満月の夜
チノはフレヤをまた避けだした。
満月を見ながら、フレヤははっきりとそう思った。
前から避けてはいたが、いまはもっとひどい。
いつもは後ろに影のようについて回っていた姿が見当たらない。
さすがに、不安になる。
心配もする。
「……」
徐々に腹が立ってきた。
自分から、チノの姿を探して回るのは初めてのことだった。
慣れないことをして、しかもそれがうまくいかないと
どんな人間でもイライラするものだ。
しかし、探せど探せど、チノは見つからない。
中庭の横にある廊下を速足で歩いていた時、ガサリ、と音が聞こえた。
はっとして、音が聞こえた大木のほうを見る。
風がほほを撫でた。
人影が、大木の大きな木の枝に腰かけてこちらを見ていた。
「チノ……?」
ささやくような声で名を呼ぶ。
聞こえたはずなのに返事はなかった。
ふと気づく。
暗闇の中光る瞳が金色に輝いていることに。
「せっかくこちらから隠れてやったのに、おまえはまた余計なことをする」
チノの声だ。
同じ声なのに、まるで違う。
フレヤは一歩あとずさった。
だれだこの男は。
これは、フレヤの知らない人間だ。
「あなたは……誰?」
「おれは、チノだ」
するりと人影が、木から降りた。
フレヤとの距離をつめるのは一瞬のことだった。
「おいおい、しけたツラしてんじゃねぇよ」
指がのびてきて、フレヤの顎をくいっと持ち上げた。
正面からその男と目が合う。
チノだった。
だけどチノじゃなかった。
荒々しい気配。
ふてぶてしい笑みを浮かべる唇。
「う、そ」
「うそじゃねぇよ」
こんな人は知らない。
チノはこんな人ではない。
「わけがわからねぇって顔だな。
教えてやるよ。
アルハフ族の中でも、おれは先祖がえりをしている、と
言われるほど、おれは血が濃い。
……オオカミの血が」
ドクンっと心臓が強く脈打った。
今、今彼は何と言った。
「まぁ俗にいう、狼男ってやつだな。
こんな満月の夜は、オオカミの血が滾りやがる」
この男も、チノも異形の血を引いているというのか。
ほとんどの異形の血を持つものは赤い目をしている。
だから、まさか、チノが異形の血を引いているなんて
夢にも思っていなかったのだ。
現実をなかなか受け入れられない。
「それを人間としてのおれが拒絶しやがった。
こんなあさましいケダモノの姿はおまえにだけは見せたくないと
わざわざ隠れてやがったのを、てめえが見つけたんだよ」
忌々しそうにチノが舌打ちする。
それはフレヤに対してなのか、人間のチノに対してなのか
フレヤにはわからなかった。
「なぁ」
ぐっとチノが指に込める力を強くした。
金色の瞳が細められる。
その仕草がひどく獣じみていてどきりとする。
まるで獲物を見定めるようなまなざし。
「おまえは、おれのことをお前を守る騎士のように
思っているかもしれねぇがそれは違う。」
今まで、何度もチノのことを
美しく誰にも屈しない獣のように感じたことがあった。
それが胸の中にすとんと落ちてきて、
チノが嘘を言っているわけではないとわかる。
すっと自然な動きで首に手を添えられた。
そっと首の頸動脈をおさえられる。
「おれは、おまえを認めたわけじゃねぇ。
……一度でもおまえが進むことを辞めたなら、おまえを殺す」
ざくりと胸にその言葉が突き刺さった。
きぃんと耳鳴りがした。
フレヤは限界まで目を見開いて、
驚くほどすぐそばにある金色を帯びた瞳を見つめるしかなかった。
突然チノがうめいた。
「チノ……っ……!?」
苦し気に細められた瞳は金色の光が明滅している。
それは徐々に弱弱しくなっていて、やがて消えた。
「っ……!!」
焦点を結んだチノの目がはっと見開かれた。
その目に宿るのは、焦燥とわずかな恐怖だった。
さっと首から手が離れた。
ひやりとした夜風が首の皮膚にふれる。
手が震えるのを止められなかった。
はっと空を見上げると、夜空にぽっかりと浮かんでいたはずの
満月は見当たらなかった。
遅れて月が分厚い雲に隠されたのだと気づく。
ふっとチノの気配が離れたのを感じて、
フレヤは視線をチノに戻した。
チノが一歩後退したのだ。
その瞳には、焦りとわずかな怯えが浮かんでいた。
「チノ」
「おれに近づくな」
すぐさま放たれた鋭い言葉にフレヤは一瞬足を止めた。
怯えの色がより一層強くなっていた。
手負いの獣のようなまなざしにフレヤの口から言葉が漏れた。
「あなたは、ひどく、美しいのね」
自分の口から漏れた言葉に自分で驚く。
だがそれは、まぎれもない自分の本音だった。
彼は、なにものにもとらわれない野生の獣のように美しいのだ。
チノは何を言われたのか理解できないようで、一瞬固まっていたが、
フレヤが一歩近づいてきたのを見て、はっとしたような表情になった。
「来るな」
何かをこらえるかのような表情だった。
いつものチノだった。
射貫くような金色の光はその瞳にはなかった。
本当に、満月の光を浴びると、野性的で獣の本能のようなものが
表面上に現れるのだろう。
「おれは、おまえをまた傷つけてしまうかもしれない」
「かまわないわ」
フレヤはまた一歩距離を詰めた。
チノは二歩後ずさった。
「この手でおまえを縊り殺してしまうかもしれない」
「チノはそんなことをしないわ」
「おまえになにがわかるというんだ……!!」
チノの押し殺された声と叫びが心を揺らした。
だが、フレヤはできるだけ冷静に見えるように
静かに言葉をつむいだ。
「なにも、わからない」
チノがぎりっと奥歯をかみしめる音が聞こえた。
ひるみそうになる心を抑えて、また一歩近づく。
「でも、あなたのことを知りたいと思っている。
だから、教えてほしい」
チノの手に触れようと右手を伸ばしたら、振り払われた。
振り払ったチノが一番驚いたように目を見開いて、
そして目を細めて自分の手を見つめた。
振り払われたフレヤよりもチノのほうが傷ついているように見えた。
そのままチノは身をひるがえして、夜の闇の中に駆けていった。
止める間もない一瞬のことだった。




