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ねえ、知ってる?  作者: 鈴太
第二章「あの子はだあれ」
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10/12

第10話:三人

「帰ろ?」


少女は、もう一度言った。

普通の声だった。

怒っているわけでもない。

笑っているわけでもない。

ただ、放課後になったから一緒に帰ろうと誘っている。

それだけに聞こえた。

私は手の中のノートを見る。


『私と紬は二人だった』


『私はあの子を知らない』


昼休みに自分で書いた文字。

それを見なければ、今頃どうなっていたのか分からない。

目の前には紬がいる。

その隣には少女がいる。

二人とも、私が何を怖がっているのか分からないという顔をしていた。


「灯?」


紬が呼ぶ。

私はノートを閉じた。


「紬」


「何?」


「この子の名前、言える?」


紬の表情が曇る。


「またそれ?」


「お願い」


少女は何も言わない。

私を見ている。


「名前」


もう一度言った。

紬は少女を見る。


「えっと……」


そこまで口にして、止まった。


「ほら」


「ちょっと待ってよ」


「昨日からずっとそうでしょ」


「だからって」


「紬はこの子のこと知ってるんだよね?」


「知ってるよ」


「いつ知り合ったの?」


「いつって……」


紬の視線が揺れる。


「中学?」


「違うでしょ」


「高校入ってからだったかな」


「いつ?」


「そんな細かいこと覚えてないよ」


「何組?」


紬は黙った。

私は少女を見る。


「あなた、何組?」


少女も答えなかった。

教室では、帰り支度をしていた子たちがまだ残っている。

すぐ近くでこんな話をしているのに、誰も気にしていない。

美香は友達と話しながら鞄を肩に掛けている。

窓際では男子がふざけている。

いつもの放課後。

その中に少女だけが、何の違和感もなく混ざっている。


「ねえ」


私は美香を呼んだ。


「何?」


「この子って何組?」


少女を指す。

美香は一瞬だけ目を丸くした。


「何組って」


少女を見る。


「……うちじゃないの?」


「名簿にいない」


「え?」


「先生も昨日確認した」


美香が少女を見る。

それから私を見る。


「でも、いるじゃん」


「それ、答えになってないよ」


「だって」


美香が困ったように笑う。


「ずっといるじゃん」


またそれだった。

ずっと。

みんな、それしか言えない。


「名前は?」


美香の笑顔が止まった。


「……灯、昨日もそれ聞いてたよね」


「うん」


「何でそんな名前にこだわるの?」


紬と同じだった。

答えられないことを、不思議だとは思わない。

むしろ、それを聞く私の方がおかしいらしい。


「もういい」


私は鞄を持った。


「帰る」


「待って」


紬が追いかけてくる。

私は少女を見ないようにして教室を出た。

でも、廊下を歩き始めると足音が増えた。

私。

紬。

もう一人。

三人分。

振り返らなくても分かった。


     ◇     ◇


昇降口へ向かう間、少女はほとんど喋らなかった。

紬だけが、いつものように話している。

私は、何も話したくない気分だったけれど、紬に付き合う形で結局喋っている。


「今日英単語何点だった?」


「六」


「え、勝った」


「何点?」


「七」


「一点だけね」


「勝ちは勝ち」


紬が笑う。

その横を少女が歩いている。

私は少し後ろを歩いていた。

この光景を知っている気がした。

廊下を三人で歩いたことがある。

紬が喋って。

少女が聞いて。

私が少し後ろからついていく。

そんな記憶が頭の隅にある。

違う。

私は鞄の中のノートを握った。


「灯?」


紬が振り返る。


「何?」


「遅いよ」


「普通に歩いてる」


「じゃあ私たちが速いのか」


私たち。

その言葉に、少しだけ胸が詰まる。

昇降口へ着く。

靴を履き替える。

少女も同じようにローファーを履いた。

下駄箱。

どこから靴を出したのか見ていなかった。


「ねえ」


私は思わず聞いた。

少女がこちらを見る。


「靴、どこに入れてるの?」


紬が怪訝そうな顔をした。


「何その質問」


「いいから」


少女は答えなかった。

ただ、少しだけ首を傾げた。


「行こ」


また、それだけ。

私はその場に立ち止まった。


「……何で答えないの」


少女は私を見る。


「何組なの」


返事はない。


「名前は?」


何も言わない。


「家は?」


無言。


「私たちといつ知り合ったの?」


少女は黙っている。

紬が私の腕を掴んだ。


「灯」


「何」


「やめなよ」


「何で?」


「何でって」


紬は少女を見る。


「困ってるじゃん」


「困ってるように見える?」


少女の表情は変わっていなかった。

悲しそうでもない。

怒ってもいない。

ただ私を見ている。

むしろ、笑っているようにさえ見える。


「私、この子のこと何も知らない」


「またそれ?」


「紬だって何も知らないじゃん」


「知ってるよ」


「じゃあ名前」


「……それは」


「家」


「知らない」


「誕生日」


「知らない」


「好きなもの」


紬が止まる。

その瞬間。

頭の中に、答えが浮かんだ。

ミルクティー。

私は息を止めた。

なぜ。

なぜ私は知っている?

少女は甘いものが好きで。

でも生クリームは少し苦手。

冬は手が冷たい。

体育は嫌い。

朝が弱い。


知らない。


知らない。


知らない。


私は頭を振った。


「灯?」


紬の声。


「帰る」


私は靴箱の扉を閉めた。

少し強く閉めすぎて、大きな音がした。


「今日は一人で帰る」


「え?」


「紬も来ないで」


「何で」


「お願い」


紬の顔が悲しそうに見えた。

胸が痛んだ。

でも、今は一緒にいたくなかった。

紬と話していると、記憶が増える。

少女を見ていると、もっと増える。


「ごめん」


それだけ言って、私は外へ出た。

後ろから足音が聞こえた。

一つ。

二つ。

私は止まった。

振り返る。

紬。

その隣に少女。


「来ないでって言ったよね」


紬が困った顔をする。


「でも一人で帰らせられないよ」


「何で」


「昨日から変だし」


「変なのは私じゃない」


言ってから後悔した。

紬の表情が固まる。


「……分かった」


「紬」


「いい」


声が少し冷たかった。

怒ったのかもしれない。

紬からしたら、きっとおかしいのは私の方だ。


「でも駅までは行く」


「何で?」


「心配だから。友達だし」


私は何も言えなかった。

結局、三人で歩いた。


     ◇     ◇


駅までの道。

少女は私の右側にいた。

紬は左。

私は真ん中。

さっき頭に浮かんだ記憶と同じ並びだった。

嫌になって速度を落とす。

すると二人も遅くなる。

速く歩く。

二人もついてくる。

距離が変わらない。


「コンビニ寄る?」


紬が聞いた。


「寄らない」


「そっか」


「紬は?」


「私はいい」


少女は何も言わない。

駅前の信号で止まる。

横断歩道の向こう側に、制服姿の女子高生が何人かいる。

信号が青になる。

歩き出す。

その途中。

ガラス張りの店の前を通った。

私は何となく横を見る。

ガラスに私たちが映っていた。


私。


紬。


少女。


ちゃんと三人いる。

立ち止まる。


「灯?」


私はガラスを見る。

少女の姿も普通に映っている。

黒い髪。

制服。

鞄。

白いキーホルダー。

顔もある。

見える。

なのに、少女から目を逸らして紬を見る。

もう一度ガラスを見る。

顔が思い出せない。


「何見てるの?」


「……何でもない」


歩き出す。

そのとき、ガラスの中の少女が笑ったような気がした。

振り返る。

少女は無表情だった。

見間違いだ、たぶん。

私はもうガラスを見なかった。


     ◇     ◇


駅に着いた。


「じゃあ私こっちだから」


紬が言う。

いつもなら、ここで別れる。

私は少し安心した。


「うん」


「家着いたら連絡して」


「分かった」


「絶対ね」


「分かってる」


紬が少女を見る。


「じゃあまた明日」


少女は小さく頷いた。

紬が改札へ向かう。

私は反対方向。

数歩歩いて、違和感に気づく。

足音。

後ろ。

一人分。

振り返る。

少女がいた。


「……何で?」


少女は立っている。


「紬と帰らないの?」


返事はない。


「家、こっちなの?」


答えない。


「ついてこないで」


少女を見る。


「お願い」


少女は何も言わなかった。

私が歩き出す。

足音がついてくる。


「来ないで」


止まる。

少女も止まる。


「何なの」


声が震えた。


「何がしたいの?」


少女は初めて、少しだけ口を開いた。


「一緒に帰ろ」


それだけ。


「嫌」


私は即答した。

少女の表情は変わらなかった。


「私、あなたのこと知らないから」


昨日から何度も自分に言い聞かせた言葉。

少女は私を見ている。


「帰って」


返事はない。

私は背を向けた。

もう振り返らなかった。

家までの間、ずっと足音が一つついてきた。


     ◇     ◇


玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえりー」


お母さんの声。

私は急いで中に入った。

扉を閉める。

鍵をかける。

息を吐く。

その瞬間、インターホンが鳴った。

身体が固まった。

画面を見る。

少女が立っている。

玄関前。

真正面を向いて。

顔が映っている。

でも、やっぱり分からない。


「誰?」


リビングからお母さん来た。


「待って」


私はモニターを隠すように立った。


「何?」


「私が出る」


「友達?」


「違う」


お母さんが私の肩越しに画面を見る。


「あら」


その声が嫌だった。


「何?」


お母さんは少女を見ていた。


「入れてあげないの?」


耳がおかしくなったのかと思った。


「……何で?」


「何でって」


お母さんが笑う。


「いつも来てる子でしょ?」


言葉が出なかった。


「お母さん」


「何?」


「この子、知ってるの?」


「知ってるも何も」


お母さんが不思議そうに私を見る。


「灯たち、いつも一緒じゃない」


家の中が急に知らない場所になったような気がした。


「名前は?」


「え?」


「この子の名前」


モニターを見る。


「名前って……」


止まる。

まただ。


「何だっけ」


私は玄関の鍵を見る。


「開けないで」


「何で?」


「絶対開けないで」


お母さんはますます不思議そうな顔をする。


「喧嘩でもした?」


「してない」


「じゃあ」


「知らないの」


思わず声が大きくなった。


「私、この子知らないから」


インターホンがもう一度鳴った。

私はモニターを見なかった。

しばらくして、音が止まる。

外からは何も聞こえない。

お母さんが困ったように言う。


「でも、よく遊びに来てる子じゃない」


「違う」


「灯」


「違うから」


それ以上話したくなかった。

私は階段を上った。

部屋に入る。

扉を閉める。

鍵はない。

鞄を床に置く。

ノートを開く。


『私はあの子を知らない』


その文字を見た。


何度も。


何度も。


自分に言い聞かせるように。


     ◇     ◇


午後六時半。

紬からメッセージが来た。


『家着いた?』


私は少し迷ってから返した。


『着いた』


すぐ既読。


『よかった』


その下。


『あの子は?』


指が止まる。

返信しない。

紬からもう一件。


『一緒じゃないの?』


スマホを伏せた。

数分後。

お母さんの声。


「灯ー」


返事をしない。


「ご飯できたよー」


「今行く」


すぐには立ち上がる気になれなくて、何度か深呼吸をしてから立ち上がる。

扉を開ける。

階段を下りる。

リビングへ入る。

お母さんは皿を並べていた。


「遅い」


「ごめん」


椅子へ向かう。

そこで足が止まった。

テーブル。

私の席。

母の席。

そして、もう一つ。

皿が置かれている。

箸。

コップ。

三人分。


「……何これ」


「何って?」


お母さんが振り返る。


「誰の?」


「誰のって」


私の後ろを見る。

そして、優しく笑った。


「ほら、早く座って」


私は振り返れなかった。

背後で、足音がした。

ゆっくり。


一歩。


二歩。


私の横を通る。

少女が椅子に座った。

何でもないことみたいに。

お母さんは私と少女を見て笑った。


「二人とも、冷めないうちに召し上がれ」


二人とも。

そう言った。

私は立ったまま動けなかった。

少女は私を見る。

お母さんはキッチンへ戻る。

いつもの夕食。

テレビもついている。

ニュースが流れている。

鍋から湯気が立っている。

全部普通なのに。

少女だけが、私の家にいる。


「灯、食べないの?」


私は少女を見た。

少女は何も言わない。

テーブルの上。

三人分。

頭の中に、また記憶が浮かぶ。

この子は何度も家に来た。

お母さんも知っている。

三人でここで夕飯を食べた。

去年の夏。

冬休み。

テスト前。

違う。


「……違う」


「何?」


お母さんの問いかけには答えないまま、私は椅子に座った。

少女の向かい。

食事中、少女は一度も喋らなかった。

お母さんはいつも通りだった。


「学校どうだった?」


私が答える。

紬からメッセージ。

少女は黙って食べる。

お母さんは少女にも、


「足りる?」


とか聞いていた。

少女は小さく頷いた。

名前は呼ばない。

一度も。

それが、何より嫌だった。


     ◇     ◇


夕食が終わる。

私は逃げるように部屋へ戻った。

扉を閉める。

ベッドに座る。

スマホを開く。

紬へ電話をかけようとして、やめた。

今の紬に話して、何になる。

お母さんまで変わった。

学校だけじゃない。

家まで。

どこまで広がるんだろう。

私だけなのかもしれない。

本当に。

本当はあの子がいて。

私だけが何かを忘れている。

そんな考えが浮かぶ。

私はノートを開いた。


『私と紬は二人だった』


『私はあの子を知らない』


文字を指でなぞる。


「知らない」


声に出した。


「私は知らない」


コンコン。


扉が叩かれた。

身体が固まる。

お母さんなら名前を呼ぶ。


「灯」


聞こえたのは少女の声だった。

返事をしない。


「灯」


もう一度。

ドアノブが動く。

鍵はない。

扉が開いた。

少女が立っていた。

私はベッドから立ち上がった。


「入ってこないで」


少女は止まらない。

一歩、部屋に入ってくる。


「出てって」


扉を閉める。

少女は私を見る。


「何なの」


返事はない。


「何がしたいの」


少女が私を見る。

そして初めて、鞄からスマホを出した。

私は息を止めた。

少女はスマホを手にしたまま、言った。


「写真」


喉が乾く。


「……何?」


「一緒に撮ろ」


私は少女を見る。

今まで。

私たちが撮った写真に、少女が写った。

撮るのをやめたら、向こうから私たちの写真が送られてきた。

過去の写真まで変わった。

みんなの記憶も変わった。

美香も。

先生も。

紬も。

そして、お母さんまで。


それでも一つだけ。

まだやっていないことがある。

私は一度も。

この子を友達として、自分から写真に収めていない。

少女がスマホを差し出した。


「撮って」


私は受け取らなかった。


「嫌」


少女は動かない。


「撮らない」


もう一度言った。

少女は私を見ている。

怒らない。

困らない。

ただ、スマホを差し出している。


「私はあなたを知らない」


声が震えた。

でも、言った。


「友達じゃない」


少女の手は下がらなかった。


「撮らないから」


階下でお母さんが食器を洗っている音がする。

私は少女を見る。

少女も私を見ている。

その顔は、やっぱり覚えられない。

何の特徴もないどころか、そこには何もないような感じだった。

やがて少女は、ほんの少しだけ首を傾げた。

そして。


「一緒に写真撮りたいな」


さっきと同じ声で、もう一度言った。

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