第29話 最初のページ
「君が例の……初めまして」
眼鏡の奥に優しい笑みをたたえた彼は、アメに手を差し出した。
「今日から僕が君の担任を務めます。気浮です。よろしくね」
煌葵にぽんっと背中を押され、アメは気浮の手を握る。
女性の手みたいに白くて細いのに、その掌は固くてマメもあった。教師だからチョークしか握らないと思ったのだが、違うのだろうか。
「じゃあせんせ、こいつの事頼みますわ」
「え、煌葵さんは……?」
気浮に会釈して立ち去ろうとする煌葵を思わず引き止めてしまった。
しまった、そう思うまもなくニヤニヤとした彼と目が合う。
「へぇ……? 初めて会った時は俺の顔を見るなり逃げ出したのに……随分と可愛いことを言うようになったな」
わしわしと頭を撫でてくる煌葵の腕はなかなか押しのけられない。耳が熱くて唇がむずむずした。
「まぁ、残念ながら俺も多忙でな。一緒にいてやりたいところだが……出来ねぇんだよ」
ごめんなぁと少しも思ってなさそうな猫撫で声で手を合わせる。
後で迎えに来てやるから、そう言って煌葵は気浮にアメを預けてそそくさと出ていってしまった。
「……ふふ、寂しいですか?」
「別に……この前会ったばかりの人だし、寂しくないです」
「そうですか」
気浮はアメを連れてバベルを回った。
僕の授業は今日はもう終わったから、他のクラスを見て行きましょう━━気浮に連れてこられた教室には同じくらいの年の子が沢山いた。
「二ヶ月から半年は座学も踏まえつつ訓練します。そこからは実地訓練です」
「実地、訓練……」
「えぇ、その頃にはもう基本的な飛行訓練を始め、戦い方を学びます。僕が君を立派なドラゴンスレイヤーにしてあげますからね」
その言葉に頷くことは出来なかった。
今ここにいる実感もなかったからだ。
なぜ、この子達はここでドラゴンスレイヤーになるための授業を受けているのだろう。
どんな理由があって、ここにいるのだろう。
なんで━━
「……アメ君? 大丈夫かい? ……疲れちゃったよね。━━行こうか」
自然に繋がれた手を、不自然なまでの挙動で振り払ってしまった。
気浮は、一瞬戸惑って、でもすぐ困惑の色を消して微笑む。
━━気浮はそれから何も言わなくなった。
アメの二歩先を歩き、その距離が四本になったら振り向きもせずにただスピードを緩める。
廊下に響く足音が時折三つや四つになったが、静寂は糸のように繋がっていた。
元の部屋に戻ってからは、授業内容の説明、時間割についてとバベルの基礎知識を軽く話してもらった。
出されたお茶は、湯気が完全に消えてから半分だけ飲んだ。
多分、温かいうちに飲めば美味しいと思えただろう。
気付いたら少し日が傾いていて、心無しか疲れた顔をした煌葵が迎えに来た。
「どうした? 疲れたか?」なんて聞いてくる彼の服は所々が破れ土埃に汚れていて、その表情よりもくたびれていた。
━━三回目。まだ三回目だ。煌葵と会った回数は、たったそれだけ。
なのに、気浮と二人でいる時よりもずっと安心している自分がいた。
「随分と懐かれているんですね」
気浮は全てを見透かしたように、冷やかしを僅かに含んで煌葵に言った。
「さぁな。同じエレメント同士だって感じるんじゃねぇか? それか、あんたの本性がバレているか……まぁ俺としては気を許してもらいところだからな」
煌葵はアメに手を差し出した。袖口に血が滲んでいたが、気付かないフリをして手を握った。
「━━んじゃ帰るか」
その手の温もりが無性に懐かしく感じられて混乱する。
硝子のような翼を広げ、アメを抱き上げた煌葵は中庭の手すりに足をかけ、体を傾けた。
ぐっと内蔵が浮く感覚と、風が耳のすぐ横を駆けていく音はとても癖になりそうだった。
この前、煌葵に重くないのかと尋ねたら、風のようだと返ってきた。
アメが風のように軽いということなのか、自分が風になっているようだ、ということなのか明確には教えてくれなかった。
アメが指定した場所━━煌葵と初めてあったビルの、その屋上に下ろしてもらった。
お前が住んでる孤児院まで送ると何度も言われたが断った。
みんなに見られたくなかったからだ。
特に、ソラと翔真には。
バベルから、少しの食べ物をお土産としてもらった。
後から知ったが、煌葵はこの時バベルの次席だったらしい。そんな彼に送り迎えされるなど、相当な贅沢だった。
なぜそんなに尽くしてくれるのか、この時は全く分からなかったし、知ろうともしなかった。
「じゃあ明日もここに迎えに来るから。多分俺だが、もしかしたら椿が来るかもしれない。椿って分かるだろ? 俺の弟で━━白くてひょろっとしてる……」
「分かります。大丈夫です。あの……ありがとうございました」
頭を下げると、礼を言うのはもう少し先にしてくれと笑われた。
夕日に焼けて赤く光る煌葵の翼が遠くなると、アメは廃ビルの階段をゆっくり降りて帰路に着く。
教会に辿り着く前に、もらった缶詰に泥を塗り、パンの袋を破いた。
━━家族には、何も話していない。
気浮先生は、初めから先生でした。煌葵は初めから兄でした。でも、椿は初めから弟だったわけではなく、ハルも元からハルだったわけではありません。これは、3章後半から4章で分かります




