第1話 最上階の窓
タワー暦1199年 11/01 | 第一タワー・最上階
最後の上昇は、思っていたより静かだった。
タツオは足元に力を入れて待った。五年前には、昇降機の床がわずかに震えた。その震えを感じたら、ひとつ上の自分になれる気がした。今回は膝にも靴底にも、何も伝わってこなかった。
「まだ動いていないのかな」
「もう着くわ」
隣のミオが壁の数字を見て答えた。彼女の手には、小さな布の袋がある。卒業課程へ持参する物は端末だけでよかったはずだ。
「それは?」
「飴。長くなるかもしれないから」
「食事は十一時四十分だよ」
「そうね」
ミオは笑って、袋をしまった。
五十年生の二十四人を乗せた昇降機が停止した。扉の向こうで、先生が待っていた。白灰色の細い身体は、タツオの記憶にあるものと少しずつ部品が違う。声だけは変わらない。
「皆さん。最終課程へようこそ」
廊下の先が、異様に明るかった。
それまでの居住層にも窓はあった。しかし外の景色は保護膜を通し、気象や日射に応じて調整されていた。ここでは、透明な壁の向こうに空がむき出しで続いている。
タツオは、その手前で立ち止まった。
下に街があった。
小さな建物が、川のような道に沿って無数に連なっていた。屋根の高さも形も揃っていない。遠くでは銀色の線が海へ伸び、さらに向こうで、白い飛行機のようなものがゆっくり旋回している。
タワーの内部で見た模型にも都市はあった。だが、その模型のひとつに自分が住んでいると思ったことはない。まして、模型の外側にも人の暮らしがあるとは。
「あれは何ですか」
誰かが尋ねた。
「ミナト居住区です。主として物流、設備整備、居住支援の機能を持ちます」
「人が住んでいるんですか」
「はい」
先生は続けて、着席するよう促した。その答えが大きすぎて、タツオには椅子の位置がすぐに見つからなかった。
椅子は、前の階の教室より柔らかかった。身体が沈むのを嫌って腰を浮かせると、隣の学生も同じことをしていた。二人は目を合わせ、気まずく笑った。
入口の上には五十という数字があった。その下に、卒業後の相談受付時間が小さく書かれている。卒業したあとにも、相談することがあるのだろうか。
タツオは、自分が初めて中央昇降機に乗った日のことを思い出した。五歳で、床の模様から足を離すのが怖かった。先生は手を差し出し、次の階にも同じ食堂があると教えた。実際、食堂は同じだった。寝台の幅が少し広くなり、机が高くなった。そのあとも、上へ行けば身体に合う場所が用意されていた。
五十年間の最後にも、そういう場所があると思っていた。
「海、見えるね」
ミオが言った。
「模型より平らだ」
「遠いからじゃない?」
「そうだね」
タツオは少し恥ずかしくなった。遠くの球面を平らに見ることを知っているのに、最初に出た感想は模型との比較だった。
見渡せる範囲だけで、何人くらい暮らしているのだろう。数を推定しようとして、屋根一つあたりの人数がわからないと気づいた。タワーなら、居住区の区画数からおおよその人数がわかる。ここでは、同じ大きさの建物が住居なのか倉庫なのかさえわからない。
先生は質問を記録する欄があると案内した。タツオは、街の人数と書いた。宇宙へ行くために来た場所で、最初に尋ねたいことが地上の人数になったのが、不思議だった。
席の端末に、名前と生年月、健康状態、専攻が表示された。その下には、二つの項目が並んでいた。
施設内職務への応募。
外部居住への移行。
タツオは次の頁を探した。卒業旅行という項目はない。
「卒業後、皆さんは教育居住区を離れます。施設の運用に従事する方には、職員区の住居を提供します。外部居住を希望する方には、住居の紹介と移行期の生活支援を行います」
先生の声が、いつもの授業の速さで説明した。
質問の表示が、一度にいくつも点いた。
「宇宙へ行くんじゃないんですか」
「惑星外への移動は、就業先、利用可能な航路、契約条件によって異なります」
「卒業旅行は?」
「卒業に伴う移行期間を、そのように呼ぶ場合があります」
教室のどこかで、乾いた笑いがした。冗談だと受け取るための笑いだった。先生は笑わなかった。
タツオは窓の向こうの小さな機体を探した。さっきの白いものはもう見えない。
「希望は本日中に決める必要はありません。説明、面談、見学の機会があります。変更も可能です。まず、提示された職務をご確認ください」
その言葉に少し落ち着いた。自分は一般の説明を、自分にも当てはまると思ってしまったのだ。研究には別の案内があるだろう。
タツオは端末を開いた。
航行経路審査補助。
仕事内容には、申請経路の条件確認、既存基準との照合、担当責任者への報告とある。勤務時間、報酬、住居面積。研究設備の利用は職務上の必要に限る、と小さく書かれていた。
「先生。研究職の頁は、どこにありますか」
先生が机の横へ来た。関節の駆動音が、耳のすぐそばでした。
「現在、あなたに提示できる職務は、その一件です」
「新しい航法の研究は」
「募集状況は更新されます。外部を含む公開の公募にも応募できます」
タツオは成績の頁を開いた。最終研究には、最高評価の印がついていた。確認するように先生へ画面を向ける。
「あなたの成果は、評価されています」
先生は言った。
タツオは、そこから先の言葉を待った。
窓際でミオが飴の袋を開ける音だけがした。




