距離になったら逃げ切れるかわからない。
「……来る」
階段から足音が聞こえる。人でないことはすぐにわかった。音が異様だったからだ。何人もが一斉に駆け上がってくるような音。大人数でもない限り、そんな音にはならない。この時間、校舎に残っている人間はほんの僅か。それはもう確認済みだ。
足音はだんだんと近づいてきている。私は出来るだけ背中を丸め、息を押し殺した。
お願い、どうか通り過ぎて。
しかし、足音はそこで止まってしまった。
次の瞬間。
「ひっ!?」
甲高い音が静寂に包まれていた廊下に鳴り響いた。何か硬いものが壁にぶつかる音。しかも、連続で。あの化け物が何をしているのかは想像するに容易い。
バレた? どうして? なんでここにいるって気付かれたの?
私の左側の頭上の壁が大きく膨れ上がってきていた。壁紙が破れ、亀裂が走る。このままでは、壁を貫通されてしまうだろう。そうなれば、私は。
脳裏に嫌な景色が浮かんだ。モズの早贄のように、腹部を突き刺された私が、宙ぶらりんに垂れ下がっている有様を。
「た、たす……けて……。誰か……」
膨れ上がる恐怖に耐えきれず、私は頭を抱えて神に祈った。妖怪や霊がいるんだから、神様だっていてもおかしくない。いるんなら、崇められてる分、助けてくれたっていいじゃないか。
耐久力に限界を迎えた壁が、みしみしと嫌な音を立てる。もういつ破られたとしてもおかしくはない。私は若くして死ぬことを両親に詫びた。
そのときだった。
がしゃあん。
何かが壊れるような音が聞こえた。それを最後に、壁が悲鳴をあげることはなくなった。
「え……?」
非常扉が軋みをあげて開いた。鉄の扉の向こうから、息を切らした真夏が飛び込んできた。
「だいじょうぶ? 弥生ちゃん」
「ま……な、つうう……!」
堰を切ったように、私の目から大量の涙が溢れた。ほんの少ししか離れていなかったのに、数年ぶりに再会したような気がした。
真夏はそっと私を抱きすくめ、背中をぽんぽんと叩いた。
「怖かったね、頑張ったね。安心して、もう平気だから」
私は赤ん坊のように泣きじゃくった。同級生に慰めてもらうなんて恥ずかしい話だけど、真夏の身体から伝わる温かさが、なにより恋しかった。
「グ、オオ……」
非常扉の端で怪物が呻き声をあげ、立ち上がろうとしているのが見えた。頭蓋は大きく穴が空き、背骨を伸ばしたような身体は床に投げ出されている。それでも産まれたての子鹿のように、必死にもがいていた。
「ま、真夏……!後ろっ」
「……ありゃま。まだ動けるの? さっきのやつは今のでイチコロだったんだけどな」
真夏はそっと立ち上がり、私と怪物の間に立ちはだかった。その背中は普段の彼女より、何倍もたくましく見えた。
パチン。
真夏が指を鳴らし、掌を上に向けると、その手には球状の炎が浮かび上がった。
「焔玉」
彼女はそれを、まるで投げ捨てるかのようにひょい、と放り投げた。
ソフトボールくらいの火の玉がぶつかった途端、骨の怪物の全身は炎に包まれ、一気に炎上した。
「オオオ、ノ……」
それが怪物の断末魔となった。
炎は消えることなくしばらくの間、燃え続けた。やがて火勢が落ち着き、鎮火したときには、その姿は跡形もなくバラバラに拡散していた。
「ふう。急所外しちゃったかな」
真夏は両手をスカートの裾で払うと、空中に向かって尋ねた。
「ああ、だからこっちは一体だけだったんだ。なるほどね」
「ねえ、真夏。その……なに? 何に納得してるの?」
「いやね、実は私たちもさっきのやつに襲われちゃって。それも二体」
真夏が人差し指と中指を立てた。
今のやつが、まだ二体も? それに、真夏と本郷先輩も襲われてたなんて。
「剛が弥生ちゃんが危ないっていうから、片方任せて私だけ急いで戻ってきたんだ。でも、間に合ってよかったぁ。あいつら、最初のやつより全然強いんだもん」
(まあ所詮、雑魚は雑魚だけどな)
突然、玉梓の声が聞こえてきた。イヤホンで音楽を流しているときのような、直接音が届いている感じだ。
「ま、真夏!? 急に玉梓の声が聞こえるんだけど!」
「へえ。タマ、霊子通信開いたの? 弥生ちゃんのこと嫌いじゃなかった?」
(おまえが説明不足なのが悪い。離れるのも面倒だから、このまま続けるぞ)
どういう原理かさっぱりわからないけど、とりあえず真夏の中にいる玉梓の声が、私にも届いているらしい。
(なあ、なんでこいつがおまえを襲ってきたか、わかるか)
「え……? 普通に、追いかけられて……」
(そうじゃない)
玉梓はきっぱりと否定した。姿は視えないのに、彼女の苛立ちが声色から伝わってくる。頭の中だけで会話していても、滲み出た不満を隠そうともしない。
(こいつは他の人間に目移りしなかった。違うか?)
「いわれてみれば……」
思いあたる節はあった。
廊下ですれ違った先生には、一度も怪物は反応を見せなかった。まるで眼中にないといわんばかりに、私のことだけを執拗に追い回してきた。
それに、隠れていた私の場所を見つけられたのも不思議だった。私が三階に着いた時点で、怪物はせいぜい二階にいたはず。隠れる姿を見られているとは考えにくかった。
玉梓の声が、諭すように響いた。
(いいか? おまえが襲われたのはな、真夏が渡した霊力がまだ残ってたからだ)
私の思考が、弾け飛んだ。不揃いだったパズルが、玉梓の言葉をピースに、かちりかちりと当て嵌められていく。
あのとき真夏が口にした、なにげない約束。
あれは、私の身を案じてのものだった。でも、意味はそれだけに留まっていない。もっと深いところにある。
(意思の薄い霊体は、より強い霊力に群がる。おまえたちが生きるために食うことと、なにも変わらない)
私は真夏のほうを振り向いた。あわよくば、否定して欲しかった。
けれど、彼女は静かに頷くだけだった。
じゃあ、私が襲われたのは、全部……。
(いったろ、見えてもいいことばかりじゃないって)
玉梓の言葉が、私の腹の底に重く響く。私はその場に両膝を突いた。今まで見えていたはずの世界が歪み、視界がぶれていくのがわかった。
(霊体が視えるってことは、その世界の住人の一部になるってことだ。わたしは、真夏とそういう世界で生きてるんだ)
そのとき、最後まで抵抗していた太陽が、山影に完全に隠れた。僅かに残っていた光が消え去り、照明だけが廊下を照らす。まるで世界が、書き換わるように。
私はもう、なにも言い返すことが出来なかった。
タマとお話がしたいといったのは、他でもない私だ。そして、真夏がタマが視えるように霊力を分けてくれたのも、私のため。
全部、私の自業自得。
ふと、真夏のほうに目を向けた。彼女の視線は私ではない、別の場所にあった。
(だからわたしは反対だったんだよ。こうなることは目に見えてたからな。それでも真夏がわたしに頼んだんだ。弥生ちゃんと友達になって欲しい、ってな)
「タマ……」
真夏の漏らした弱々しい声が、静けさを取り戻した廊下に小さく響く。
(わたしはおまえが嫌いだ。霊が可愛いとか楽しいだけの存在だと思い込んで、力の代償に見向きもしない。典型的な、愚かな人間だよ、おまえは)
私の胸がずくずくと痛んだ。
玉梓の言葉は、恨み節や意地悪なんかじゃない。
ただ、事実だけを私に告げていた。それが、私を針のむしろのように突き刺した。
突きつけられた現実は、私が想像していたものより、ずっと過酷なものだった。
「……ごめんね、弥生ちゃん」
真夏が謝罪の言葉を口にした。
「タマの言う通り、ほんとは私、知ってたんだ。弥生ちゃんが霊視出来るようになれば、霊体に襲われやすくなるって」
真夏は今まで見たことがないほど暗い表情をしていた。いつもの太陽みたいな笑顔はどこにもない。
「でも、私はそれ以上に、弥生ちゃんにタマのこと、私のことを知ってもらいたかった。学校だといっぱい友達いるけど、霊能関係のことを話せるのは剛だけだったから。本当に、嬉しかったんだよ」
それを耳にしたとき、私の中にあった真夏の像が、音を立てて崩れた。そして、今まであった事が一筋の光となって、繋がっていく。
ああ、そうか。真夏は、ずっと孤独だったんだ。
だから私の提案を受け入れて、本郷先輩に無茶振りしてまでタマと出会わせてくれた。
先輩が簡単に了承したように見えたのも、きっと、このことを話したからだったんだ。
「ごめん、なさい……」
真夏は私の提案を聞いたとき、少しだけ動揺していた。霊が視えるのがどういうことかわかった上で、私に自分の世界を見せるか迷っていたんだ。
それなのに今さら助けてほしいなんて、お門違いにも程がある。
(はあ……本物の馬鹿だな、おまえ)
「タマ。これ以上は……」
(じゃあなんで、真夏はおまえを助けに来た? 自分が巻き込んだって自覚があるからだろうが。そんなこともわからないなら、友達ごっこなんかさっさと辞めろ)
玉梓は真夏の制止を気に留めることなく、吐き捨てた。
耳が痛い。頭に直接響くせいで、塞ぐことも出来ない。
(……変わりたいって思うのは別に悪いことじゃない。でもな、覚悟が伴ってない変わりたい、はただの綺麗事なんだよ。痛みを知らないやつだけが口にできる、安直な考え。本当……反吐が出る)
チャイムが鳴った。時間から考えて、六時半を告げる鐘だろう。ここから先は最終下校時刻となり、先生たちによる校舎内の見回りが行われる。所謂締め出しがされるのだ。
(もういい。わたしが言いたいことは言い切った。これからわたしたちは、こいつらの本体を叩く。怖いんだったら、大人しくそこで震えてろ)
「……ごめんね、弥生ちゃん。私、行かなきゃ。このまま妖魔領域を放っておくわけにはいかないもん」
真夏は申し訳なさそうに私の肩をさすり、非常扉の向こうへと足を向けた。
私は玉梓の口にした言葉のひとつひとつに、完膚なきまでに打ちのめされ、涙を流す他なかった。溢れ落ちた涙が、床に染みをつくった。
玉梓の言う覚悟。それを、真夏は持っていた。
私を、自分の世界に誘う覚悟。
いつものゆるふわな彼女は、理解者のいない孤独を押し殺すための仮面。本当は私が思っているよりも、もっと芯の強い子なんだ。
数ヶ月間一緒に過ごしたのに、私は何一つ知らなかった。
そんな彼女が今、また独りになろうとしている。
そんなの、駄目だ。
このまま真夏を、独りになんかさせない。
「……待ってっ!」
未だに足は震えていて、心臓は痛いほどに鼓動を刻む。それでも私は、腹の底から目一杯の力を込めて、叫んだ。
「……弥生ちゃん?」
「私も、行く。真夏と一緒に」
「でも、弥生ちゃんは……」
「私がここで折れたら、真夏はまた独りになる。そんなこと、絶対に許せない。だから、行く。たとえ地べたに這いつくばってでもね」
(……ふん、その根性だけは認めてやるよ。だったらさっさと立て)
ふらつく私を、真夏が支えてくれた。そして、もう一度私のことを抱きしめ、こう言った。
「ありがとう、弥生ちゃん」




