第6話:写り込んだ子
三十段目のことがあってから、二週間が経った。
結局、あれ以来おかしなことは何も起きていない。
家の階段は十三段のままだし、夜中に名前を呼ばれることもなくなった。
駅前の歩道橋は相変わらず使っていないけれど、それだって怖いからというより、横断歩道を渡れば済むことに気づいたからだ。
……たぶん。
少なくとも紬にはそう言っている。
「灯、早く」
「待って。まだ入ってる」
「それ昨日も言ってた」
昼休み。
購買で買った焼きそばパンを口に詰め込みながら答えると、紬が呆れたようにスマホを下ろした。
「写真くらいいいじゃん。食べてるところでも」
「嫌だよ。絶対変な顔になるじゃん」
「普段と変わんないって」
「喧嘩売ってる?」
紬が笑う。
窓の外では、グラウンドで男子がサッカーをしていた。
教室の後ろでは何人かが机を囲んでトランプをしているし、廊下からは隣のクラスの笑い声が聞こえてくる。
普通の昼休みだった。
この二週間、ずっとこんな感じだ。
授業を受けて、紬とくだらない話をして、放課後になったらどこかに寄ったり、そのまま帰ったりする。
最初の数日は、後ろから名前を呼ばれるたびに身体が固まった。
先生に呼ばれて驚いた。
お母さんに呼ばれて驚いた。
紬に呼ばれて怒った。
一週間もすると、それもなくなった。
人間、意外と慣れるらしい。
「はい、飲み込んだ?」
「まだ」
「遅い」
「焼きそばパンって急いで食べるものじゃないから」
「じゃあ何分かけるものなの」
「知らない」
ようやく飲み込む。
紬がスマホを構えた。
「はい」
「何」
「もっと寄って」
椅子を少し動かして、紬の方へ寄る。
紬が前髪を指で整えた。
「灯も髪」
「別にいい」
「あとで文句言わないでよ」
「言わない」
「絶対言う」
画面の中に私たちの顔が並ぶ。
紬が少しだけ顎を引いた。
私は適当にピースする。
「撮るよ」
小さく電子音が鳴った。
紬はすぐに写真を確認した。
「んー」
「何?」
「私、今日微妙」
「そうなんだ」
「ねえ、もう一枚」
「やだ」
「なんで?」
「パン食べたいから」
紬がスマホを机に置く。
私は残っていた焼きそばパンを食べた。
その時は、それで終わった。
その写真を次に見たのは、放課後だった。
◇ ◇
「見て」
帰りの電車で、紬がスマホを差し出してきた。
「何?」
「昼の写真」
「いらない」
「いいから見てよ」
仕方なく画面を見る。
昼休みに撮った写真だった。
紬が左。
私が右。
二人ともピースしている。
私は思ったより普通に写っていた。
「別にいいじゃん」
「でしょ?」
「自分で微妙って言ってたじゃん」
「見てたらよくなってきた」
「そういうもの?」
「そういうもの」
紬が画面を拡大する。
「灯も結構いいじゃん」
「結構ってどういう意味」
言いながら写真を見る。
背景には教室の後ろ側が写っていた。
机。
ロッカー。
掲示物。
窓際で話しているクラスメイトが二人。
その少し奥に、もう一人いた。
女子。
こちらに背中を向けている。
肩より少し長い黒髪。
私たちと同じ制服を着ていた。
「あれ」
私が言った。
「何?」
「この子、誰だっけ」
指で示す。
紬が画面を見る。
「どれ?」
「これ」
写真を拡大する。
女子生徒の後ろ姿。
顔はほとんど見えない。
横を向いているようにも見えるけれど、髪に隠れていて分からなかった。
「知らない」
紬が言った。
「うちのクラス?」
「違うんじゃない?」
「でも教室いるよ」
「誰か遊びに来てたとか」
「あー」
それなら別におかしくない。
休み時間には他のクラスの子も普通に入ってくる。
紬はもう興味を失ったらしく、写真を縮小した。
「ていうか、後ろの美香すごい顔してない?」
「ほんとだ」
「これ送ろ」
「怒られるよ」
「本人に送るんだよ」
「もっと怒られるでしょ」
話題はすぐに変わった。
写真の女の子のことも、その場で忘れた。
◇ ◇
翌日の放課後。
駅前に新しくできたクレープ屋へ寄った。
紬がずっと行きたいと言っていた店だ。
「高くない?」
メニューを見ながら言う。
「こういうのは値段見ちゃ駄目」
「六百八十円だよ」
「だから見ちゃ駄目なんだって」
「コンビニでアイス二個買える」
「灯、最近アイスを通貨だと思ってない?」
結局、私はチョコバナナにした。
紬は苺と生クリームが山ほど乗ったものを頼んだ。
店の前に小さなベンチがある。
そこに二人で座って食べる。
「一口ちょうだい」
紬が言った。
「やだ」
「私のあげるから」
「いらない」
「何で」
「そっち生クリーム多すぎ」
「そこがいいんじゃん」
「胸焼けする」
紬は自分のクレープを食べながらスマホを出した。
嫌な予感がした。
「撮らないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「クレープだけ」
「ならいいけど」
紬はクレープを持った手を前に出す。
私は自分のクレープを横に並べた。
二つのクレープ。
背景に駅前の通り。
紬が写真を撮った。
「映えないね」
「持ってる人の問題じゃない?」
「灯の手が邪魔」
「紬が並べろって言ったんでしょ」
もう一枚。
今度は紬が角度を変える。
「これいい」
私はクレープを食べながら画面を覗いた。
確かにさっきよりはそれっぽい。
「送って」
「はいはい」
紬が何か操作する。
その途中で、指が止まった。
「……あれ」
「何?」
紬は画面を見たまま答えない。
「紬?」
「これ」
スマホを向けられる。
さっき撮った写真。
二つのクレープ。
駅前の通り。
通行人。
その奥に、一人の女子生徒が立っていた。
黒い髪。
うちの学校の制服。
顔は、やっぱりよく見えない。
私は少しだけ考えた。
「昨日の子?」
「だよね」
紬が昨日の写真を開く。
二枚を見比べる。
同じ制服なんだから、似て見えるだけかもしれない。
髪型だって珍しくない。
でも。
「鞄」
私が言った。
「うん」
二枚とも、右肩に黒いスクールバッグを掛けていた。
持ち手に何か白いものがついている。
小さなぬいぐるみか、キーホルダー。
拡大しても潰れてしまって分からない。
「同じ子っぽいね」
紬が言った。
「まあ、同じ学校なんだから」
「昨日は教室で、今日は駅前」
「帰り道同じなんじゃない?」
「そっか」
紬はそう言った。
私も、それ以上考えなかった。
同じ学校の生徒が二日続けて写真に写った。
それだけだ。
今考えれば、この時点で気にしてもよかったのかもしれない。
でも普通は、そんなこと気にしないと思う。
写真の背景に知らない人が写ることなんて、いくらでもある。
まして同じ制服なら。
私たちはそのままクレープを食べて、駅で別れた。
◇ ◇
土曜日。
紬と買い物に行った。
宵ヶ丘駅から電車で四駅。
大型のショッピングモール。
服を見て、雑貨を見て、途中で紬が欲しがっていたリップを探した。
「これどう?」
「赤すぎない?」
「じゃあ灯はどれがいいと思うの?」
「これ」
「地味」
「じゃあ聞くな」
結局、紬は私が選んだ方を買った。
夕方までぶらぶらして、一階のカフェに入った。
飲み物を買って、窓際の席に座る。
紬は買ったものを机に並べ始めた。
「何してんの」
「今日の成果」
紙袋。
リップ。
小さなポーチ。
なぜか途中で買った猫のキーホルダー。
「買いすぎじゃない?」
「灯が買わなさすぎ」
「必要なものなかったし」
「女子高生としてどうなの」
紬が笑いながらスマホを構えた。
机の上を撮る。
一枚。
「灯も入って」
「何で」
「記念」
「何の?」
「今日の」
「毎週会ってるじゃん」
「いいから」
仕方なく紬の隣に移動した。
スマホをこちらに向ける。
「はいはい」
電子音。
そのまま二人で画面を見る。
紬はまず自分の顔を確認した。
「今日いいかも」
「よかったね」
「灯もまあまあ」
「何で毎回上からなの」
紬が笑う。
私はストローに口をつけた。
そのとき。
紬の笑い声が止まった。
「……灯」
声が少し低かった。
私はストローから口を離す。
「何?」
紬がスマホを見ている。
さっきまでの顔ではなかった。
「これ」
見せられた写真を覗く。
私と紬。
その後ろにカフェの店内。
客が何人かいる。
店員。
壁。
観葉植物。
そして。
一人の女の子。
私たちの後ろ。
少し離れた席の横に立っている。
うちの学校の制服。
肩より少し長い黒髪。
右肩のスクールバッグ。
白いキーホルダー。
昨日の子だった。
私は何も言わなかった。
紬も黙っている。
写真を拡大する。
顔は見えない。
昨日より近いのに。
ちょうど髪がかかっている。
「……同じ子だよね」
紬が言った。
「たぶん」
「今日、土曜だよ」
「うん」
「ここ、宵ヶ丘じゃないよ」
「うん」
「制服でショッピングモール来る?」
「来る人はいるんじゃない」
「四駅離れてるけど」
答えられなかった。
私は顔を上げた。
写真で女の子が立っていた場所を見る。
そこには誰もいない。
空いた椅子が一脚あるだけだった。
「撮ったの今だよね。いつの間に出たんだろ」
紬も振り返る。
「分かんない」
「私、気づかなかった」
「私も」
「ずっといた?」
「知らないよ」
紬がもう一度写真を見る。
昨日の写真。
一昨日の写真。
今日の写真。
三枚を順番に表示する。
教室。
駅前。
ショッピングモール。
同じ女の子。
一枚目では、教室の一番後ろ。
二枚目では、通りの向こう側。
三枚目では、私たちから数メートルしか離れていない。
紬がスマホを伏せた。
「……写真撮るの、やめない?」
私は頷いた。
「うん」
それから私たちは、予定より少し早く帰った。
◇ ◇
家に着いたのは午後七時前だった。
お母さんはまだ帰っていなかった。
リビングの電気をつけ、冷蔵庫から麦茶を出す。
テレビをつける。
適当な番組が流れ始めた。
ソファに座ってスマホを見ると、紬からメッセージが来ていた。
『着いた』
『私も』
返す。
少しして、
『写真見返してる』
と来た。
『やめなよ』
『気になるじゃん』
『怖くなるだけでしょ』
既読。
しばらく返事がない。
『やっぱ同じ子だと思う』
私はスマホを見た。
『もう消せば?』
『消す?』
少し迷う。
『紬のスマホだし好きにしたら』
『冷た』
『怖いんだもん』
送ってから、自分でも認めたことに少し驚いた。
三十段目の件以来、怖いものを怖いと言うことへの抵抗がなくなった気がする。
紬から、
『私も』
と返ってきた。
そのあと猫が震えているスタンプ。
私は少し笑った。
『今日はもう写真撮らない』
『賛成』
『しばらく自撮り禁止』
『何日もつかな』
『一ヶ月はいける』
『三日だね』
『失礼な灯』
いつものやり取り。
少し気が楽になった。
テレビを見る。
夕飯のことを考える。
お母さんに何か買ってきてもらおうかと思っていたときだった。
スマホが震えた。
紬だと思った。
画面を見る。
違った。
見たことのないアカウントからメッセージが届いていた。
アイコンは設定されていない。
名前も知らない。
一行だけ。
『今日は楽しかったね』
私はしばらく、その文字を見ていた。
誰。
そう打とうとして、やめた。
三十段目のことが頭をよぎった。
知らないものに返事をしない。
今回も同じだという根拠はない。
でも、わざわざ試す理由もない。
紬に画面を送ろうとした。
その前に、もう一度スマホが震えた。
画像が一枚送られてきた。
開くか迷って、結局、開いた。
今日のショッピングモールだった。
カフェの窓際。
私と紬が並んで座っている。
私たちはスマホの画面を見ながら笑っていた。
さっき二人で撮った写真ではない。
少し離れた場所から、私たちを撮った写真だった。
見覚えがある。
この位置。
今日の写真の中で、あの女の子が立っていた場所だった。
私は画面から顔を上げた。
誰もいないリビング。
テレビでは芸人が笑っている。
冷蔵庫の音。
外を走る車の音。
スマホが、もう一度震えた。
同じアカウント。
今度は、短い文章だった。
『また明日ね』




