王の帰還
シウは背が高くて、存在感があるから、人が自然と彼の周りを避け、
彼はこの人ごみの中でも流れるように歩けていた。
一方のフレヤには、そんな派手な存在感などないので
人ごみの渦に巻き込まれて、なんどもよろめいていた。
これほどの人ごみの中を今まで歩いたことがないので
どのように進めばいいのか見当もつかない。
右側から強くぶつかられて、ぐらりと体が傾く。
すかさず伸びてきたがっしりとした腕に抱き留められて事なきを得た。
しかし、この腕は。
「ち、チノ……!!
離れた所にいてって言ったでしょう……!!」
声が上ずった。
カッと耳が熱くなる。
恥ずかしい。
今の言葉を全部消してしまいたい。
「だからといって、おまえがころぶのを黙って見ていろと?」
支えてくれていた腕がするりと離れてほっとする。
しかし、次の瞬間飛び上がりそうになった。
ごく自然な動きで、チノが手を繋いできたのだ。
驚きのあまり言葉が出なくなっていると、フレヤの手を取ったチノは
そのままスタスタと歩き出した。
「これでもう、ころばないな」
これではいつもと逆だった。
いつもはチノの手を取って歩いていたのはフレヤだった。
いまは大きな手がすっぽりと手を包み込んでいて、
柔らかく引いてくれる。
鼓動がうるさい。
なんだか悔しくなってきた。
どきどきしているのが自分ばかりで馬鹿みたいだ。
不意に先を行くシウがこちらを振り返った。
フレヤの隣にいるのチノに気付いたようで、目を細めている。
猛烈に恥ずかしくなってきて、手を離そうとしたのだが
チノの手からどう頑張っても手を取り返せなかった。
なかば引きずられるようにして、シウの所まで連れていかれる。
もはや公開処刑される罪人のような気持ちだった。
その日の一つ前の夜。
オスロ国王宮は、王の帰還に慌ただしい空気に包まれていた。
王妃の祖国でもあり、隣国でもあるコペンハヴン国に政治的介入という
名目のためしばらくは帰らないとだけ言い残し、
ステファン王はこの国を発った。
なにやら王権に不満を持つ平民たちによる革命がおこったらしく
危険とのことで、王妃は城に残ることとなった。
王による突然の出発だっただが、その帰還も唐突なものだった。
王妃、ヘレナは夫の突然の帰還にあわてて部屋を飛び出した。
急いで階段を下りると、ちょうどステファンが
外套を脱ぎ、近くにいたメイドに手渡しているところだった。
外は風が強かったようで、ステファンの陽光のような金髪は
乱雑に乱れていた。
「おかえりなさいませ」
早足でステファンのもとへ行くと、アイスブルーの瞳がこちらの
存在に気付いて瞬いた。
一瞬、氷のような炎のような激しいものが
ステファンの瞳をよぎってすぐに消えた。
彼はいつも通り、ふわりと笑った。
「変わりないようでよかった」
「おけがなどはございませんか……?」
「大丈夫。
貴女が心配するような怪我は何もしていない」
春の太陽の様に優しい笑みを浮かべる夫に、笑みを返して
ヘレナはふと気づいた。
夫の首に一筋の傷があることに。
ずいぶんと妙なところにある傷だった。
まるでナイフでも突きつけられたかのような傷。
どうして、そんなところにナイフで作ったような切り傷があるのだろう。
一瞬、疑問に思ったが、
その傷に滲む紅が、姉の瞳の色を思い起こさせ、疑問も霧散してしまう。
「あの、お姉さまとお父様は……」
その言葉をおずおずと口にすると、ステファンは瞳を曇らせた。
ヘレナは息をのんだ。
顔から血の気が引いたのが分かった。
その場に崩れ落ちてしまいそうになる。
「ヘレナ様、落ち着いて聞いてほしい。
フレヤ様は、革命軍のせいで民を守ろうと無理をしすぎた。
精神を病まれ、王に手をかけてしまわれた。
そのフレヤ様を、野蛮な異民族の男がさらってしまったのです」
想像していたよりもはるかに過酷な内容に、
ヘレナはこぼれおちそうなほど目を大きく見開いた。
父が、死んだ。
姉が父を殺した。
唇がわななく。
そうだった。
姉は聡明な人で、いつも民のことを考えて動く人だった。
彼女がこっそり王宮を抜け出して、
貧しきものに施しを与えていたのも知っていた。
その聡明さと誠実さが、姉を壊したというのか。
「そんな……嘘よ……」
「……残念ながら、これは真実だよ」
足から力が抜け、ふらついた所を、ステファンがさっと支えてくれた。
視界が明滅する。
言われたことをうまく呑み込めない。
父のことを失うかもしれないと、ずいぶん前から覚悟はしてきた。
前に、お見舞いに行ったときに見た父の姿は
もう長くはないだろうと一目でわかるほど衰弱していた。
しかし、父だけでなく、まさか姉を失うことになるなんて。
しかも、父を失う引き金となったのが姉。
「おねえさまは……」
「いまだに行方はわからない。
現在、手を尽くして探させてはいるけれど……」
「そう、ですか……。
……私は、お父様の葬儀に行かなくては……」
ぽたりと涙が目から零れ落ちた。
絨毯に吸い込まれていく透明な雫を見つめるが、
次々に目からこぼれ落ちて、止まりそうになかった。
ステファンにふわりと抱き寄せられる。
「今はまだ、コペンハヴン国の混乱は落ち着いていない。
葬儀への参列は、時期を見て共に行こう」
「はい……」
「許せないのは革命軍だ。
いつか必ず、貴女の父上と姉上の仇をうちにいくよ」
だからどうか泣かないでくれと、耳にささやきこまれるが
どうしても涙は止まらなかった。
胸の喪失感はどう頑張っても無視することができないほど大きく
そして決して埋められないものだった。
「部屋へ行こう。
ここは風が入るし、体も冷えるだろう」
穏やかな声に促されて、小さく頷く。
身体を離して、うつむいて歩き出したヘレナには
ステファンの表情は見えない。
「今はおつらい時期だから、もしかしたら姉上の、
フレヤ様の幻覚でも見るかもしれない。
だがそれは、フレヤ様の姿かたちをかたどった、悪魔だ。
……どうか、その言葉に耳を傾けることはないように」
うつろな目のヘレナにささやきこむステファンの顔は
ぞっとするほど美しい天使の皮をかぶった悪魔のようだった。




