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ねえ、知ってる?  作者: 鈴太
第一章「三十段目」
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5/8

第5話:名前を呼ぶモノ

「――雨崎さん」


私は振り返らなかった。

声は近かった。

耳元というほどではない。

でも、部屋の中から呼ばれたという距離でもなかった。

廊下の幅を考えれば、私の背中から二、三歩ほど離れたところに誰かが立っている。

そんな距離だった。


手すりを握ったまま、私は動けなかった。

下を見る。

階段は十四段ある。

何度数えても、さっきまでなかった一段が増えている。

歩道橋では二十九段のあとに三十段目が現れた。

家では十三段のあとに十四段目。

図書館の人が言っていた言葉を、ようやく理解した。


『その人の家に、次の一段ができる』


三十段目そのものがついてきたわけじゃない。

もっと単純だった。

そこにあるはずの段数より、一段多い。

それだけ。


「雨崎さん」


もう一度、女が呼んだ。

返事をしてはいけない。

振り返ってもいけない。

どちらが本当のルールなのか分からないのなら、両方守るしかない。

私はスマホを握った。

紬に電話をしようとして、やめた。

もし電話の向こうから名前を呼ばれたら。

それに返事をしたら。

三回目の返事で、その人の家まで来る。

じゃあ、四回目の返事のあとは?


さっきお母さんに返事をしただけで十四段目が現れた以上、もう「怪異にだけ返事をしなければいい」とは思えなかった。

そもそもあの声は。

いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

メッセージを開く。


『紬』


送信。

既読はすぐについた。


『どうかした?』


私は震える指で打った。


『増えた』


『何が』


『階段』


返事が止まった。

しばらくして、


『三十段目?』


と来た。


『違う』


私は階段を見た。


『うちの階段、一段増えた』


今度はすぐに電話がかかってきた。

着信音が廊下に響く。

私は慌てて音量を落とした。

出ない。

いや、出られない。


『電話無理』


と送る。


『なんで』


『後ろにいるから』


送った瞬間、自分で書いた文章が怖くなった。

後ろにいる。

何が?

見ていないから分からない。

知らない女なのか。

昨日、写真に写っていた白い手の持ち主なのか。

それとも、人ですらないのか。

紬から返事が来る。


『分かった。今から行く』


続けて、


『待ってて』


『絶対振り返らないで』


そこまでは昨日のネットに書いてあったルール。

さらにもう一つ届いた。


『返事もしないで』


今日知ったルール。

私は短く、


『うん』


と打とうとして、指を止めた。

文字なら返事に入らない。

たぶん。

それでも、送る気にはなれなかった。

代わりにスタンプを一つ送った。

送ってから、それも返事じゃないのかと思った。

もう何が正しいのか分からなかった。


「ねえ、灯?」


階下からお母さんの声がした。

身体が強張る。

本物だ。

声の位置で分かる。

一階。

キッチンの方。

答えそうになって、口を閉じた。


「灯?寝てるの?」


また呼ばれる。

私は黙ったまま、スマホに文字を打った。


『お母さんにも返事できない』


紬から、


『しなくていい』


と来た。

続けて、


『怒られても私のせいにして』


と表示された。

こんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。

その瞬間だった。

後ろから声がした。


「灯」


今度は、知らない女の声ではなかった。

紬だった。

私は息を止めた。

というよりもむしろ、息が勝手に止まったみたいだった。


「灯、着いたよ」


あり得ない。

メッセージを見れば分かる。

紬が「今行く」と送ってきてから、まだ一分も経っていない。

家まで来られるはずがない。

そもそも、いま後ろにいるのが紬なら、どこから入ったというのか。

それなのに声は、玄関の方ではなく私のすぐ後ろから聞こえている。


「ねえ、灯」


昨日と同じだった。

声そのものは紬なのに、何かが違う。

イントネーションも、息の混ざり方も、普段の紬に似ている。

でも、何かが少しずつおかしい。


「振り返って」


私は手すりを強く握った。


「大丈夫だから」


黙る。


「何もいないよ」


だったら、誰が喋っているの。

そう言い返したくなった。


「灯」


声が少し近づいた。


「こっち見て」


私は目を閉じた。

昨日は、返事をさせようとしていた。

今日は違う。

振り返らせようとしている。

どちらも正しいのかもしれない。

ネットの噂が間違っていたわけでも、昼間に会った女性が教えてくれた話が間違っていたわけでもなくて。

ただ、それぞれが一部分しか知らなかっただけなのかもしれない。

そう思うと、一気に怖くなった。


私たちは怪異のルールを調べているつもりだった。

でも実際には、何も知らない人たちが残した断片を拾っていただけだ。


「灯」


背後の紬が私を呼ぶ。


「ねえ」


そこに、一階からお母さんの声が重なった。

二つの声。

どちらも私の名前を呼んでいる。


「「あかりー?」」


私は震える手で口元を押さえた。


     ◇     ◇


紬が家に着くまでの十分ほどが、ひどく長く感じた。

その間、後ろの声は何度も変わった。

紬。

お母さん。

学校の担任。

中学のとき仲が良かった友達。

果てには、知らない男の声まで混じった。

どこで聞いたのか分からない声もあった。

ただ、言うことはほとんど同じだった。


灯。


雨崎さん。


こっちを見て。


返事して。


それだけだ。


やがて玄関のチャイムが鳴った。

身体が跳ねた。

一階からお母さんが玄関へ向かう音が聞こえる。


「はーい」


ドアが開いた。

少しして、


「灯ー!紬ちゃん来たわよ」


お母さんが呼んだ。

私は答えない。

今度こそ本物の紬が来た。

分かっている。

それでも、声を出せなかった。

階段の下から足音がした。


一段。

また一段。

上ってくる。

私は十四段ある階段を見下ろした。


紬には何段に見えているのだろう。

やがて紬の頭が見えた。

私と目が合う。

紬は最初、何か言おうとした。

でも、私が人差し指を唇の前に立てると、そのまま黙った。

一段ずつ上ってくる。

私には十四段目が見えている。

紬の足が、その階段をどう通るのか見ていた。


十二。


十三。


そして。


紬の右足が、私には十四段目に見える場所を通り抜けた。

踏まなかった。

正確には、そこに段などないように、そのまま二階の床へ足を置いた。

声が出そうになった。

紬は何も気づいていない。

私の前まで来ると、スマホを取り出した。

画面に文字を打って見せる。


『どれ?』


私は階段を指差した。


紬が見る。

首を傾げる。

またスマホ。


『普通だけど』


私は自分のスマホに打つ。


『十四段ある』


紬の顔が固まった。

ゆっくり階段を数える。

指で一段ずつ追っている。

やがて私を見る。


『十三だよ』


やっぱり。

私にしか見えていない。

私はカメラを起動して階段を映した。

画面の中を数える。

十三。

昨日の歩道橋と同じだった。

私は確かに三十段目を踏んだのに、写真には二十九段しか写っていなかった。


今も同じ。

目で見ると十四段。

スマホ越しでは十三段。

紬が私の袖を引いた。


『後ろにいるの?』


画面に書かれている。

私は頷いた。

紬が私の背後へ目を向けた。

その顔を見て、すぐに分かった。

何も見えていない。

紬は首を横に振った。

いない。

少なくとも、紬には。

そのときだった。


「紬」


後ろから声がした。

私は目を見開いた。

今度は私の声だった。


「ねえ、紬」


自分の声が、自分の後ろから聞こえる。

紬にも聞こえたらしい。

顔色が変わった。


「今の……」


紬が小さく言った。

私は慌てて口元に指を当てた。

でも遅かった。


「紬」


また私の声。

紬は固まったまま、目だけを忙しなく動かしている。

恐らく、おかしなものは何も見えていない。

きっと聞こえているだけだ。


「ねえ、」


紬が私の腕を掴んだ。

強かった。

自分も怖いはずなのに、離さない。

そのとき、ふと思った。

この怪異は私だけを見ているわけじゃない。

私の名前を呼び、私に返事をさせたものが、今は紬の名前を呼んでいる。

私たちの声まで知っている。

昨日より、明らかにできることが増えている。


     ◇     ◇


私たちは私の部屋へ入った。

ドアは閉めなかった。

閉めると、廊下に何がいるのか分からなくなる気がして、かえって怖かった。

母には「ちょっと喉が痛いらしくて」と紬が適当に説明してくれた。

私があまり喋らない理由としては無理があると思ったけれど、母は「風邪じゃないでしょうね」と言っただけで、それ以上は気にしなかった。


私たちはベッドに並んで座って、メッセージで話した。

同じ部屋にいるのに。


『いつまでこうしてればいいんだろ』


私が送る。

紬が自分のスマホを見て打つ。


『わかんない』


『朝まで?』


『それもわかんない』


そのあと、紬は少し考えてから続けた。


『でもさ、あれ、灯に何させたいんだろ』


私は紬を見る。


『返事してほしいのか、振り返ってほしいのか』


答えられなかった。

紬はさらに続ける。


『殺すだけならもうできそうじゃない?』


ぞっとすることを平然と書く。

私は睨んだ。

紬は両手を合わせて謝る仕草をしてから、またスマホに指を走らせた。


『でも本当にそうじゃん』


確かに。

昨日からずっと、あれは私のすぐ近くにいる。

写真では手が肩のすぐ後ろまで伸びていた。

もし触るだけで私をどうにかできるなら、とっくにされている。

なのに、しない。

名前を呼ぶ。

声を真似る。

返事を待つ。

振り返らせようとする。

そこには何か理由がある。


私は昨日見たネットの記事を思い出した。

振り返ると、その人はいなかったことになる。


今日会った女性が知っていた話。

三回返事をすると、その人のところまで来る。


似ているようで、違う。

でも共通しているものが一つある。

怪異の側から何かをするだけでは成立しない。

私が振り返る。

私が返事をする。

必ず、こちら側の行動が必要になる。

私はスマホに打った。


『こっちが何かしないとダメなんじゃないかな』


紬が読む。


『どういうこと?』


『何でも好きにできるわけじゃない、みたいな。たぶん、向こうだけじゃ完成しないんだよ』


紬はしばらく画面を見ていた。

それから顔を上げる。


『じゃあ何もしなきゃいい?』


私は頷いた。

簡単な話だった。

返事をしない。

振り返らない。

名前を呼ばれても。

誰の声を使われても。

ただ無視する。

それで本当に終わる保証はない。

でも、少なくとも今まで知ったことの中では、それしかなかった。

その直後。

一階から悲鳴が聞こえた。

私は反射的に立ち上がった。


「お母さ――」


紬の手が口を塞いだ。

ぎりぎりだった。

最後までは声にならなかった。

私は紬を見る。

紬も青い顔をしていた。

階下は静かだった。

少しして、お母さんの声が聞こえる。


「あー、びっくりした」


何かを落としたらしい。


「灯ー!ごめん、ちょっと来てくれる?」


身体が動きそうになる。

本物かもしれない。

たぶん本物だ。

でも。


「灯?」


お母さんが私を呼ぶ。

今度は、階下からではない。

私たちの、すぐ後ろ。

私が紬の手を握った。

きっと紬にも聞こえている。


「ねえ、灯」


声が変わった。

初めに聞いた、女の声だった。


「お母さん、困ってるよ」


私は前を見る。

紬も私だけを見ている。

紬の手は小さく震えていた。


「灯」


近い。


「返事して」


もう一度。


「灯」


さらに近く。

耳のすぐ後ろまで来た。

吐息のようなものが髪に触れた気がした。


「灯」


声が低くなった。

初めて、苛立っているように聞こえた。


「灯」


私は紬の手を強く握った。

紬も握り返す。


どれくらいそうしていたのか分からない。

一分だったかもしれない。

十分だったかもしれない。

やがて、声が止まった。

突然ではなかった。

少しずつ遠ざかっていく。


廊下。


階段。


一階。


玄関。


そんな順番で離れていったように感じた。

最後に、玄関の方から一度だけ聞こえた。


「――雨崎さん」


最後まで、私は返事をしなかった。


     ◇     ◇


目が覚めたとき、カーテンの隙間から朝の光が入っていた。

いつ眠ったのか覚えていない。

ベッドの横を見ると、紬が床に敷いた布団の上で丸くなっていた。

昨日貸したスウェットを着たまま、掛け布団を半分蹴飛ばしている。

時計を見る。

午前八時二十一分。


「……朝」


声に出してみる。

何も起きなかった。

普通に声が出た。

誰も私の名前を呼ばない。

部屋の外から聞こえてきたのは、テレビの音と、食器が触れ合う音だった。

しばらくそれを聞いていた。

起き上がって廊下へ出る。

階段を見る。

数えないつもりだった。

結局、数えた。


一。


二。


三。


最後まで。


十三段。


もう一度数えた。


十三。


増えていない。


「……何してんの」


後ろから声がして、思わず肩が跳ねた。

振り返る。

寝癖のついた紬が立っていた。


「やめてよ」


「何が」


「後ろから声かけるの」


「あ」


紬も気づいたらしい。


「ごめん」


「ほんとにやめて」


「はい」


紬は素直に頷いた。

それから私の横に立って、階段を見る。


「十三?」


「十三」


「戻ったね」


「うん」


しばらく二人で階段を見ていた。

一階からお母さんの声が飛んできた。


「灯起きたー?紬ちゃんも起きたなら、一緒に朝ご飯食べるー?」


私は一瞬だけ黙った。

紬がこちらを見る。

今度は分かる。

お母さんの声だ。

いつもの声。


「食べるー!」


返事をした。

何も起きなかった。

紬がほっと息を吐いた。

二人で階段を下りた。

階段は、十三段だった。


     ◇     ◇


月曜日。

教室へ入った瞬間、いや、目が覚めた時からずっと眠かった。

一晩寝たくらいでは、土日の疲れは取れなかったらしい。


「灯、顔死んでる」


席に着くなり紬に言われた。


「誰のせいだと思ってんの」


「怪異?」


「半分正解」


「残り半分は?」


「紬」


「命懸けで助けに行った親友に言う?」


「そもそも金曜に歩道橋へ連れていったの誰だっけ」


紬が笑う。

いつもと同じだった。


一時間目の数学は眠かった。


二時間目の体育では紬がバドミントンのシャトルを私の顔に当てた。


昼休みには購買のパンを買いに行って、最後の焼きそばパンを一年生に目の前で取られた。


放課後になれば、金曜日に提出された現代文の課題を紬が忘れていたことが発覚して、先生に呼び止められていた。


私は廊下で待っていた。


「ほんと最悪」


教室から出てきた紬が言う。


「自業自得」


「昨日の夜まで覚えてたんだよ」


「怪異のせいにするな」


「襲われてるときに宿題のこと考えられる?」


「土曜日から襲われてたわけじゃないでしょ」


「細かいなあ」


階段を下りる。

学校の階段。

何段あるのかは知らない。

知りたくもなかった。

途中で一瞬だけ数えそうになって、やめた。


外へ出る。

夕方の空は少し曇っていた。

駅へ向かう生徒たちの流れに混じって、紬と並んで歩く。

駅前が近づいてくる。

歩道橋が見えた。

私は足を止めなかった。

紬も何も言わなかった。

私たちはその下にある横断歩道へ向かった。

信号は赤だった。

何人かの人が待っている。

自転車に乗った高校生。

買い物袋を持った女の人。

スーツ姿の男の人。

その向こうでは、歩道橋を人が渡っている。

何人も。

普通に。


信号が青になった。

電子音が鳴る。


「ねえ」


紬が言った。

私は横を見る。


「何?」


「アイス、今日でいい?」


「忘れてなかったんだ」


「忘れたら怒るでしょ」


「当たり前」


「二個だっけ?」


「二個」


「一個にしない?」


「じゃあ三個」


「交渉になってないんだけど」


横断歩道を渡った。

歩道橋は振り返らなかった。

もう行くこともないと思った。

少なくとも、午前零時には、もう二度と。


     ◇     ◇


それから三十段目は現れなかった。

知らないアカウントからメッセージが届くこともなくなった。

お母さんも普通に私の名前を呼んだ。

紬も呼んだ。

学校でも何度も呼ばれた。

そのたび、最初の数日は少しだけ身構えた。

でも、一週間もするとそんなことも少なくなった

人間は思っていたより簡単に慣れる。

怖いことにも。

何も起こらないことにも。

ただ、歩道橋だけは使わなくなった。

下に横断歩道がある。

少し待てばいいだけだ。

わざわざ上る理由なんてない。


ある日の放課後。

紬と駅へ向かっていると、前を歩いていた女子高生二人の話が聞こえた。

別の学校の制服だった。


「ねえ、知ってる?」


何となく耳に入った。


「ここの歩道橋、夜中に三十段目が出るんだって」


私は足を止めなかった。

隣を見ると、紬も聞こえていたらしい。

目が合った。

でも、何も言わなかった。


「名前呼ばれても絶対振り返っちゃいけないんだって」


「何それ、怖」


「今日行ってみる?」


「無理無理」


二人は笑っていた。

私たちも、少し前まではあんなふうに笑っていた。

私は一度だけ歩道橋を見上げた。

夕方の階段を、会社員らしい男の人が下りてくる。

その後ろから、小学生が二人走ってきた。

危ないよ、と母親らしい人が下から声をかけている。

何もおかしくない。

階段は二十九段ある。

たぶん。

もう数えるつもりはなかった。


「灯」


紬が呼んだ。

私は歩道橋から目を離した。


「何?」


「信号変わるよ」


見ると、青になっていた。


「うん」


私たちは横断歩道を渡った。

あの歩道橋に何がいたのか。

どうして昔の話とルールが違ったのか。

どうして私の名前を知っていたのか。

結局、何も分からなかった。

分からないままでいいと思った。

知らない方がいいことは、たぶん本当にある。

だから私は、それ以上調べなかった。


     ◇     ◇


その日の夜。

駅前の歩道橋を、一人の女の子が上っていた。

時刻は、午後十一時五十九分。

スマホを片手に持って、笑いながら階段を数えている。


「二十七」


一段上る。


「二十八」


もう一段。


「二十九」


女の子は顔を上げた。

目の前には、いつもの歩道橋がある。

それだけだった。


「なーんだ」


女の子は笑った。

そのまま右足を上げる。

午前零時になった。

女の子の靴底が、そこにはないはずの何かに触れた。


「え?」

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