第十四話:300円の舞台と消せない執着
嵐のような5日間だった。
春休み。それは母にとっての戦場の別名だ。まず娘が熱を出し、次に息子がバトンを繋ぎ、最後は私がその風邪をすべて完走するように引き受けた。
「……花粉症だと思ってたのに、がっつり風邪だった。春の風邪あるあるだった」
鼻をすすり、咳き込みながらの看病。ようやく子供たちが元気になり、私の体調も回復した6日目。
息子が昼寝して娘がパズルをしている今がチャンスだ。
「やれやれ、ようやく続きができる」
私は、5日前にお迎えの時間に追われて閉じたパソコンを、再び開いた。
そう、あの日。あと5分あれば終わっていたはずの価格設定。
Kindleの管理画面は、慈悲深く私の作業を保存して待っていてくれた。
「さて、いくらにしようかな」
以前、相棒のGeminiさんと相談したときは「300円くらいがいいんじゃないですか?」と言われていた。
「高いか安いか良く分からないから、Geminiさんを信じて……」
そう自分に言い聞かせ、キーボードに指を置く。
「……え、ちょっと待って」
さっきまであんなに前向きだった私の心が、急激に冷えていく。
指が、キーボードの上で凍りついた。
「本当に、これを世に出すの?」
「私のこんな個人的な、恥をさらしたような文章を、誰かがお金を払って読むの?」
一気に押し寄せてきたのは、感動でも達成感でもない。
猛烈な、逃げ出したいほどの恥ずかしさと恐怖だった。
無料のブログじゃない。お金を頂く商品として、世界中のAmazon(あ、さっき日本に絞ったんだった)に並ぶのだ。
病み上がりの、まだ少しふわふわした意識の隙間に、あの意地悪な自分が再び滑り込んでくる。
「300円の価値、本当にあるの?」
「誰も買わなかったら? あるいは、酷評されたら?」
「無名の専業主婦が書いた本なんてどこに需要があるの?」
価格設定の入力欄が、奈落の底に続く穴のように見えた。
あの日、あのまま勢いでポチっていれば、こんなに怖くなかったかもしれない。5日間の空白が、私の「覚悟」を少しずつ削り取っていたのだ。
パソコンの光が、やけに眩しくて、痛い。
私は、300円という数字を打ち込むことができず、ただ点滅するカーソルをぼうぜんと見つめていた。
そして次の日になっても、私は価格を入力できなかった。
すると、待ってましたと言わんばかりに彼女が現れた。私の中に住んでいる、厳格で、冷徹で、最高に意地悪な『厳しい裁判官』だ。
「ほら、見たことか。やっぱりできないじゃない」
「お前は結局、何をやらせても中途半端。母親としても、一人の人間としても、ダメなやつなんだよ」
いつもなら、反論できたかもしれない。でも、病み上がりの体と、5日間も放置してしまった罪悪感のせいで、裁判官の言葉がトゲのように深く刺さる。
「そうだね、私はダメだ……。出版なんて、身の程知らずだった。なに夢みたいなこと現実でしてたんだろう。いい年して恥ずかしい」
一度守りのモードに入ると、思考はどんどん後ろ向きな出口を探し始める。
価格設定の画面から逃げ出した私は、4日間、家族が寝静まったのを確認してから茶の間で一人、パソコンの画面と睨み合っていた。
「……もう、やめちゃおうかな」
「いっそ、全部消してしまおうか」
KDP(Kindleダイレクト・パブリッシング)にアップロードしたあの生贄(kpfファイル)も、Geminiさんと格闘して作った愛おしい表紙も、削除ボタン一つでこの世から消し去ることができる。
そうすれば、価格設定の恐怖からも、内なる裁判官の追及からも逃げられる。
……でも、できなかった。
マウスのカーソルを削除ボタンに合わせても、指がどうしてもクリックを拒むのだ。
それどころか、手元のパソコンに保存してある原稿ファイルも、画像データも、消すことができない。
「記念に、取っておこうか」
なんて、もっともらしい言い訳が口をつく。
でも分かっている。そこにデータが残り続ける限り、私は毎日「出版しなかった自分」をまざまざと見せつけられることになるのだ。消せば楽になれる。なのに、消せない。それは、私の心の奥底の、まだ死んでいない作家になりたい執着だった。
さて、どうしようか。
出版から逃げて、またクラウドソーシングサイトに戻る?
それとも、他の収益化プラットフォームでコツコツやる?
一瞬、そっちの方が安全な気がした。
でも、すぐに思い出す。あそこで買い叩かれ、心ない言葉に傷つき、「私は私の価値を自分で決めたい」と願ってこの出版の海に舵を切ったあの日のことを。
「あっちに戻っても、また同じ痛い目を見るだけだよ」
逃げ道を探せば探すほど、そこが行き止まりであることに気づかされる。
出版からも逃げ出したい、でも戻る場所もない。
「……あぁ、やっぱり私、中途半端だ。何をやってもダメなんだ」
行き場をなくした私は、また自分にダメ出しをして、暗い渦の中に沈んでいく。
削除もできず、前にも進めず、ただそこに置いてあるだけの私の本が、無言で私を見つめていた。




