第9話:誰のこと?
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。
少しだけ眩しい。
時間を確認しようと枕元を探ったけれど、スマホが見つからない。
「あれ」
身体を起こす。
床を見る。
紬の布団は空だった。
「紬?」
返事はない。
机の上にもスマホはなかった。
昨日、寝る前に見たあとは充電器につないだはずなのに。
ベッドから降りる。
部屋の扉を開けようとしたところで、階段の下から声が聞こえた。
「灯ー! 起きたー?」
紬だった。
「起きた」
「朝ご飯できてるってー」
何で自分の家みたいに言ってるんだろう。
そう思いながら階段を下りた。
リビングに入る。
お母さんがキッチンに立っていた。
紬はテーブルでトーストを食べている。
「おはよう」
「おはよ」
「紬、早くない?」
「何が?」
「起きるの」
「灯が遅いだけでしょ」
時計を見る。
七時十二分。
たしかに、いつもよりは少し遅い。
「ねえ紬、私のスマホ知らない?」
「机の上じゃないの?」
「なかった」
「あ、充電器の横に落ちてたから置いといたんだった」
紬がテーブルの端を指した。
スマホがあった。
「ありがと」
椅子に座る。
お母さんが私の前に皿を置いた。
「はい」
「ありがとう」
トースト。
サラダ。
目玉焼き。
いつもの朝食だった。
昨夜のことを思い出す。
文化祭の写真。
知らない女の子。
みんなの記憶。
先生まで、あの子を知っていた。
でも紬だけは私と同じだった。
どの思い出にも、あの子はいない。
二人だったと記憶している。
スマホを見る。
通知はない。
知らないアカウントからも、まだ何も来ていない。
少し安心した。
「今日さ」
紬が言った。
「帰りどうする?」
「何が?」
「昨日の続き」
私はトーストを持ったまま紬を見る。
「写真?」
「それもだけど」
紬が牛乳を飲む。
「今日はあの子来るかな」
手が止まった。
「……誰?」
紬がこちらを見る。
「え?」
「誰のこと?」
一瞬。
本当に一瞬だった。
紬が何を言っているのか分からなかった。
それから、昨日の教室で美香に言われた言葉を思い出した。
今日、あの子休み?
いつも灯たちと一緒にいる子。
もう一人の子。
胸の奥が冷たくなる。
「紬」
「何?」
「今、誰の話してる?」
紬が笑った。
「何その聞き方」
「いいから」
無意識に、声が少し強くなった。
紬の笑顔が消える。
「……あの子だよ」
「だから誰」
「誰って」
紬が眉を寄せる。
「昨日もずっと話してたじゃん」
息が止まりそうになった。
「昨日?」
「うん」
「何を?」
「何をって……写真のこととか」
「写真?」
「そう」
紬が私を見る。
「灯、大丈夫?」
「待って」
私はスマホを掴んだ。
写真フォルダを開く。
昨日見た文化祭の写真。
指がうまく動かない。
アルバムを遡る。
去年。
文化祭。
あった。
教室の前。
私。
紬。
クラスメイト。
そして少女。
昨日と同じ。
同じ場所に立っている。
紬の隣。
「これ」
私は画面を紬へ向けた。
「この子、誰?」
紬が写真を見る。
「何でそんなこと聞くの?」
「名前」
「名前?」
「この子の名前、言って」
紬が写真を見る。
口を開く。
でも、何も出てこない。
「……あれ」
心臓が大きく鳴った。
「分かんないでしょ」
「いや、待って」
「昨日もそうだった」
「何が?」
「みんな、この子のこと知ってるのに名前だけ言えなかった」
紬が私を見る。
明らかに困惑している。
「みんなって?」
「美香とか、先生とか」
「何の話?」
「昨日、二人で確認したじゃん」
「確認?」
「先生に聞いたでしょ!」
声が大きくなった。
キッチンにいたお母さんがこちらを見る。
「朝からどうしたの?」
「…………何でもない」
お母さんは少し気にした様子を見せたけれど、それ以上は聞かなかった。
紬が小さな声で言う。
「灯、ほんとにどうしたの?」
「昨日ファミレス行ったよね」
「行ったよ」
「写真見たよね」
「見た」
「この子が昔の写真にもいたって」
紬が頷く。
「うん」
「それで、私たちはこの子を知らないって話した」
紬の表情が止まった。
「知らないってどういうこと?友達じゃん」
その一言で、分かった。
もう違う。
昨日までの紬じゃない。
「紬」
私はゆっくり聞いた。
「私たちって、普段何人でいる?」
紬は答えなかった。
答えなくても分かった。
「言って」
「灯」
「何人?」
紬が困ったように私を見る。
「三人でしょ」
頭の中で何かが切れたような気がした。
音はしなかった。
でも、昨日まで自分を支えていたものが、一本なくなった。
「違う」
「何が?」
「二人だよ」
「え?」
「私と紬。二人だった」
「灯、何言ってるの?」
紬が笑おうとした。
でも、私が笑っていないことに気づいてやめた。
「ずっと三人じゃん」
その言葉を聞いた瞬間、昨日の夜を思い出した。
暗い部屋。
「灯いるし」と言った紬。
私たちは二人だった。
少なくとも、昨日までは。
「違う」
もう一度言った。
紬の顔が少し曇った。
「何でそんなこと言うの?」
「何でって」
「昨日だって三人でファミレス行ったじゃん」
「二人だった!」
今度ははっきり声を上げた。
お母さんがまたこちらを見る。
「灯?」
「ごめん」
でも、もう抑えられなかった。
「紬、昨日ファミレスで何飲んだ?」
「え?」
「いいから」
「メロンソーダ」
「私は?」
「アイスティー」
「じゃあ、あの子は?」
紬が止まった。
「……何だったっけ」
「ほら」
「忘れただけでしょ」
「昨日あの子、どこに座ってた?」
「どこって」
「私の隣?紬の隣?」
紬が黙る。
「何着てた?」
「制服」
「鞄は?」
「黒」
「何話した?」
紬の表情が少しずつ変わっていく。
「……覚えてない」
「名前は?」
「それは」
「分からない」
紬が何も言わない。
「なのに、三人だったっていうの?」
私は自分でも嫌になるくらい強い声で言っていた。
紬が視線を下げる。
「でも」
「何」
「いたよ」
小さな声だった。
「いたのは分かる」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
紬が胸元に手を置いた。
「分かるんだもん」
その言い方が怖かった。
根拠なんてない。
記憶も曖昧。
名前も分からない。
それなのに、紬の中では「いた」という事実だけが確定している。
昨日、美香たちがそうだったように。
私は椅子から立った。
「学校行こ」
「え?」
「もう行く」
「まだ早いよ」
「いいから」
紬は何か言いたそうだった。
でも、私の顔を見て諦めたらしい。
「……分かった」
◇ ◇
学校までは、ほとんど話さなかった。
紬は何度かこちらを見た。
私も気づいていた。
でも、何を話せばいいのか分からない。
怖い。
怪異が怖いのとは少し違う。
紬の顔も。
声も。
歩き方も。
全部いつも通りなのに。
私の知っていることと、紬の知っていることが違う。
それがたまらなく怖かった。
駅から学校まで歩く。
横断歩道。
コンビニ。
昨日までと同じ道。
その途中で紬が言った。
「灯」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって」
「じゃあ何」
私は立ち止まりそうになった。
でも歩き続けた。
「怖いだけ」
紬が黙る。
「紬が昨日のこと忘れてるから」
「忘れてないよ」
「忘れてる」
「覚えてるって」
「じゃあ昨日寝る前、何話した?」
「英単語テストのこと」
「その前」
「写真のこと」
「どんなこと話した?」
紬は答えなかった。
「私たち二人だったって、何回も確認したんだよ」
「……そんなこと話した?」
胸が締めつけられる。
「話したよ」
「ごめん。ほんとに覚えてない」
その声は申し訳なさそうだった。
だから余計に苦しかった。
紬は悪くない。
たぶん。
いや、絶対に。
「ねえ、灯」
「何」
「あの子のこと、嫌いなの?」
足が止まった。
紬も二歩先で止まる。
振り返る。
「……何でそうなるの」
「だって、ずっと『いない』って言うから」
「いないよ」
「いるじゃん」
「どこに?」
紬が周囲を見る。
当然、少女はいない。
通学中の生徒がいるだけ。
紬は少し困った顔をする。
「今日はまだ会ってないけど」
「じゃあいないじゃん」
「そういう意味じゃないでしょ」
私は何も言えなかった。
紬が少しだけ苛立ったように言う。
「何かあったの?」
「何が」
「あの子と」
「だから、そもそも知らないって言ってるじゃん。友達じゃないよ」
「でも、それじゃ説明つかないじゃん」
「何が?」
紬が言った。
「一緒にいたこと」
私は口を閉じた。
「写真だってあるし」
「写真がおかしくなってるんだよ」
「そんなことある?」
昨日、私が言った言葉だった。
写真が変わった?
そんなことある?
そのときは紬も「あるわけないじゃん」と言った。
今は逆だった。
私はもう何も言わなかった。
◇ ◇
教室に入る。
美香がこちらを見た。
「おはよ」
「おはよう」
紬がいつも通り返す。
私は軽く手を上げた。
美香が私たちの後ろを見る。
「今日も休み?」
また。
「誰が?」
私は反射的に聞いた。
美香が一瞬止まる。
「ほら」
名前が出ない。
でも今回は紬が答えた。
「あの子?」
「そうそう」
美香が頷く。
その会話を聞いた瞬間、頭がくらっとした。
紬が、向こう側にいる。
「昨日もいなかったよね」
美香が言う。
「そうだっけ?」
紬が考える。
「いた気もする」
「えー、どっち?」
二人が笑う。
私は笑えなかった。
鞄を机に置く。
椅子に座る。
ホームルームまでまだ時間がある。
スマホを出した。
紬とのトーク画面を開く。
昨日のメッセージ。
ファミレスに行く前。
『駅前のとこ行こ』
『了解』
その下。
私は指を止めた。
見覚えのない文章があった。
私が送ったことになっている。
『あの子にも聞いといて』
意味が分からない。
送信者は私。
昨日の午後三時四十二分。
でも、送った記憶がない。
その下に紬の返信。
『来るって』
さらに。
『いつものとこで待ち合わせでいい?』
『うん』
指先が冷たくなる。
昨日。
私と紬は二人でファミレスへ行った。
待ち合わせなんてしていない。
私は隣の席の紬を見る。
「紬」
「ん?」
「これ見て」
スマホを差し出す。
紬が画面を見る。
「何?」
「このメッセージ」
「あの子にも聞いといて?」
「うん」
「それが?」
「私、送ってない」
紬が私を見る。
「送ってるじゃん」
「覚えてない」
「忘れてるだけじゃない?」
「昨日だよ?」
「でも記録残ってるし」
紬は簡単に言う。
私はスマホを引っ込めた。
記録が残っている。
その事実の方が、自分の記憶より強い。
誰に説明しても、そう言われる。
でも、違う。
絶対に違う。
そう思った瞬間だった。
頭の中に、何かが浮かんだ。
駅前。
紬と歩いている。
その隣に誰かがいる。
三人。
「あそこ混んでるかな」
誰かが言う。
紬が、
「大丈夫じゃない?」
と答える。
私は笑っている。
一瞬だった。
次の瞬間には消えた。
息を飲む。
「灯?」
紬がこちらを見る。
「今」
「何?」
「……何でもない」
怖かった。
今のは何だったんだろう。
記憶?
そんなはずない。
でも、夢みたいに曖昧でもなかった。
本当に昨日あったことを思い出したときの感覚に近かった。
私は両手でこめかみを押さえた。
「大丈夫?」
「うん」
「顔色悪いよ」
「平気」
紬が心配そうに見ている。
その顔を見て、また別のものが浮かんだ。
去年の夏。
三人で駅前のカフェにいる。
紬がアイスコーヒー。
私はレモネード。
もう一人は、ミルクティー。
その子は、いつもミルクティーを飲んでいた。
そこまで考えて、私は立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
周りがこちらを見る。
「灯?」
「違う」
「何が?」
「知らない」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は知らない」
紬が立ち上がる。
「保健室行く?」
「行かない」
「でも」
「大丈夫だから」
大丈夫じゃない。
紬だけじゃない。
私まで侵されている。
◇ ◇
昼休み。
私は一人で図書室へ行った。
紬には「ちょっと一人にして」と言った。
悲しそうな顔をされた。
悪いと思った。
でも、隣にいると怖かった。
どこまで紬の記憶が変わっているのか分からない。
そして、紬と話していると、私の中にも知らない記憶が増える。
図書室の一番奥。
人の少ない席。
スマホを机に置く。
メモアプリを開いた。
文字を打つ。
『私と紬は二人だった』
保存。
その下。
『知らない女の子が写真に写り始めた』
『最初は背景だった』
『写真を撮るのをやめると、向こうから写真が送られてきた』
『送られてくる写真の距離が近づいた』
『クラスのみんなが、三人だったと言い始めた』
『昨日までは紬も知らなかった』
最後の一文を何度も見る。
昨日までは紬も知らなかった。
これは本当。
絶対に。
さらに書き加える。
『私はあの子の名前を知らない』
『顔も覚えられない』
『友達ではない』
保存する。
これでいい。
もし私の記憶まで変わっても。
文字が残っていれば。
そう思って、スクリーンショットも撮った。
それから紙にも書いた。
ノートの最後のページに、全く同じ内容。
念のため日付も入れる。
やりすぎかもしれない。
でも今は、自分の頭より文字の方を信じたかった。
ノートを閉じる。
そのとき、スマホが震えた。
身体が固まる。
知らないアカウント。
久しぶりの通知。
開く。
メッセージはなかった。
写真だけ。
教室。
昼休み。
紬が自分の席で弁当を食べている。
向かいに少女が座っていた。
初めてだった。
向こうから送られてきた写真の中に、少女自身が写っている。
私は息を止めた。
でも、すぐに違和感に気づいた。
これは少女が撮った写真じゃない。
撮影位置。
角度。
見覚えがある。
紬のスマホだ。
嫌な予感がした。
写真フォルダではなく、紬とのトーク画面を開く。
新着。
紬から写真が一枚送られていた。
同じ写真。
その下。
『今日一緒に食べた』
私は画面を見たまま動けなかった。
少女は普通に座っていた。
紬の前。
弁当箱がある。
箸を持っている。
こちらを向いている。
やっぱり顔は分からない。
見えているはずなのに、どんな顔なのか頭に残らない。
私は紬へ電話をかけた。
すぐに出た。
『もしもし』
「今どこ?」
『教室』
「誰といる?」
少し間があった。
『……何で?』
「いいから」
紬の声が小さくなる。
『あの子』
喉が乾いた。
「名前は?」
『またそれ?』
「名前言って」
『灯』
「お願い」
紬が黙る。
十秒。
二十秒。
『……分かんない』
「じゃあ何で一緒にいるの」
『何でって』
「知らないでしょ、その子」
『知らなくないよ』
「名前も言えないのに?」
紬の声が少し強くなった。
『灯さ、朝から何なの?』
「何って」
『あの子のこと、ずっといないみたいに言って』
「いなかったから」
『いたって』
「いない」
『写真あるじゃん』
「だからそれがおかしいの!!!」
図書室だったことを思い出し、声を抑える。
周りの何人かがこちらを見ていた。
私は立ち上がり、廊下へ出た。
「紬」
『何』
「昨日の夜、私の家に泊まったよね」
『うん』
「誰がいた?」
『灯と私』
私は息を止めた。
「二人?」
『……あと』
紬が言葉を止めた。
「あと?」
『あの子もいたような』
「いない」
『でも』
「いなかった」
『灯』
「二人だった」
何度言えばいいのか分からない。
「二人だったよ」
電話の向こうで紬が黙る。
そして。
『何でそんなに嫌うの?』
その言葉に、何も返せなくなった。
「嫌ってない」
『じゃあ何』
「知らないの」
『だから』
「私はその子を知らない」
声が震えた。
「それだけ」
紬は少し黙った。
『……分かった』
明らかに納得していない声だった。
「何が?」
『もういい』
電話が切れた。
私はスマホを耳から離す。
廊下に一人。
窓の外からグラウンドの声が聞こえる。
普段なら何とも思わない音だった。
急に、ものすごく一人になった気がした。
◇ ◇
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板を見ている。
先生の声を聞いている。
ノートも取っている。
でも、時々おかしなものが混ざる。
三人で映画を見た。
違う。
三人で夏祭りに行った。
違う。
あの子は甘いものが苦手。
知らない。
あの子は笑うと少しだけ目が細くなる。
知らない。
全部、知らない。
私はノートの端に何度も書いた。
知らない。
知らない。
知らない。
文字が増えるほど、自信がなくなっていく。
本当に?
本当に知らない?
写真がある。
紬も覚えている。
美香も。
先生も。
私だけが忘れているんじゃないのか。
そんな考えが浮かぶ。
違う。
昨日まで紬も知らなかった。
その証拠は、昨日の会話。
でも記録はない。
私の記憶だけ。
じゃあ。
もし、私の方がおかしいなら?
そこまで考えて、ペンを置いた。
考えたら駄目だ。
六時間目が終わる。
チャイム。
教室が一気に騒がしくなる。
私は鞄に教科書を入れた。
今日は一人で帰ろうと思った。
紬と一緒にいるのが嫌なわけじゃない。
ただ怖かった。
紬が隣に来る。
「灯」
「何」
「帰る?」
「今日は一人で帰る」
紬の表情が曇る。
「まだ怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「今日はいい」
「何で?」
答えられない。
紬が少し俯いた。
泣きそうな顔だった。
「私、何かしちゃったかな」
その声で胸が痛くなった。
悪いのは紬じゃない。
分かっている。
でも。
「紬は何もしてないよ。でも、ごめん」
それしか言えなかった。
そのとき。
「紬」
知らない声がした。
私たちは同時に振り返った。
教室の入口。
女の子が立っていた。
同じ制服。
黒い髪。
黒い鞄。
そこから白いキーホルダーが下がっている。
一瞬で分かった。
写真の子。
初めて。
ちゃんと目の前にいた。
教室にいる誰も騒がない。
美香は一度ちらっと見て、それだけ。
男子たちも気にしていない。
まるで。
本当に、ずっとこの教室にいたみたいに。
紬の顔が明るくなった。
「あ、来た」
女の子がこちらへ歩いてくる。
私は動けなかった。
近づく。
五メートル。
三メートル。
一メートル。
写真の中で何度見ても覚えられなかった顔。
今は目の前にある。
普通の女の子だった。
でもやっぱり、どんな顔なのか分からない。
見ているのに。
目を逸らした瞬間には、もう思い出せない気がした。
少女が紬の隣に立つ。
そして私を見る。
「帰ろ」
普通の声だった。
私は何も言えなかった。
紬が私を見る。
「灯?」
少女も私を見る。
二人が並んでいる。
その光景を見た瞬間。
また、知らない記憶が浮かんだ。
この並びを、私は知っている。
何度も見た。
紬が左。
あの子が右。
私はその真ん中を歩いていた。
三人で、ずっと。
胸の奥が苦しくなる。
違う。
違う違う違う違う。
私は鞄の中へ手を入れた。
ノートを掴む。
昼休みに書いたページを開く。
そこには確かに、自分の字で書いてあった。
『私と紬は二人だった』
『私はあの子を知らない』
私はその文字を見た。
それから、目の前の少女を見る。
少女が小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
私はノートを握った。
知らない。
私は、この子を知らない。
そう言い聞かせた。
でも、そのとき初めて。
自分の中に浮かんだ疑問を、完全には消せなかった。
――本当に?
私はまだ、それに答えられなかった。




