第8話:ずっといた子
結局、その日は誰にも聞けなかった。
私たち、いま何人に見える?
そんなことを真面目な顔で聞いたところで、返ってくる答えは想像できた。
三人。
たぶん、それだけだ。
朝のホームルームが始まってからも、私は何度か教室の後ろを見た。
誰もいない。
正確には、誰もいないわけじゃない。提出物を集めている子が歩いていたり、友達の席へ移動している子がいたりする。
でも、あの女の子はいなかった。
少なくとも、私には見えない。
「雨崎」
名前を呼ばれて、慌てて前を向いた。
担任が出席簿から顔を上げている。
「はい」
「いるなら返事してくれ」
教室の何人かが笑った。
「すみません」
先生はそれ以上何も言わず、次の名前を呼んだ。
一人ずつ返事をしていく。
私はその声を聞きながら、ぼんやりと人数を数えた。
欠席は一人。
名前を呼ばれた人数にも、おかしなところはない。
あの女の子の名前は呼ばれなかった。
当然だ。
名簿にはいない。
それなのに、美香たちはあの子を知っている。
いつも私と紬と一緒にいると言った。
だったら、どこに座っていると思っているんだろう。
出席を取るときはどうしているんだろう。
先生が名前を呼ばないことを、誰も変だとは思わないのだろうか。
ホームルームが終わった。
担任が出席簿を閉じ、教室を出ていこうとする。
私は立ち上がった。
「先生」
「ん?」
「昨日の写真のことなんですけど」
先生の顔が少し真面目になる。
「また何か来たのか?」
「今朝も」
紬も立ち上がった。
三人で廊下へ出る。
私はスマホを開き、今朝送られてきた写真を見せた。
先生は黙って画面を見る。
写真の私が席に座っている。
隣に紬。
撮影位置は、私たちのすぐ後ろ。
「これ、今日か?」
「そうです。八時十九分」
「撮った人は?」
「分かりません。メッセージが来てすぐ振り向いたけど、後ろに誰もいませんでした」
先生は写真を拡大した。
画面の端まで確認してから、教室の中を見る。
「この距離なら、普通は気づくよな……」
「先生」
「ん?」
私は少し迷った。
「私って、いつも誰と一緒にいますか?」
先生がこちらを見る。
「いつもって?」
「普段です。休み時間とか、放課後とか」
「白雲だろ」
「それだけですか?」
先生はすぐには答えなかった。
ほんの数秒だったと思う。
でも、その間が嫌だった。
「……あと」
先生が教室の中を見る。
「あの子」
隣にいた紬の肩が、私の腕に触れた。
小さく息を飲むような音も聞こえた。
「どの子ですか」
「ほら。いつも一緒にいる……」
先生の目が教室の中を探す。
「あれ、今日はいないのか?」
やっぱり。
私は紬を見る。
紬も私を見ていた。
「先生」
今度は紬が聞いた。
「その子の名前、分かります?」
「名前?」
先生が眉を寄せる。
「何だっけ」
美香と同じだった。
「ちょっと待てよ。毎日見てるんだから」
先生は本気で思い出そうとしていた。
私は聞いた。
「どんな子ですか?」
「どんなって……」
「顔とか、髪とか」
「黒髪だったよな」
「顔は?」
先生が黙る。
「顔……」
視線が宙を泳ぐ。
「いや、分かるんだけどな」
「どんな顔ですか?」
「だから……」
先生は言葉を探した。
でも、結局出てこなかった。
「……変だな」
小さく笑う。
「毎日見てるはずなんだけど」
毎日。
その言葉だけが耳に残った。
「先生、その子って何組ですか?」
紬が聞く。
「何組って、お前たちと同じだろ」
「うちのクラス?」
「ああ」
「でも、さっき出席取るとき名前呼んでませんよね」
先生の表情が止まった。
「あれ」
初めて。
本当に初めて、おかしいことに気づいたような顔だった。
先生が教室を見る。
それから手に持った出席簿を開く。
一人ずつ名前を確認していく。
「……いないな」
「ですよね」
「でも」
先生は出席簿と教室を交互に見た。
「いたよな?」
私たちは答えなかった。
答えられるはずがなかった。
◇ ◇
一時間目が終わってすぐ、私と紬は教室を出た。
「先生もだったね」
階段を下りながら紬が言う。
「うん」
「みんなが言ってるの、絶対あの子でしょ」
「たぶんね」
紬がスマホを取り出した。
私は反射的にその手を見る。
「写真撮らないよ」
「分かってる」
「カメラも開かないでよ」
「開かないって」
紬が見せたのは写真フォルダだった。
「確認しよ」
「何を?」
「いつからいるのか」
私は足を止めた。
「写真で?」
「だって、みんな前からいたみたいに言ってるじゃん」
「でも、私たちが気づいたのは先週だよ」
「だからだよ」
紬は画面を私に向けた。
「本当に先週からなのか、調べよう」
そのまま二階まで下り、人の少ない渡り廊下へ移動した。
次の授業まで十分もない。
全部を見る時間はなかった。
紬が写真を遡る。
「最初に気づいたのがこれ」
先週の昼休み。
私と紬。
教室の後ろに、あの子。
次。
駅前のクレープ屋。
通りの向こう。
同じ制服。
同じ黒い鞄。
白いキーホルダー。
その次。
土曜日のショッピングモール。
もっと近い。
ここまでは知っている。
問題は、その前だ。
紬がさらに遡る。
前日。
前々日。
一週間前。
写真はいくらでもある。
紬は何でも撮る。
昼ご飯。
放課後の空。
コンビニで見つけた変なお菓子。
私が机に突っ伏して寝ているところ。
「ちょっと待って」
「何?」
「これ勝手に撮ったでしょ」
「今そこ?」
「消して」
「後で」
「絶対だからね」
「はいはい」
さらに遡る。
二週間前。
三週間前。
「あ」
紬の指が止まった。
「何?」
画面を見る。
ファミレスだった。
先月、テストが終わった日に二人で寄った店。
窓際の席。
私がポテトを食べている。
向かいから紬が撮った写真だった。
「……いる」
私の後ろ。
二つ隣のテーブル。
黒髪の女の子が座っていた。
顔は横を向いていて見えない。
椅子の背もたれに黒い鞄が掛かっている。
そこに、小さな白いもの。
私は写真の日付を確認した。
一ヶ月以上前だった。
「この頃からいた?」
紬が聞く。
「知らない」
「覚えてない?」
「こんなの覚えてるわけないじゃん。普通にお客さんだと思うでしょ」
「でも同じ子だよね」
私は答えなかった。
もう「たぶん」で済ませる方が無理があった。
紬がさらに遡る。
五月。
四月。
新しいクラスになったばかりの頃。
「あった」
今度は教室だった。
何人かで撮った写真。
私もいる。
紬もいる。
美香もいる。
そして、教室の一番後ろ。
あの女の子が立っていた。
遠い。
顔はよく見えない。
でも、黒い鞄に白いものがぶら下がっている。
「四月だよ」
紬が言った。
「うん」
「私たち、あの子に気づいたの先週だよね」
「うん」
「じゃあ、これ何?」
答えられない。
予鈴が鳴った。
二人ともびくっとした。
「戻ろ」
私が言った。
紬がスマホをしまう。
教室へ戻る途中、紬が小さく言った。
「放課後、もっと遡ってみる?」
私は少し迷った。
「……うん」
別に知りたくはない。
でも、知らないままの方がもっと怖かった。
◇ ◇
放課後。
私たちは学校を出て、そのまま駅前のファミレスに入った。
家に帰ってから一人で見るのは嫌だった。
店内はまだ空いている。
奥の席に座る。
注文を済ませると、紬がスマホを机の真ん中に置いた。
「どこまで見る?」
「去年くらい?」
「中学まで?」
「そこまではいいよ」
「でもいたらどうする?」
「そういうこと言わないで」
「ごめん」
紬が写真を遡る。
三月。
二月。
一月。
去年の冬。
最初のうちは何もなかった。
私と紬。
クラスメイト。
家族。
景色。
食べ物。
どれも、普通の写真ばかり。
「あれ」
紬の指が止まる。
十二月。
駅前のイルミネーション。
私と紬が並んで写っている。
少し離れた後ろ。
人混みの中に、黒髪の女の子。
「……いるね」
「うん」
十一月、いない。
十月、いる。
九月、いない。
「全部じゃないんだ」
紬が言った。
「でも、結構いる」
「こんなの気づかないよ」
確かにそうだった。
全部、背景だ。
駅、店、学校。
人がいることが当たり前の場所。
同じ子が写っているなんて、わざわざ過去の写真を並べなければ気づくはずがない。
「待って」
紬が画面を戻した。
「どうしたの?」
「この写真」
十二月のイルミネーション。
「これ、誰に撮ってもらったっけ」
「え?」
「ほら、二人とも写ってるじゃん」
言われて気づいた。
私と紬が並んでいる。
自撮りではない。
少し離れた正面から撮られていた。
「誰かに頼んだんじゃない?」
「誰に?」
「通りすがりの人とか」
「覚えてる?」
「覚えてない」
「私も」
紬は少し考えてから、首を振った。
「まあ、去年だしね」
「うん」
それ以上考えないことにした。
写真を遡る。
去年の文化祭まで来た。
紬の指が止まった。
「灯」
「何?」
「これ」
教室の前で撮った集合写真。
七人くらいで並んでいる。
私。
紬。
当時同じクラスだった子たち。
その中に、少女がいた。
今までとは違った。
背景じゃない。
私たちと同じ列に並んでいる。
「……何これ」
少女は紬の隣に立っていた。
顔もこちらを向いている。
でも、よく分からない。
ぼやけているわけではなかった。
画質が悪いわけでもない。
目もある。
鼻もある。
口もある。
そういうものが写っていることは分かる。
なのに、どんな顔なのか頭に入ってこなかった。
目を離す。
もう一度見る。
やっぱり分からない。
「変じゃない?」
紬が言った。
「うん」
「顔見えてるよね?」
「見えてる」
「どんな顔?」
私は写真を見る。
「……分かんない」
「だよね」
紬が画面を伏せた。
「今、思い出せる?」
できなかった。
髪が黒かったことしか残っていない。
もう一度画面を見る。
顔はちゃんとある。
閉じる。
頭の中に留めていたはずの女の子の顔が消える。
「気持ち悪い」
紬が呟いた。
「他の写真は?」
「見る?」
「うん」
文化祭の日の写真を開いていく。
廊下。
私と紬。
その間に少女。
三人で並んでいた。
次。
模擬店の前。
三人。
次。
階段。
三人。
次。
教室。
三人。
背景に写り込んでいるんじゃない。
明らかに、私たちと一緒に写真を撮っている。
紬の指が止まった。
「これ」
三人で紙コップを持って笑っている写真。
「このとき覚えてる?」
私は画面を見る。
「文化祭は覚えてるよ」
「そうじゃなくて、この写真」
考える。
去年の文化祭。
紬と朝から回った。
焼きそばを食べた。
美香たちのクラスにも行った。
体育館で軽音部の演奏を見た。
夕方まで、ずっと一緒だった。
「……二人だった」
私は言った。
紬がすぐに頷いた。
「だよね」
「うん」
「私もそう覚えてる」
「この子はいなかった」
「絶対いなかった」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
写真がおかしい。
みんなの記憶もおかしい。
先生までおかしくなっている。
でも、紬は同じだ。
私たちは二人だった。
そこだけは一致している。
「じゃあ、これ何なの」
紬が画面を見つめる。
「分かんない」
「写真が変わった?」
「そんなことある?」
「あるわけないじゃん」
「じゃあ昔から写ってたの?」
「それもおかしいでしょ」
「だよね」
結局、何も分からない。
店員さんがドリンクを運んできた。
「お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
紬が慌ててスマホを伏せる。
店員さんが離れてから、私は息を吐いた。
急に店内の音が戻ってきたような気がした。
隣の席の会話。
食器の音。
店内放送。
厨房から聞こえる声。
全部普通だった。
「もっと前のも見てみる?」
私は首を横に振った。
「今日はやめよ」
「うん」
紬もすぐに同意した。
怖かった。
どこまで遡ればいなくなるのか。
それとも、もうどこまで遡ってもいるのか。
確かめたくなかった。
◇ ◇
ファミレスを出たところで、紬が言った。
「今日泊まっていい?」
「急だね」
「だって怖いじゃん」
「紬の家はいいの?」
「聞いてみる」
紬がスマホを出す。
私は反射的にその手を見た。
「撮らないって」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってた」
「言ってない」
紬が母親にメッセージを送る。
しばらくして、許可が出たらしい。
私も母に連絡した。
夕飯は家で食べることになった。
帰宅してからは、なるべく少女の話をしなかった。
母と三人で夕飯を食べる。
紬が今日の体育の話をする。
私は適当に相槌を打つ。
食後に順番で風呂へ入って、部屋に戻る。
普通にしていたかった。
それでも、ときどきスマホが気になった。
知らないアカウントからは何も来ない。
夕飯の間も。
風呂に入っている間も。
午後十時を過ぎても。
「今日は来ないね」
床に座っていた紬が言った。
「そういうこと言うと来そうだからやめて」
「あ、ごめん」
「もう」
「でも昨日も一日空いたじゃん」
「うん」
「毎日ってわけじゃないのかな」
「分かんない」
分からない。
何をしたら写真を撮られるのか。
どうして過去の写真にまであの子がいるのか。
クラスのみんなが、どうしてあの子を知っているのか。
分からないことばかりだった。
唯一分かっているのは、私と紬だけがあの子を知らないこと。
それだけだった。
午後十一時を過ぎた頃。
紬は床に敷いた布団に寝転がった。
私はベッド。
結局、電気は消さなかった。
「灯」
「何?」
「明日学校行く?」
「行くでしょ」
「休まない?」
「何て言って?」
「体調不良」
「二人同時に?」
「昨日一緒に食べたものに当たった」
「何食べたの」
「牡蠣」
「食べてないじゃん」
「設定だから」
「雑すぎ」
紬が笑う。
私も笑った。
少し安心した。
いつもの紬だった。
歩道橋のときもそうだった。
怖いことが起きても、二人でいる間は普通の話ができた。
今日だって同じだった。
「でもさ」
紬が言った。
「明日もみんな、あの子のこと知ってるのかな」
「たぶん」
「嫌だな」
「うん」
「先生までって結構やばくない?」
「かなり」
「警察とか行く?」
「何て言うの」
「写真撮られてますって」
「そこだけなら相談できるけど」
「昔の写真にも知らない子が増えてます」
「絶対信じてもらえない」
「だよね」
紬が枕に顔を埋めた。
「何なんだろ、あの子」
「知らない」
「何がしたいんだろ」
「分かんない」
「灯、全部分かんないじゃん」
「紬もでしょ」
「私は知ってるよ」
「何を」
紬が顔を上げた。
「明日の一時間目、英単語テスト」
忘れていた。
「……最悪」
結局、二人で単語帳を開いた。
十一時半。
眠くなってきた紬が先に布団へ戻る。
「もう無理」
「まだ半分じゃん」
「明日の私を信じる」
「今日の紬がやらないことを、明日の紬ができると思う?」
「できる。明日の私は強いから」
「はいはい」
紬が布団を被る。
「おやすみ」
「おやすみ」
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。
私はもう少しだけ単語帳を見ていた。
でも、頭に入らない。
机の横に置いたスマホが気になる。
結局、今日はあれから一度も連絡が来なかった。
午前零時を少し過ぎて、私は単語帳を閉じた。
念のためスマホを確認する。
通知はない。
知らないアカウントを開く。
最後のメッセージは、昨日の朝。
『おはよう』
その下に、教室で撮られた私と紬の写真。
一メートルもない距離。
私は画面を閉じた。
それから、何となく紬とのトーク画面を開いた。
ずっと前まで遡ってみる。
去年の文化祭。
写真がいくつも送られていた。
食べ物。
教室。
体育館。
紬が買った変なカチューシャ。
私が嫌がっているのに撮られた写真。
メッセージも残っている。
『次どこ行く?』
『軽音』
『混んでそう』
『行くだけ行こ』
全部覚えている。
紬と二人で歩いた。
二人で話した。
二人で笑った。
あの子はいなかった。
今日見た写真だけがおかしい。
そう思った。
私と紬は、ずっと二人だった。
少なくとも、紬もそう覚えている。
スマホを置く。
机の電気を消した。
ベッドに入る。
「……灯」
暗闇の中で声がした。
心臓が跳ねた。
紬だった。
「何?」
「電気消した?」
「消したよ」
「そっか」
眠そうな声だった。
「怖い?」
私が聞く。
少し間があった。
「ちょっと」
「つけとく?」
「いい」
「ほんと?」
「灯いるし」
「何それ」
紬が小さく笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
それきり、紬は何も言わなかった。
私も目を閉じた。
美香も。
クラスのみんなも。
先生まで。
みんなあの子を知っている。
写真の中では、ずっと前から私たちと一緒にいる。
それでも、紬だけは私と同じだった。
あの子を知らない。
去年の文化祭も、二人だったと覚えている。
だから、まだ大丈夫だと思った。
何が起きているのか分からなくても。
明日になっても、紬と二人で考えればいい。
そんなことを考えながら、私は眠った。




