09
最後のほうは聞き取りにくかったが、私の委員長の耳は、蚊の鳴くような玉梓の声を逃さなかった。それは、私に強烈な違和感を植え付けた。
もうひとつのわたし? ひとりじゃなくて、ひとつ?
どういう意味なのか尋ねる前に、本郷先輩が進み出た。
「玉梓……といったな。念のために訊くが……」
「ああ、領域の主が出てきた。間違いない」
「やはりな。手下がやられて、隠れている場合ではなくなったか。こちらとしては、有り難い限りだ」
「なら、決まりだね。タマ、一緒にいこ」
「……ああ」
窓の縁から降りた玉梓は、どういうわけか、晴れない表情だった。再び玉梓の姿が消え、真夏が耳と尾を生やした。玉梓が真夏の中に戻ったんだ。
「頼むぞ、依宮」
「まかしとき。剛はどうする?」
「俺は事の顛末を見届ける義務がある。お前は報告書なんて書けそうにないからな」
「……よくご存知で」
「なにを今更。もう長い付き合いだろうに」
本郷先輩は口元を緩めると、私のほうへ向き直った。
「巻き込んでしまって、済まなかった。依宮が術者を倒せば、それで解決だ。もう危険はないだろうが、帰る際は用心しておけ」
「は、はい。ありがとうございます」
「ごめんね、弥生ちゃん。今度、パフェでもおごるから」
「真夏は甘いもの食べすぎ。せっかくスタイルいいのに、体重増えても知らないよ?」
「それならへーき。余剰カロリー、私の霊力の一部にしてるから」
「なにそれ、ずっる!」
さらっと全女子から恨まれそうなことを口にしていく真夏。好きなだけスイーツ食べても太らないとか、なんて都合のいい体質なんだ。あんなに放課後で買い食いして尚、気にも留めなかったのは、そういうことだったのか。
「乙女には秘密のひとつやふたつ、あるものですよー。じゃあ私、先行くから」
真夏はちろっと舌を出して、階段へ向かった。本郷先輩も、気ままな風のような彼女を見失う前に追いかけていく。
私は廊下にひとり残された。
さっきまで賑やかだったぶん、急に訪れた静けさが妙に耳につく。やっぱり話す相手がいないと、心細い。
「……帰るかあ」
制鞄の肩紐を握り、私は真夏たちが降りていった階段へ足を向けた。旧校舎一階の渡り廊下を使えば、そのまま下駄箱のある現校舎の昇降口まですぐに出られる。
かたん。
何かが落ちたような音が、静まりかえった廊下に響いた。私は反射的に振り向いた。壁にもたれるスケルトンへ、視線が吸い寄せられる。
「気のせい、だよね……」
スケルトンの位置が変化していないことを確認し、私は振り返ることなく旧校舎をあとにした。
渡り廊下に差し掛かったとき、私はスマートフォンの画面を開いてみた。時刻は午後六時を少し過ぎたところだった。これなら自宅に着くのは、放課後にちょっと寄り道する日とあまり変わらない。けれど、私は早くベッドに転がりたい気分だった。
どっと疲れが出てきた。緊迫した空気が続いていたから、尚更ひと息つきたい。
「あれ、委員長じゃん」
昇降口に到着したとき、体操服姿の女子生徒と遭遇した。下駄箱に運動用のシューズを仕舞い、内履きのスリッパに履き替えている。
同じクラスの早坂明美さん。陸上部員である彼女は、体育祭では女子リレーのアンカーとして大活躍だった。
「早坂さん。こんな時間まで練習?」
「まあね。今ストレッチ終わったところ。委員長こそ、なんでまだ残ってるのさ」
「ちょっと、生徒会の先輩に呼ばれてて……」
私は答えを濁した。霊能力者の先輩に九尾の女の子を霊視させてもらうため、なんて口が裂けても言えない。
「生徒会? 立候補でもするの?」
「そのつもりはないけど……まあ、もう終わったから。早坂さんも、お疲れさま」
「ありがとね。陸上は秋の大会が本番だからさ。まだまだ頑張らないと」
彼女が体育祭で見せたビリからのごぼう抜きは、今でも私の頭に焼き付いている。早坂さんなら、全国でも良い結果が出せるはずだ。
私は自分の下駄箱を開き、ローファーを取り出そうとした。
そのときだった。
「───え?」
私の身体は蛇に睨まれたように、固まってしまった。
昇降口の向こう、ガラス戸の先から───
異形の怪物がこちらを覗き込んでいた。
「……っ!」
ひゅ、と空気が喉を通る音。何もしていないのに、心臓の鼓動が早鐘を打つように早くなる。
落ち窪んだ眼窩を持つ人間の頭蓋の下から、何本もの骨が百足の脚のように生えている。胸骨と肋骨を巨大化して、下半身を失くしたような姿だった。
それはまるで、地獄を這いずる亡者だった。
「委員長?」
早坂さんがこちらを振り返る。その瞬間、怪物が肋骨の一本を槍のように振り抜き、ガラス戸を突いた。
透明な壁はあっけなく破られた。パァン、という音と共に、割れたガラスの破片が昇降口に飛び散った。
「きゃあっ!」
破片の一部が、私の左手の甲を掠めた。ほんの少し血が流れただけだったが、事態はそれどころではない。
骨の怪物が地べたを這うように、昇降口から侵入してくる。
「なに……今の? なんで急にガラスが……」
私は早坂さんの反応を見て瞬時に察した。
そうか、早坂さんにはこいつのことが見えていないんだ。だから、いきなりガラスが弾けたようにしか受け取れない。
私は迫り来る怪物に、必死で考えた。
逃げる? いや、出来ない。
こいつが今の骨の槍で突いてきたら、人の身体なんか簡単に串刺しにされてしまう。そうなったら、早坂さんは間違いなく、死ぬ。
早坂さんに逃げるように伝えようにも、怪物が見えない彼女にどうやって説明する? そんな暇はない。怪物はもう私から一メートルも離れていない位置だ。
───だったら。
「い、委員長!?」
「早坂さんっ! 誰か先生呼んでくるから、そこで待ってて!」
私は校舎の中へ、全速力で戻った。
早坂さんを助けるには、私が囮になるしかない。
怪物は獲物を見つけた猟犬のように、私のことを追いかけ始めた。




