愛とは狂気
チノはその時からさらにフレヤの前に姿を現さなくなった。
フレヤは図書室の本をぱたりと閉じた。
恐ろしいほど静かだった。
あたりには人は誰もいない。
フレヤ自身、人にかしずかれるのが苦手で、
人払いをするのが常だ。
そんな中でも、唯一そばに置くことを許したのがチノだった。
最初は、チノを守るために置いていたが、
今は違うような気がする。
父から守るためにそばに置いた。
だが、その父は今臥せっていて、別にチノを手放してもいい。
それをしなかったのは、チノが帰りたいとは洩らさなかったのもある。
それ以上に、なにか自分自身の感情が影響している気がする。
それに気づきそうになるたびに、意図的に心にふたをする。
気づけば何か引き返せなくなってしまいそうだ。
無意識のうちに、いつでもそばにあった姿を探し求めてしまい
はっとして、瞳を伏せた。
「チノ……」
小さな声で呼んでみるも、返事はない。
返事はないし、気配も感じられない。
「フレヤ様!!」
静寂が突如破られた。
血相を変えた様子の、メイドのハンナが図書室に走りこんできた。
いつもはきっちり整えてあるひっつめ髪が乱れていた。
よほど急いできたのだろう。
「なに?
なにかあったの?」
胸騒ぎがした。
冷たいものが背筋を駆け巡った。
席をたって、ハンナのほうに近づく。
彼女はおびえたような縋るような目でフレヤを見つめた。
「恐れながら申し上げます……!!
フレヤ様、少し来ていただけますか?」
フレヤは、走った。
ぱたぱたと駆けていくハンナの背を追って必死に走った。
足に絡みつくドレスの裾がもどかしい。
いっそのこと破いてしまいたいほどだ。
城のあちこちでそわそわする気配が見なくても伝わってくる。
フレヤは、やっと目当ての扉の前にたどり着き、
衛兵に扉を開けてもらうのですら待てずに体当たりするようにして扉を開けた。
父がいた。
土気色の顔は変わらない。
でも、本当に久しぶりにその海のような青い瞳が開いていた。
ヘレナと同じ青い色。
その瞳が涙が出そうになるほど懐かしかった。
そう。
ヘレナの至急の知らせというのは、イルグ王が意識を取り戻した、
というものだった。
父をここまで追い詰め、命を削ったのはまぎれもなく自分だ。
でも、その知らせを聞いた途端、体が勝手に動き出したのだ。
滑稽だ。
笑みがこぼれそうになるほど自分が滑稽だった。
足は勝手に父の所に向かい、手は勝手に父の手をそっと握りしめていた。
そんな自分に自分でも驚く。
「フレヤ……か……?」
かすれた声に、フレヤはうなづいて見せた。
これでは、まるで父思いの姫のようだ。
「はい、お父様。
フレヤです」
父の乾いてひび割れた唇から細い息が漏れた。
父は哀れな程に衰弱していた。
ツキリと胸が痛んだ。
ここまでやったのは自分だ。
国を守るために、民を守るために仕方のないことだったのだ。
そう必死に自分に言い聞かせる。
その様子をイルグ王は静かに見つめていた。
「なにか変わったことでもあったか……?」
一瞬フレヤは動きを止めた。
ゆっくりとまばたきを繰り返す。
「いえ、なにも」
いつも通りの平坦な声を、父のひび割れた唇を見ながら言った。
もはや、いつも通りにふるまえているかもわからなかった。
必死に感情を表に出すまいと努力していて、ふと気が付いた。
いつからこんな風に感情を我慢するようになったのだろう。
今までは、感情が欠落しているような、
空虚さが自分にはあったのに、それが今はひどく薄らいでいる。
フレヤは内心動揺した。
こんな自分は知らない。
「……私は……もう長くないな」
ぽつりと漏らされたつぶやきに目を見開いた。
たしかに、フレヤの歌は、
父の体をもはやどうしようもならないところまでおいつめていた。
ただ、それを改めて本人から言われると
頭を殴られたような衝撃が走っていた。
父は死んでしまうのだ。
もう、あえなくなってしまう。
こんな風に話を交わすことも
あたたかな手を握ることも
なにも、なにもできなくなってしまう。
その現実をまざまざと突き付けられたような気がした。
「その前に……おまえの新しい婚約者を決めてやらないとな……」
父の声には、狩猟に明け暮れていた頃の荒々しさはなかった。
この数十日で、一回りも二回りも父が年を取ってしまったように見えた。
「私のことはいいのです」
「いいや、よくはない。
おまえは女だ。
女のお前には、何よりも大切なことだ」
力ない声だったが妙に気迫がこもっていた。
それに気おされて、一瞬口をつぐむ。
「私は、お前に愛を知ってほしい」
予想外の言葉に、フレヤは、はっと父を見た。
父は弱弱しいまなざしで、こちらを見ていた。
落ちくぼんだ目にはかすかだが、まだ光があった。
「それが、父としてお前にできる最後のことだろうからな」
しんと、沈黙が部屋を満たした。
ここで、そんなことを言わないで、とでもいえば
父親思いの娘を演じられるのだろうが
あいにくそこまで心に余裕はなかった。
しばらく、黙ったまま天井を見つめていた父は、ふと尋ねた。
「今日は歌わないのか?」
今度こそフレヤはびくりと体を震わせた。
冷たいものが体中を駆け巡る。
フレヤは乾くほど目を見開いたまま微動だにできなかった。
「……ああ、おまえは自分の歌が嫌いだったな」
ささやくような声に、父を殺すために歌い続けていたことが
ばれたわけではないと悟る。
じわりとてのひらが嫌な汗をにじませた。
いっそのことばれてしまったら、楽になれるのに。
そうすればここから逃げ出せて、責任も義務も、なにもかもを
かなぐり捨ててしまえるのに。
わずかに唇をかみしめる。
「ソフィナが、ずっと隣で歌ってくれている夢を見た。
お前の声はソフィナと似ているから、
お前がずっと歌ってくれていたのだと思っていた」
久しく聞いていなかった亡き母の名前を出されて、フレヤは驚いた。
母が亡くなって誰よりも悲しんだのは父だ。
悲しみを忘れるために賢王は、
娯楽にふけって無理やり悲しみを忘れようとしたのだ。
父が意図的に母の名前を出さないのは、城の誰もが知っていることだったから
誰も母の名を口にしてこなかったし、ましてや再婚ですら誰も勧めなかったのだ。
ちらりと父の枕もとの棚にある、金色の貝殻を模したネックレスを見やる。
そして、再び父の顔に視線を戻した。
「お父様。
私は、愛を知らないのでしょうか」
「ああ、お前はまだ知らない」
静かに返された言葉に、フレヤは反論しなかった。
確かにあの日気づいてしまったのだ。
自分はステファンを愛しているわけではないのだと。
おそらく、あの気持ちは、未成熟な幼い恋だったのだろう。
「お父様……愛とは、何なのでしょうか」
父はすぐには答えなかった。
美しい青い瞳。
ヘレナと同じ瞳。
そういえば、母はどんな色の瞳だっただろうか?
思い出はもやがかかっていてすぐには思い出せない。
「おまえは、成長すればするほど、ソフィナそっくりになっていくな。
その紅の瞳など、そっくりだ」
唐突な言葉にフレヤはどきりとした。
まるで心の中を読まれているようだ。
父はまっすぐにこちらを見つめていた。
「愛は……私にとっては、ただの狂気のようなものだ」
フレヤは、何も返答できなかった。
ここにたしかに、強すぎる想いに、その身と心をとらわれている人がいたからだ。




