早朝
結局、チノはそれ以上何もせず、体を離すと
床に座り込むようにして仮眠を取り始めた。
一方のフレヤは、同時にあまりにもたくさんのことが起こりすぎて
その夜は一睡もできなかった。
一人で寝るには広すぎるベッドで、何度も寝返りを打った。
チノを好きだと自覚してしまった。
そのせいで、心臓がばくばくと脈打って、意味もなくそわそわして、
とてもではないが寝られるような状態ではなかったのだ。
とはいえ、明け方にわずかにうとうとしていたところを、
チノに控えめに揺り起こされた。
よろよろと立ち上がって、出発の準備をする。
鏡を見れば、目の下にはうっすらとクマができていた。
城にいれば、メイドのハンナたちがさっと化粧を施して
ごまかしてくれていただろうが、ここはそんな贅沢なものはない。
奔放にふわふわとはねる癖の強い青い髪を何度も撫でつけていたが
どうしてもいうことをきかないので諦めるしかなかった。
どうやら自分は少しでもチノに良く思われたいらしい。
このクマをどうにかできないものかと唇をきつくかみしめる。
急激なまでの心情の変化に戸惑ってしまう。
ぐしゃりと髪をかきむしった。
世界が色鮮やかに色づいたような錯覚。
鼓動は甘く跳ね、視線が追い求めるのはチノばかり。
よりによってこんな時に恋を自覚してしまうだなんて。
「フレヤ?」
「ひっ」
鏡の前で百面相をしていたら、
チノがおずおずと背後から声をかけてきた。
鼓動がひと際大きくなる。
さっとふりかえると、わずかに気まずそうな表情を浮かべた
チノがそこにいた。
ぶわっとうなじの毛が逆立つ思いだった。
強く瞬きをして、好きな人の姿を焼き付ける。
ああ、だめだ。
直視できないくらいに格好いい。
窓から見える暁を背に立っているチノの姿は、
ほれぼれするくらいに格好良かった。
「そろそろ合流の時間だが……フレヤ?」
怪訝そうな声にはっと我に返る。
ぶわわわわっと、顔が熱くなるのが分かった。
すっとチノの指が伸びてきて、フレヤは思わずぎゅっと目を閉じた。
かさついた感触が、そっと目の下のあたりを撫でてきて
びくりと震える。
甘い体温だった。
「……昨夜、やはり寝られなかったのか?」
わずかにかすれた声がささやくように言う言葉の一つ一つが
色気にまみれていて、あやうくその場にへたり込みそうになった。
(冷静に、いつも通りに……!!)
「あ、新しい枕に慣れなくて」
「おまえ、王女のくせに野宿も平気でこなせていただろう。
枕ごときで寝られなくなるはずがない」
背中を冷汗が伝った。
だめだ。
冷静になんてなれない。
意識のすべてを、触れてくるチノの手に集中させてしまう。
「おれのせいか?」
そっと目を開けると、チノがわずかにほほ笑んでこちらを見ていた。
緑の目がとろけるような甘さとほのかな熱を含んでいて、
もうその顔だけで、危うく気を失いそうになった。
いっそのこと、気絶できたほうが楽なのかもしれない。
「そうだといい。
おれのせいで、心かき乱されるおまえが見たい」
ふざけたことをぬかす好きな人の顔面を殴れたらどんなにいいだろう。
彼は突然視力を失ったのだろうか。
現在進行形で、フレヤはチノの一挙手一投足、全てに振り回されている。
こんなの自分じゃないとわめき散らしたいほどだ。
「もっとおれで乱れたらいい」
そうささやくと、チノは唐突に指を離した。
夢から覚めたような心地になって、まばたきを繰り返す。
何事もなかったかのように、てきぱきと荷造りを始めるチノを見て、
フレヤもあわてて自分の荷物に向かって歩き出した。
本当に、願望が生み出した夢でも見ているのかと怖くなって
軽く頬をつねると、鈍い痛みが走った。
歌の力でうまく宿の店主の記憶を操作し、数分後。
フレヤは、深く頭巾をかぶりなおして、シウを待っていた。
立っているのは、オスロ王国王都の朝市。
シウ曰く、人通りが多いところならば怪しまれにくいだろうとのことで
あえて朝市を合流場所にしたのだという。
こういうことには疎いからどうにもわからないが、
たしかに数えきれないほどの人がここには集まっていた。
朝日に照らされながら、人々は忙しそうに行きかっている。
青臭い野菜の匂いや、生臭い魚の匂いが漂ってきて、
生々しく民の生活の一端を感じた。
思わず、視線だけであたりの様子を観察してしまう。
山に囲まれている国なだけだって、海産物よりも
野菜などを売っている店のほうが多い印象を受けた。
海に囲まれたコペンハヴン国とはまた違っていて興味深い。
いや、いけない。
いつもの視察癖が抜けない。
今は人を待っているのだから、もう少し周囲に気を配らなければ。
「……待たせたな」
背後から声をかけられて、振り返ると、
平民の格好をしたシウが立っていた。
フレヤは、まばたきを繰り返した。
一瞬誰だかわからなかった。
いつもの黒衣の民族衣装ではないので戸惑ってしまうが、
彼は造形がよいため、何を着てもひどく似合っていた。
この人ごみの中からこちらを見つけられるのはたいしたものだと思うが
おそらくフレヤが逆の立場でもきっと同じことができるだろうと思った。
シウはどこにいても華があり、目立つ人だ。
だけどそれだけではなくて、もっと同族同士のつながりのようなもので
なんとなくどこにいるのか気配で分かるのだ。
シウの真紅の瞳が、ちらりとフレヤの背後に向けられた。
「番犬はどうした」
「ち、チノは犬ではないと言っているでしょう。
……少し離れたところで控えてもらっているわ」
名前を呼ぶだけで、動揺してしまった。
あきらかに挙動不審なのがシウに伝わっただろう。
しかし、シウは片眉を上げただけで何も言わない。
なんとかいつも通りに振舞おうと、フレヤは口を開いた。
「先に偵察に行っていた、あなたの軍の人たちとは連絡は取れた?」
「……おい、言葉を選べ。
聞こえたらどうする」
シウがひと際声を低くした。
はっとした。
軍、などと他の人に聞かれたらどうなるか。
目を伏せて、謝罪の言葉を口にした。
しまった。
軽率な行動だった。
ここにはどこに耳があるかわからないのだ。
「……なにかあったのか」
「いいえ」
さすがに様子がおかしいと思ったのか、シウが低く問いただしてきたが
フレヤはそっけなく否定の言葉を口にした。
しかし、内心ではいつも通りに振舞うので精いっぱいだった。
無表情を保つのに、これほどまでに苦労したことはなかった。
頬がひきつるのをなんとかごまかす。
シウはそんなフレヤの顔をじっと見ていたが、やがて息を吐いた。
「まあ、いい。
前に汝が言っていた通りにやるが……よいな?」
「ええ」
そう答えて、ちらりとシウの背後に視線を走らせる。
先ほどから、シウと似た気配を感じていた場所。
ひっそりと影の様に佇む、鴉天狗の一族、ヤワラがいた。
相も変わらず神聖な雰囲気を漂わせているが、
フレヤと目が合うと同時に、表情を変え、ギッと睨みつけてきた。
よほどこちらのことが嫌いらしい。
しかし、いくら嫌われようとも、彼の協力だけは仰がねばならない。
この誘拐計画で、彼は最も大事な役割を果たす予定の一人だからだ。
「何か変わったことはある?」
「ああ。
細かいことについては、場所を変えて話す。
ついてこい。
そのあとに……決行する」
シウはさっと踵を返すと、ツカツカと歩き出した。
フレヤは、チノたちがいるほうに視線を一瞬よこすと
シウの背を追った。




