第32話 敗北の記録
一歩、そこに足を踏み入れると、まるで音が遮断された海の底のように冷たくて重い空気が体にまとわりついてくる。
不快だと言うわけでは無いのだが、一生慣れるものではなさそうだ。
バベル中央の下層にあたるこの場所に太陽の光が届く事はないが、星空をイメージして作られた天井の照明からは優しい月明かりが降り注いでいた。
柔らかい草花が整備された石畳の周りに散りばめられ、どこから吹いているのだろう静かな風に揺れている。
人が入ってはいけないような神秘さを感じさせる美しいこの場所。
ここを作り上げた人のセンスは悪くないな、そう凛は口の端を少し上げる。
だが、奥へ奥へと進むにつれて自分の体そのものが重くなっていくようなこの感覚は、正直嫌で仕方なかった。
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報告書
2XXX年 2月14日
一四〇〇頃埼玉県上空にA級ドラゴン(後にS級と認定)出現。
加須訓練所及びその周辺のシェルターを襲撃。
その後群馬県との県境で反応が消失。
春日部市から足利市までの約三十シェルターが半壊以上と判断される。また佐野第二発電所の完全停止に伴い広範囲で停電が起きている模様。被害状況及びその範囲については調査中。
応援に駆け付けた第六、七、十一中隊が半壊。
加須訓練所で訓練を受けていた第二、七八小隊の隊員計四人が行方不明。
第二、三、四、十六、十七、二十一小隊が半壊。
第十三小隊全壊。
早急に戦力を補充する必要がある。
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報告者の欄に書かれた上司の名を忌々しそうに一瞥して、その報告書のコピーを破った。
風に乗って舞い上がったその破片は天窓に吸い込まれる前に塵と化す。
頭上に降るその塵を見ながら凛は三年前のあの日の事を思い出す。
報告書に書かれた無機質な言葉では言い表せない地獄。
半壊、停電、その報告書に書かれた被害状況は嘘ではない。だが、おそらくこう表現した方がいいだろう。
消し飛んだ、と。
あいつは、あのS級ドラゴンは攻撃なんかしなかった。
ただ羽ばたいただけだった。
それなのに、周囲の建物も、人も、あらゆるものが吹き飛んだ。絶対的脅威と本能が告げ、勝てないと悟った。
……ここで一つ補足をすると、この報告書には嘘がある。これは表向きの報告書であり、誰でも見れる偽物だ。
本物は最高機密として情報管理局によって厳重に保管されている。
本物の報告書の閲覧権限があるのは凛を含めたった五人だ。それ以外、事の真相を知るものはいない。
━━第十三小隊全壊。
これが嘘でないなら私は、第十三小隊の隊長だった私はなんなのだ。幽霊だろうか。
「まぁ、似たようなものか……」
凛はため息をひとつ、そっと吐いて体温の無い足をさする。
凛の足は義足だった。
一見本物に見えるそれは軟化飛蒼鉛で作られている。筋肉の代わりにマナの細微結晶が糸を紡ぎ、その繊維が伸び縮みする。
この糸は接合部で切れているため、糸と共鳴するチップが埋め込まれており、それが脳に信号を送っているのだ。
この技術を用いれば、人類はもっとドラゴンに対し優位に立てるのではと、そう考える者もいる。
だが、この細微結晶はマナ濃度の変化にとても敏感だ。近くでマナの流動が起きるだけで動かなくなる可能性がある。
だから凛は、戦場にはもう出れない。
別に心残りはなかった。
足が無事だったとしても、戦場に立てるかと問われたら無理だと答えるだろう。
足が竦む。冷や汗が流れ、手が震え、唇がピリピリと痺れる。
脳にガンガンとハンマーで殴られるような衝撃が走り、目の前がチカチカと点滅する。
身体がその全てを持って戦場に立つことを拒むのだ。
凛は墓碑に刻まれた自分の名をそっとなぞる。そしてつうっと指を滑らせて、その隣に書かれた部隊員の名もなぞった。
本来であれば自分が守らなければいけない存在だった大切な第十三小隊の仲間。これから切磋琢磨していくはずだった。
もっと、一緒に生きていけると思っていた。
結局、みんなで集まって遊んだのは模擬戦の後だけだ。
その思い出も色が褪せていくのだろうか。
「━━いやだなぁ……」
この部屋に初めて来た時、この墓碑は凛の胸の高さ程だったのに今はもう見上げると首が痛くなる高さになってしまった。
いつ終わるかも分からないこの地獄。隣にいた者が明日居なくなるかもしれない、そんな毎日。
びっしりと書かれた名前の中には知ってるものも多くいた。亡骸が見つかればいい方で、ほとんどがMIA━━戦闘時行方不明となる。
━━または形式上死んだ事になっている者たち、書類上から消された者たちだ。
その理由は様々。
ペンタグラムのように保護のために記録を消す場合もあれば、機密に触れて消される者もいる。
組織とはそういうものだと今では理解しているが以前は煌葵に声を上げたものだ。
そして、凛のように存在そのものが機密になった者も中にはいる。その裏にはいつも煌葵がいた。
あの人はいつもこちらを小馬鹿にしたようにのらりくらりと取り合ってくれない。
だらしがないし、適当だし、ちょっと見目と才能に恵まれただけのダメ上司。
早く独立してやろうとずっと思っている。思っているのだが、時折、迷子の子供のような顔をするのだ。
大切な事は何も言わないくせに。
全てを諦めてただ何かを受け入れる、そんな表情の時に名前を呼ぶと見た事もないような顔で笑うのだ。
だから、あの人がした事全て見ないふりをして、もう少しだけ都合のいい部下でいてやるのだ。
━━もう少しだけ。
凛が訪れた慰霊室を作ったのは椿です




