第4話:三回目
お母さんからの着信。
画面に表示された名前を見たまま、私は動けなかった。
「灯?」
紬が私を見る。
スマホは震え続けている。
いつもなら何も考えずに出る。
お母さんから電話がかかってきただけだ。
それなのに、今は通話ボタンを押すことすら怖かった。
さっき聞いたばかりの言葉が、頭に残っている。
名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。
三回返事をすると、その人のところまで来る。
昨日、私は二回返事をした。
一度目は紬の声に。
二度目はお母さんの声に。
どちらも、本物ではなかった。
「出ないの?」
紬に聞かれた。
「……どうしよう」
「お母さんでしょ?」
「表示はね」
紬が黙った。
それだけで、私が何を考えているのか伝わったらしい。
着信が切れた。
画面が消えて真っ暗になる。
ほっとしたのも束の間、すぐにまた震えた。
二回目。
「何かあったんじゃない?」
紬が心配そうに言う。
それは私も思った。
今日は出かけると言って家を出ている。
帰りが遅いわけでもない。
普段、この時間に何度も電話がかかってくることはほとんどなかった。
私は迷った末、通話ボタンを押した。
スマホを耳に近づける。
自分からは何も言わなかった。
数秒。
『もしもし?』
お母さんの声だった。
私は黙る。
『灯?』
身体が固まった。
紬が私の顔を見る。
『灯、聞こえてる?』
返事をしてはいけない。
そう思った。
でも。
本物かもしれない。
むしろ、本物である可能性の方がずっと高い。
「……お母さん?」
言ってしまった。
口にしてから、心臓が大きく鳴った。
電話の向こうで少し間があった。
『何その出方』
いつもの母だった。
『今どこ?』
「駅前」
『紬ちゃんと一緒?』
「うん」
『今日、晩ご飯どうするの?食べてくるなら先に言ってよ』
力が抜けた。
「帰るよ」
『何時くらい?』
「分かんない。そんな遅くならないと思う」
『分かった。じゃあ買い物行ってくるから、何か欲しいものある?』
「別にない」
『はいはい。それじゃ、気をつけて帰ってきなさい』
電話が切れた。
私はしばらくスマホを耳に当てたままだった。
「……大丈夫?」
紬が聞く。
「うん」
「お母さんだった?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「もう分かんない」
私はスマホをテーブルに置いた。
何も起こらない。
店内では食器の音がしている。
近くの席では、小さな子どもがジュースをこぼして母親に怒られていた。
窓の外をバスが通り過ぎていく。
全部いつも通りだった。
紬が恐る恐る口を開いた。
「ねえ、お母さんに返事するのって」
「紬、言わないで」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしたでしょ」
「まあ」
紬は口を閉じた。
私も考えないことにした。
今のが何回目なのか。
本物の人間に返事をしたものまで数えられるのか。
いや、そもそも本当にお母さんだっただろうか。
いけない。
思考が悪い方向に引きずられている。
今すぐ分からないことを、ここで考えても仕方がない。
そう思うことにした。
◇ ◇
私たちはもう一度、三十段目について調べた。
今度は噂そのものではなく、古いものから順番に。
「宵ヶ丘 歩道橋 三十段目」
「宵ヶ丘駅 怪談」
「宵ヶ丘 名前を呼ばれる」
思いつく言葉を片っ端から入れていく。
検索結果に出てくるのは、昨日見たものと似たような話ばかりだった。
午前零時。
一人で階段を上る。
三十段目。
後ろから名前を呼ばれる。
振り返ってはいけない。
細かい違いはあった。
三十段目を踏んだ時点で呪われるという話。
振り返ると死ぬという話。
一週間以内に消えるという話。
そして、振り返った人は最初から存在しなかったことになる。
という、私たちが最初に見たもの。
でも、「返事をしてはいけない」という話は見つからなかった。
「やっぱないね」
紬がスマホをスクロールする。
「うん」
「じゃあ、やっぱりあのおばさんの記憶違い?」
「それならいいんだけど」
「よくはないでしょ。三十段目が本物なのは変わんないし」
「そうだけど」
私は検索結果を眺めた。
同じような文章が並んでいる。
書き方まで似ているものもあった。
どこかのサイトをコピーしたのかもしれない。
そのコピーを、また別の誰かが書き直した。
そうやって広がったのなら、検索結果が百件あったとしても、百人が同じ体験をしたことにはならない。
「一番古いのってどれ?」
紬が聞いた。
「今見つけた中だと五年前」
「意外と最近」
「うん」
私は画面を閉じた。
昼間に会った女性は、学生の頃からこの辺に名前を呼ぶ話があったと言っていた。
少なくとも五年前どころではない。
なのに、ネットには残っていない。
「昔の話って、ネットにないのかな」
紬が呟く。
その言葉で思いついた。
「だったら、ネット以外を探せばいいんじゃない?」
「ネット以外?」
「昔の新聞とか」
紬が露骨に嫌そうな顔をした。
「図書館?」
「何その顔」
「だって図書館って調べるの面倒じゃん」
「怪異に追いかけられるよりマシでしょ」
「それは……そうかもだけど」
◇ ◇
宵ヶ丘市立図書館に着いたのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。
休日の図書館は思っていたより人が多かった。
試験勉強をしている学生。
新聞を読んでいるおじいさん。
絵本を抱えた親子。
昨日から変なことばかり起きているせいか、そういう普通の光景を見ると安心した。
郷土資料の棚は二階の奥にあった。
宵ヶ丘市史。
昔の住宅地図。
市政だより。
地域新聞の縮刷版。
紬が一冊取り出して、すぐに戻した。
「やっぱ無理」
「まだ開いてもないじゃん」
「この量から探すの?」
「他に方法ある?」
「ネット」
「それで見つからなかったから来たんでしょ」
「現代文明って意外と無力だね」
文句を言いながらも、紬は隣の棚を見始めた。
私は資料検索用の端末の前に座った。
『宵ヶ丘駅 歩道橋』
検索する。
郷土資料だけに絞っても、いくつか引っかかった。
駅前整備についての市議会資料。
道路工事のお知らせ。
古い市政だより。
地域新聞の記事。
都市伝説そのものは出てこない。
当たり前といえば当たり前だった。
『三十段目』
検索結果、ゼロ。
『名前を呼ばれる』
これも、それらしいものはなかった。
「そりゃそうか」
私が呟くと、隣から紬が覗き込んだ。
「何かあった?」
「怪談はない」
「帰る?」
「来たばっかじゃん」
私は検索条件を戻した。
怪談の記録がないなら、歩道橋そのものを調べるしかない。
建て替え。
補修。
事故。
そういう普通の記録なら残っているかもしれない。
検索結果に出てきた市政だよりの号数をメモして、棚から縮刷版を持ってくる。
何冊か確認したところで、一つの記事が見つかった。
『駅前交差点歩道橋補修工事のお知らせ』
平成二十八年八月号。
十年前の市政だよりだった。
工事期間は八月二十四日から九月六日。
老朽化した階段と手すりの交換、それから勾配の一部調整を行う、とある。
横には小さな写真が載っていた。
今と同じ場所。
今とよく似た歩道橋。
「紬」
少し離れた棚を見ていた紬を呼ぶ。
「何?」
「これ」
紬が私の隣に来る。
「工事?」
「十年前」
私は写真に顔を近づけた。
古い歩道橋の階段が、斜めから写っている。
何となく数え始めた。
一。
二。
三。
写真が小さくて途中から分かりづらい。
指で一段ずつ追う。
もう一度。
「……二十八?」
「貸して」
紬も写真を覗き込む。
しばらくして、
「二十八だね」
と言った。
今の歩道橋は二十九段。
補修工事で勾配を変えた結果、一段増えたのかもしれない。
それ自体は、別に不思議なことではない。
でも。
「変じゃない?」
私が言うと、紬がこちらを見る。
「何が?」
「三十段目」
「うん」
「十年前は二十八段だったんでしょ」
紬はもう一度写真を見る。
「何が変なの?」
「今の噂って、二十九段のあとに三十段目が出るって話じゃん」
「あ」
紬の表情が変わった。
もし十年前にも同じものがあったとして。
歩道橋が二十八段だったのなら、現れるはずなのは三十段目ではない。
二十九段目だ。
「じゃあ、三十段目の噂って、この工事よりあとにできた?」
「少なくとも、今の形の話はそうなんじゃないかな」
「でも昼間の人、もっと昔から名前を呼ばれる話があったって言ってたよね」
「うん」
私は古い歩道橋の写真を見る。
「だから、最初から『三十段目』だったわけじゃないのかも」
紬が黙る。
「名前を呼ぶ何かが先にあって、あとから歩道橋の段数とくっついた、とか」
口にしてみても、よく分からない。
怪異が噂から生まれたのか。
噂が怪異を説明するために生まれたのか。
私たちには判断できない。
でも、少なくともネットで見つけた「三十段目」の話が、何十年も前から同じ形で存在していたわけではなさそうだった。
私は記事の続きを読んだ。
工事の説明。
迂回路の案内。
問い合わせ先。
そのまま次のページへ進もうとして、手を止める。
同じ号の少し後ろに、短い記事が載っていた。
『小学六年生の女子児童 行方不明』
見出しの下に、小さな顔写真がある。
八月三十一日午後十一時頃。
宵ヶ丘市内に住む小学六年生の女子児童、十二歳が自宅を出たまま行方不明となり、警察と家族が情報提供を呼びかけている。
最後に目撃されたのは、宵ヶ丘駅前交差点付近。
「……紬」
私が言うと、紬も記事を覗き込んだ。
「何?」
私は指を置く。
紬が読んで、少し黙った。
「歩道橋のところじゃん」
「うん」
補修工事の期間中。
しかも、同じ駅前。
偶然と言われれば、それまでだった。
記事の写真は小さかった。
十年前の市政だよりをさらに縮刷したものだから、顔立ちまではよく分からない。
肩より少し長い髪。
私服姿。
真っ直ぐカメラを見ている。
どこにでもいそうな女の子だった。
名前も記事には載っていた。
けれど、その部分は他よりもひどく印刷が掠れていて、ほとんど読めなかった。
「十二歳か」
紬が小さく言った。
「今だったら?」
私は頭の中で計算する。
「二十二歳」
十年。
当たり前だけど、長い。
十二歳だった子が、高校にも大学にも行けるだけの時間。
もう大人になっている年齢だった。
もし、生きていれば。
「見つかったのかな」
紬が言った。
「分かんない」
「調べてみる?」
私はもう一度、写真を見る。
三十段目と関係がある証拠は何もない。
工事の期間中に。
同じ駅前で。
一人の女の子が消えた。
それだけだ。
「今日はいいんじゃない」
私が言うと、紬が少し意外そうな顔をした。
「何?」
「いや。絶対調べるって言うと思った」
「私を何だと思ってんの」
「怖いもの見たさの人」
「失礼だね」
「間違ってないでしょ」
否定しようとして、やめた。
間違ってはいない。
でも昨日までならともかく、今は違う。
知りたい気持ちより、これ以上変なものに近づきたくない気持ちの方が強かった。
十二歳の女の子の記事も、今はただの偶然だと思いたかった。
「もう帰ろ」
「賛成」
資料を閉じようとしたときだった。
「それ、調べてるの?」
声をかけられた。
顔を上げる。
三十歳くらいの女性が立っていた。
首から図書館の職員証を下げている。
女性は私たちではなく、開いたままの市政だよりを見ていた。
「駅前の歩道橋」
私は紬と顔を見合わせた。
「はい」
女性は少しだけ考えるような顔をした。
「学校の課題?」
「……みたいなものです」
また同じ嘘をついた。
女性は笑った。
「最近の学校は都市伝説も調べるんだ」
ばれている。
紬が気まずそうに笑った。
「三十段目って、知ってます?」
女性の表情が変わった。
本当にわずかだった。
でも、昼間の女性と同じだった。
この人も、きっと何かを知っている。
「どこで聞いたの?」
「ネットです」
「行った?」
質問が早かった。
私は答えなかった。
女性の目が私を見る。
「三十段目、出た?」
紬が私を見る。
私は少し迷ってから頷いた。
「……出ました」
女性は笑わなかった。
「名前、呼ばれた?」
「はい」
「返事した?」
背中が冷たくなった。
どうして知っている。
「何回?」
「……二回です」
女性はしばらく私を見ていた。
それから、静かに言った。
「今日はもう帰った方がいいよ」
「何か知ってるんですか?」
私が聞く。
女性はすぐには答えなかった。
周囲を見てから、少し声を落とす。
「私も聞いただけ。だから、本当かどうかは知らない」
「何を?」
「三十段目じゃないの」
女性は市政だよりに載った、工事前の歩道橋を指差した。
「昔は、そんな名前じゃなかった」
私は昼間の女性の話を思い出した。
「名前を呼ばれる話ですか?」
女性がこちらを見る。
「知ってるんだ」
「今日、別の人から聞きました」
「なら、たぶん同じ」
女性は言った。
「夜に名前を呼ばれても返事をしない。後ろを見ない。それだけ」
「三回返事をしたら?」
私が聞いた。
女性の視線が、私から紬へ移り、また戻ってきた。
「その人のところまで来るって聞いた」
「その人のところ?」
「家」
短く答えた。
「昔聞いた話では、三回返事をすると、その人の家に『次の一段』ができる」
私は意味が分からなかった。
「次の一段?」
「それ以上は知らない」
女性は首を横に振る。
「私が子どもの頃に聞いただけだから。作り話かもしれないし、別の怪談と混ざってるかもしれない」
そう言ってから、少しだけ強い口調になった。
「でも、今日は一人にならない方がいいと思うよ」
◇ ◇
図書館を出た頃には、外は暗くなり始めていた。
紬は家まで来ると言った。
断った。
お母さんがいる。
それに、図書館の人の話をどこまで信じていいのかも分からない。
昼間の女性。
ネット。
図書館の人。
三つとも少しずつ違う。
ネットでは、振り返るな。
昼間の女性は、返事をするな。
図書館の人は、その両方。
どれが正しいのか。
全部正しいのか。
あるいは全部間違っているのか。
「着いたら連絡して」
家の前で紬が言った。
「分かった」
「絶対ね」
「分かったって」
「あと、名前呼ばれても――」
「分かってる」
私が遮ると、紬は口を閉じた。
「……じゃあね」
「うん。また明日」
紬が帰っていく。
私は玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえりー」
キッチンからお母さんの声がする。
普通だった。
靴を脱ぐ。
廊下を歩く。
家の匂い。
テレビの音。
夕飯を作っている音。
ここまで来ると、図書館で聞いた話が急に馬鹿らしく思えてきた。
家に次の一段ができる。
何だ、それ。
うちの階段は十三段だ。
子どもの頃から何百回、何千回と上っている。
私は階段の前で足を止めた。
見上げる。
いつもの階段。
一。
二。
三。
無意識に数え始めていた。
途中でやめた。
「……何してんだろ」
自分で呟く。
二階へ上がる。
十三段。
何もない。
部屋に入って鞄を置いた。
紬に、
『着いた』
と送る。
すぐに、
『よかった』
と返ってきた。
その下に、
『階段は?』
と来る。
私は、
『普通』
と返した。
本当に普通だった。
◇ ◇
夕飯を食べて。
風呂に入って。
部屋で動画を見て。
気づけば午後十時を過ぎていた。
何も起こらない。
私はだんだん、自分が怖がりすぎていたような気がしてきた。
ネットの怪談。
知らないおばあさんの昔話。
図書館の人が子どもの頃に聞いた話。
それらを全部つなげて、一人で勝手に怖がっている。
三十段目を見たことだけは説明できない。
でも、それと「三回返事をしたら家まで来る」という話が同じものだという証拠もない。
ベッドに寝転がってスマホを見る。
紬から猫の動画が送られてきていた。
『かわいい』
と返す。
数秒後。
『でしょ』
何でもない会話。
少し安心した。
スマホを充電器につないだところで、一階からお母さんが呼んだ。
「灯ー!」
反射的に、
「何ー?」
と返した。
「明日って朝早い?」
「いつも通りー!」
それだけだった。
私は枕元にスマホを置いた。
少しして、手が止まった。
お母さんとの会話を頭の中でもう一度繰り返す。
灯。
何。
名前を呼ばれた。
返事をした。
でも。
違う。
お母さんだ。
本物のお母さん。
そんなものまで数えるわけがない。
そう思った。
思おうとした。
私はベッドから起き上がった。
理由は分からない。
ただ、確かめたくなった。
部屋を出る。
廊下。
階段の前まで行く。
電気はついている。
いつもの階段だった。
私は上から数えた。
一。
二。
三。
四。
途中で一度、数が分からなくなった。
最初からやり直す。
一。
二。
三。
ゆっくり。
最後まで。
十四。
私はしばらく階段を見ていた。
もう一度数えた。
十四。
うちの階段は十三段だ。
ずっと十三段だった。
でも今は、十四段ある。
どれが増えたのか分からなかった。
途中に一段だけ古い段が挟まっているわけでもない。
全部が昔からそこにあったように見える。
なのに、数えると十四ある。
私は手すりを握った。
昼間の図書館で聞いた言葉が蘇る。
『その人の家に、次の一段ができる』
違う。
三十段目じゃない。
あれは、歩道橋にだけ現れるものじゃない。
二十九段なら三十段目。
十三段なら十四段目。
いつだって、そこに存在しないはずの、次の一段。
喉が鳴った。
紬に連絡しようと思った。
部屋へ戻ろうとして、やめた。
私の後ろには、廊下がある。
その先に私の部屋がある。
見慣れた、自分の家。
なのに。
なぜか今、振り返ってはいけない気がした。
私は階段だけを見ていた。
何も聞こえない。
一階からテレビの音がする。
お母さんが何かを片付けている音もする。
いつもの夜だった。
その中で。
私のすぐ後ろから、女の声がした。
「――雨崎さん」




