第10話:三人
「帰ろ?」
少女は、もう一度言った。
普通の声だった。
怒っているわけでもない。
笑っているわけでもない。
ただ、放課後になったから一緒に帰ろうと誘っている。
それだけに聞こえた。
私は手の中のノートを見る。
『私と紬は二人だった』
『私はあの子を知らない』
昼休みに自分で書いた文字。
それを見なければ、今頃どうなっていたのか分からない。
目の前には紬がいる。
その隣には少女がいる。
二人とも、私が何を怖がっているのか分からないという顔をしていた。
「灯?」
紬が呼ぶ。
私はノートを閉じた。
「紬」
「何?」
「この子の名前、言える?」
紬の表情が曇る。
「またそれ?」
「お願い」
少女は何も言わない。
私を見ている。
「名前」
もう一度言った。
紬は少女を見る。
「えっと……」
そこまで口にして、止まった。
「ほら」
「ちょっと待ってよ」
「昨日からずっとそうでしょ」
「だからって」
「紬はこの子のこと知ってるんだよね?」
「知ってるよ」
「いつ知り合ったの?」
「いつって……」
紬の視線が揺れる。
「中学?」
「違うでしょ」
「高校入ってからだったかな」
「いつ?」
「そんな細かいこと覚えてないよ」
「何組?」
紬は黙った。
私は少女を見る。
「あなた、何組?」
少女も答えなかった。
教室では、帰り支度をしていた子たちがまだ残っている。
すぐ近くでこんな話をしているのに、誰も気にしていない。
美香は友達と話しながら鞄を肩に掛けている。
窓際では男子がふざけている。
いつもの放課後。
その中に少女だけが、何の違和感もなく混ざっている。
「ねえ」
私は美香を呼んだ。
「何?」
「この子って何組?」
少女を指す。
美香は一瞬だけ目を丸くした。
「何組って」
少女を見る。
「……うちじゃないの?」
「名簿にいない」
「え?」
「先生も昨日確認した」
美香が少女を見る。
それから私を見る。
「でも、いるじゃん」
「それ、答えになってないよ」
「だって」
美香が困ったように笑う。
「ずっといるじゃん」
またそれだった。
ずっと。
みんな、それしか言えない。
「名前は?」
美香の笑顔が止まった。
「……灯、昨日もそれ聞いてたよね」
「うん」
「何でそんな名前にこだわるの?」
紬と同じだった。
答えられないことを、不思議だとは思わない。
むしろ、それを聞く私の方がおかしいらしい。
「もういい」
私は鞄を持った。
「帰る」
「待って」
紬が追いかけてくる。
私は少女を見ないようにして教室を出た。
でも、廊下を歩き始めると足音が増えた。
私。
紬。
もう一人。
三人分。
振り返らなくても分かった。
◇ ◇
昇降口へ向かう間、少女はほとんど喋らなかった。
紬だけが、いつものように話している。
私は、何も話したくない気分だったけれど、紬に付き合う形で結局喋っている。
「今日英単語何点だった?」
「六」
「え、勝った」
「何点?」
「七」
「一点だけね」
「勝ちは勝ち」
紬が笑う。
その横を少女が歩いている。
私は少し後ろを歩いていた。
この光景を知っている気がした。
廊下を三人で歩いたことがある。
紬が喋って。
少女が聞いて。
私が少し後ろからついていく。
そんな記憶が頭の隅にある。
違う。
私は鞄の中のノートを握った。
「灯?」
紬が振り返る。
「何?」
「遅いよ」
「普通に歩いてる」
「じゃあ私たちが速いのか」
私たち。
その言葉に、少しだけ胸が詰まる。
昇降口へ着く。
靴を履き替える。
少女も同じようにローファーを履いた。
下駄箱。
どこから靴を出したのか見ていなかった。
「ねえ」
私は思わず聞いた。
少女がこちらを見る。
「靴、どこに入れてるの?」
紬が怪訝そうな顔をした。
「何その質問」
「いいから」
少女は答えなかった。
ただ、少しだけ首を傾げた。
「行こ」
また、それだけ。
私はその場に立ち止まった。
「……何で答えないの」
少女は私を見る。
「何組なの」
返事はない。
「名前は?」
何も言わない。
「家は?」
無言。
「私たちといつ知り合ったの?」
少女は黙っている。
紬が私の腕を掴んだ。
「灯」
「何」
「やめなよ」
「何で?」
「何でって」
紬は少女を見る。
「困ってるじゃん」
「困ってるように見える?」
少女の表情は変わっていなかった。
悲しそうでもない。
怒ってもいない。
ただ私を見ている。
むしろ、笑っているようにさえ見える。
「私、この子のこと何も知らない」
「またそれ?」
「紬だって何も知らないじゃん」
「知ってるよ」
「じゃあ名前」
「……それは」
「家」
「知らない」
「誕生日」
「知らない」
「好きなもの」
紬が止まる。
その瞬間。
頭の中に、答えが浮かんだ。
ミルクティー。
私は息を止めた。
なぜ。
なぜ私は知っている?
少女は甘いものが好きで。
でも生クリームは少し苦手。
冬は手が冷たい。
体育は嫌い。
朝が弱い。
知らない。
知らない。
知らない。
私は頭を振った。
「灯?」
紬の声。
「帰る」
私は靴箱の扉を閉めた。
少し強く閉めすぎて、大きな音がした。
「今日は一人で帰る」
「え?」
「紬も来ないで」
「何で」
「お願い」
紬の顔が悲しそうに見えた。
胸が痛んだ。
でも、今は一緒にいたくなかった。
紬と話していると、記憶が増える。
少女を見ていると、もっと増える。
「ごめん」
それだけ言って、私は外へ出た。
後ろから足音が聞こえた。
一つ。
二つ。
私は止まった。
振り返る。
紬。
その隣に少女。
「来ないでって言ったよね」
紬が困った顔をする。
「でも一人で帰らせられないよ」
「何で」
「昨日から変だし」
「変なのは私じゃない」
言ってから後悔した。
紬の表情が固まる。
「……分かった」
「紬」
「いい」
声が少し冷たかった。
怒ったのかもしれない。
紬からしたら、きっとおかしいのは私の方だ。
「でも駅までは行く」
「何で?」
「心配だから。友達だし」
私は何も言えなかった。
結局、三人で歩いた。
◇ ◇
駅までの道。
少女は私の右側にいた。
紬は左。
私は真ん中。
さっき頭に浮かんだ記憶と同じ並びだった。
嫌になって速度を落とす。
すると二人も遅くなる。
速く歩く。
二人もついてくる。
距離が変わらない。
「コンビニ寄る?」
紬が聞いた。
「寄らない」
「そっか」
「紬は?」
「私はいい」
少女は何も言わない。
駅前の信号で止まる。
横断歩道の向こう側に、制服姿の女子高生が何人かいる。
信号が青になる。
歩き出す。
その途中。
ガラス張りの店の前を通った。
私は何となく横を見る。
ガラスに私たちが映っていた。
私。
紬。
少女。
ちゃんと三人いる。
立ち止まる。
「灯?」
私はガラスを見る。
少女の姿も普通に映っている。
黒い髪。
制服。
鞄。
白いキーホルダー。
顔もある。
見える。
なのに、少女から目を逸らして紬を見る。
もう一度ガラスを見る。
顔が思い出せない。
「何見てるの?」
「……何でもない」
歩き出す。
そのとき、ガラスの中の少女が笑ったような気がした。
振り返る。
少女は無表情だった。
見間違いだ、たぶん。
私はもうガラスを見なかった。
◇ ◇
駅に着いた。
「じゃあ私こっちだから」
紬が言う。
いつもなら、ここで別れる。
私は少し安心した。
「うん」
「家着いたら連絡して」
「分かった」
「絶対ね」
「分かってる」
紬が少女を見る。
「じゃあまた明日」
少女は小さく頷いた。
紬が改札へ向かう。
私は反対方向。
数歩歩いて、違和感に気づく。
足音。
後ろ。
一人分。
振り返る。
少女がいた。
「……何で?」
少女は立っている。
「紬と帰らないの?」
返事はない。
「家、こっちなの?」
答えない。
「ついてこないで」
少女を見る。
「お願い」
少女は何も言わなかった。
私が歩き出す。
足音がついてくる。
「来ないで」
止まる。
少女も止まる。
「何なの」
声が震えた。
「何がしたいの?」
少女は初めて、少しだけ口を開いた。
「一緒に帰ろ」
それだけ。
「嫌」
私は即答した。
少女の表情は変わらなかった。
「私、あなたのこと知らないから」
昨日から何度も自分に言い聞かせた言葉。
少女は私を見ている。
「帰って」
返事はない。
私は背を向けた。
もう振り返らなかった。
家までの間、ずっと足音が一つついてきた。
◇ ◇
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりー」
お母さんの声。
私は急いで中に入った。
扉を閉める。
鍵をかける。
息を吐く。
その瞬間、インターホンが鳴った。
身体が固まった。
画面を見る。
少女が立っている。
玄関前。
真正面を向いて。
顔が映っている。
でも、やっぱり分からない。
「誰?」
リビングからお母さん来た。
「待って」
私はモニターを隠すように立った。
「何?」
「私が出る」
「友達?」
「違う」
お母さんが私の肩越しに画面を見る。
「あら」
その声が嫌だった。
「何?」
お母さんは少女を見ていた。
「入れてあげないの?」
耳がおかしくなったのかと思った。
「……何で?」
「何でって」
お母さんが笑う。
「いつも来てる子でしょ?」
言葉が出なかった。
「お母さん」
「何?」
「この子、知ってるの?」
「知ってるも何も」
お母さんが不思議そうに私を見る。
「灯たち、いつも一緒じゃない」
家の中が急に知らない場所になったような気がした。
「名前は?」
「え?」
「この子の名前」
モニターを見る。
「名前って……」
止まる。
まただ。
「何だっけ」
私は玄関の鍵を見る。
「開けないで」
「何で?」
「絶対開けないで」
お母さんはますます不思議そうな顔をする。
「喧嘩でもした?」
「してない」
「じゃあ」
「知らないの」
思わず声が大きくなった。
「私、この子知らないから」
インターホンがもう一度鳴った。
私はモニターを見なかった。
しばらくして、音が止まる。
外からは何も聞こえない。
お母さんが困ったように言う。
「でも、よく遊びに来てる子じゃない」
「違う」
「灯」
「違うから」
それ以上話したくなかった。
私は階段を上った。
部屋に入る。
扉を閉める。
鍵はない。
鞄を床に置く。
ノートを開く。
『私はあの子を知らない』
その文字を見た。
何度も。
何度も。
自分に言い聞かせるように。
◇ ◇
午後六時半。
紬からメッセージが来た。
『家着いた?』
私は少し迷ってから返した。
『着いた』
すぐ既読。
『よかった』
その下。
『あの子は?』
指が止まる。
返信しない。
紬からもう一件。
『一緒じゃないの?』
スマホを伏せた。
数分後。
お母さんの声。
「灯ー」
返事をしない。
「ご飯できたよー」
「今行く」
すぐには立ち上がる気になれなくて、何度か深呼吸をしてから立ち上がる。
扉を開ける。
階段を下りる。
リビングへ入る。
お母さんは皿を並べていた。
「遅い」
「ごめん」
椅子へ向かう。
そこで足が止まった。
テーブル。
私の席。
母の席。
そして、もう一つ。
皿が置かれている。
箸。
コップ。
三人分。
「……何これ」
「何って?」
お母さんが振り返る。
「誰の?」
「誰のって」
私の後ろを見る。
そして、優しく笑った。
「ほら、早く座って」
私は振り返れなかった。
背後で、足音がした。
ゆっくり。
一歩。
二歩。
私の横を通る。
少女が椅子に座った。
何でもないことみたいに。
お母さんは私と少女を見て笑った。
「二人とも、冷めないうちに召し上がれ」
二人とも。
そう言った。
私は立ったまま動けなかった。
少女は私を見る。
お母さんはキッチンへ戻る。
いつもの夕食。
テレビもついている。
ニュースが流れている。
鍋から湯気が立っている。
全部普通なのに。
少女だけが、私の家にいる。
「灯、食べないの?」
私は少女を見た。
少女は何も言わない。
テーブルの上。
三人分。
頭の中に、また記憶が浮かぶ。
この子は何度も家に来た。
お母さんも知っている。
三人でここで夕飯を食べた。
去年の夏。
冬休み。
テスト前。
違う。
「……違う」
「何?」
お母さんの問いかけには答えないまま、私は椅子に座った。
少女の向かい。
食事中、少女は一度も喋らなかった。
お母さんはいつも通りだった。
「学校どうだった?」
私が答える。
紬からメッセージ。
少女は黙って食べる。
お母さんは少女にも、
「足りる?」
とか聞いていた。
少女は小さく頷いた。
名前は呼ばない。
一度も。
それが、何より嫌だった。
◇ ◇
夕食が終わる。
私は逃げるように部屋へ戻った。
扉を閉める。
ベッドに座る。
スマホを開く。
紬へ電話をかけようとして、やめた。
今の紬に話して、何になる。
お母さんまで変わった。
学校だけじゃない。
家まで。
どこまで広がるんだろう。
私だけなのかもしれない。
本当に。
本当はあの子がいて。
私だけが何かを忘れている。
そんな考えが浮かぶ。
私はノートを開いた。
『私と紬は二人だった』
『私はあの子を知らない』
文字を指でなぞる。
「知らない」
声に出した。
「私は知らない」
コンコン。
扉が叩かれた。
身体が固まる。
お母さんなら名前を呼ぶ。
「灯」
聞こえたのは少女の声だった。
返事をしない。
「灯」
もう一度。
ドアノブが動く。
鍵はない。
扉が開いた。
少女が立っていた。
私はベッドから立ち上がった。
「入ってこないで」
少女は止まらない。
一歩、部屋に入ってくる。
「出てって」
扉を閉める。
少女は私を見る。
「何なの」
返事はない。
「何がしたいの」
少女が私を見る。
そして初めて、鞄からスマホを出した。
私は息を止めた。
少女はスマホを手にしたまま、言った。
「写真」
喉が乾く。
「……何?」
「一緒に撮ろ」
私は少女を見る。
今まで。
私たちが撮った写真に、少女が写った。
撮るのをやめたら、向こうから私たちの写真が送られてきた。
過去の写真まで変わった。
みんなの記憶も変わった。
美香も。
先生も。
紬も。
そして、お母さんまで。
それでも一つだけ。
まだやっていないことがある。
私は一度も。
この子を友達として、自分から写真に収めていない。
少女がスマホを差し出した。
「撮って」
私は受け取らなかった。
「嫌」
少女は動かない。
「撮らない」
もう一度言った。
少女は私を見ている。
怒らない。
困らない。
ただ、スマホを差し出している。
「私はあなたを知らない」
声が震えた。
でも、言った。
「友達じゃない」
少女の手は下がらなかった。
「撮らないから」
階下でお母さんが食器を洗っている音がする。
私は少女を見る。
少女も私を見ている。
その顔は、やっぱり覚えられない。
何の特徴もないどころか、そこには何もないような感じだった。
やがて少女は、ほんの少しだけ首を傾げた。
そして。
「一緒に写真撮りたいな」
さっきと同じ声で、もう一度言った。




