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ねえ、知ってる?  作者: 鈴太
第一章「三十段目」
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3/8

第3話:昨日のこと

翌朝、目が覚めて最初に確認したのはスマホだった。


時刻は午前十時四十七分。

カーテンの隙間から入ってくる光が眩しくて、画面を見るだけでも目が痛かった。

昨日寝たのが遅かったせいもあると思う。

しばらくベッドの上でぼんやりしてから、昨夜のことを思い出した。


歩道橋。

三十段目。

後ろから聞こえた声。

コンビニの自動ドア。

全部、夢だったような気がした。

そう思いたかっただけかもしれない。


スマホのロックを解除する。

写真が残っていた。


「……あるじゃん」


誰に言うでもなく呟いた。

知らないアカウントから送られてきた一枚。

歩道橋の階段を上る私が、後ろから撮られている。

もう一度拡大してみた。

一段目から順番に数える。

途中で何度か分からなくなって、最初からやり直した。

二十九段。

何度数えても同じだった。

そして、その一番上。

私は右足を持ち上げている。

写真だけを見れば、何もない空間に足を置こうとしているようにしか見えない。

でも覚えている。

あそこには確かに段があった。

硬かった。

靴底でコンクリートの感触を確かめた。

足の裏には今も、靴越しの硬い質感が残っていた。

三十段目。


そして私の右肩の後ろには、白い手が写っている。

昨日は怖くてまともに見られなかったけれど、明るい部屋で見ると少しだけ冷静になれた。

手首から先だけ。

腕は見えない。

誰かが後ろから手を伸ばしているというより、そこに手だけが浮かんでいるようにも見える。

画像加工を疑った。

でも、誰が何のために。

そもそも誰が撮ったのか。

紬が撮った写真なら分かる。

けれど、送ってきたアカウントには見覚えがない。

プロフィールを開いた。

投稿はゼロ。

フォローも、フォロワーもゼロ。

自己紹介もない。

昨日と同じだった。

アカウント名を検索してみても、何も出てこない。

画面を閉じようとしたところで、紬からメッセージが来た。


『起きた?』


『起きた』


すぐに既読がついた。


『生きてる?』


『たぶん』


『たぶんって何』


『少なくとも普通にお腹すいてる』


少し間があって、


『じゃあ生きてるね』


と返ってきた。

そのあと、


『昨日の話したい』


と続いた。

私も同じことを考えていた。


     ◇     ◇


昼過ぎ、駅前のファミレスで紬と待ち合わせた。

昨日の歩道橋からは少し離れた店を、私が選んだ。

別に怖かったからではない。

たぶん。


「おはよ」


「もう一時だけど」


「休みの日は三時まで朝」


紬はそう言って向かいに座った。

注文を済ませると、私たちはほとんど同時にスマホをテーブルに置いた。


「で」


紬が言う。


「何があったの?」


「それ、こっちの台詞なんだけど」


「私は何もないよ」


「私が消えたって言ってたじゃん」


「だから、それ」


紬の顔から笑いが消えた。


「本当に消えたから」


私は黙った。

急に喉の奥が重くなった。

そんな気がした。


「灯が階段上ってたでしょ。私、ずっと動画撮ってたの」


「ある?動画」


「ある」


紬がスマホを操作した。


「見る?」


少し迷った。


「……見る」


私の目の前で、動画が再生された。

昨夜の歩道橋。

階段の下から私を撮っている。


『一』


画面の中の私が言った。


『二』


紬の笑い声が少し入っている。

映像が揺れる。

私はゆっくり階段を上っていった。


二十五。


二十六。


二十七。


二十八。


そして、


『二十九』


私が一番上の段に立つ。

そこで映像が大きく揺れた。


「待って」


私は止めた。


「何?」


「今のとこ、もう一回」


紬が少し戻す。

再生。


『二十九』


私が右足を持ち上げる。

次の瞬間。

本当にいなくなった。


「……え」


何度見ても同じだった。

消える瞬間に光ったり、映像が乱れたりするわけではない。

ただ、一つのフレームでは私がいる。

次のフレームにはいない。

それだけだった。

階段だけが残っている。


「編集してないよ」


「分かってる」


「いや、疑ってる顔してる」


「こんな編集できないでしょ?紬に」


「それはそれで失礼じゃない?」


少し笑った。

笑えたことに、自分でも安心した。


「で、このあとは?」


「探した」


紬は動画を止めた。


「最初は灯がふざけてると思った。上見てもいないから、走って反対側に行ったのかなって」


「私、ずっと歩道橋の上にいたよ」


「いなかった」


「何分くらい?」


「一分とか。それくらい」


昨日も聞いた。

やっぱり合わない。

私の感覚では、少なくとも数分はあの歩道橋を歩いていた。


「声は?」


「声?」


「私の声、聞こえなかった?」


「二十九って言ったのが最後」


「そのあと紬のこと何回か呼んだんだけど」


「聞こえてない」


私はストローを弄った。

氷がグラスの中で音を立てた。


「私には、紬の声が聞こえた」


「え?」


「すぐ後ろから」


紬の手が止まった。


「私、下にいたよ」


「知ってる」


紬は少しだけ俯いてから、静かに視線をあげる。


「灯の後ろの私は、何て言ってたの?」


「最初は『灯』って。あと、『もう終わったよ、戻ってきて』とか」


紬の表情が少し引きつった。


「私、そんなこと言ってないよ。そもそも歩道橋の上行ってないし」


「分かってる」


「やめてよ」


「それから、お母さんの声もした」


私は昨日のことを順番に話した。

歩道橋がどれだけ歩いても終わらなかったこと。

同じ車が何度も下を通ったように見えたこと。

紬の声で呼ばれたこと。

お母さんの声で呼ばれたこと。

そして、二回返事をしてしまったこと。


「二回?」


紬が聞いた。


「『うるさい』と、『ごめん』」


「それ返事なの?」


「分からない」


「でも、振り返ってないんでしょ?」


「振り返ってない」


「じゃあ大丈夫じゃない?」


その言葉を聞いて、私は昨日から引っかかっていたことを思い出した。


「それなんだけどさ」


「うん」


「本当なのかな」


紬が首を傾げる。


「ネットに書いてあったのって、『振り返るな』だけだったじゃん」


「うん」


「でも、誰が決めたの?」


「何を?」


「それが正しいルールって」


紬が黙った。


「昨日も考えたんだけど、あのサイトを書いた人が本当に三十段目に行ったのかも分からない。誰かから聞いただけかもしれないし、別のサイトからコピーしただけかもしれない」


「でも、三十段目は本当にあったじゃん」


「そこは合ってた」


「名前も呼ばれた」


「うん。それもあってた」


「振り返らなかったから帰ってこられた」


「……それは、分からない」


紬の表情が変わった。

私は知らないアカウントから送られてきた写真を見せた。


「これもあるし」


紬は昨日も見ている。

それでも改めて明るいところで見ると気味が悪いらしく、顔をしかめた。


「やっぱり手あるね」


「ある」


「加工じゃない?」


「だったら誰が送ってきたの?」


「知らない」


「私も知らない」


料理が運ばれてきた。

店員さんが皿を置いて、「ごゆっくりどうぞ」と去っていく。

その間、私たちは何も話さなかった。

店員さんが離れてから、紬が言った。


「……昼間に行ってみる?」


私は顔を上げた。


「どこに」


「歩道橋」


「嫌なんだけど」


「昨日は夜だったじゃん」


「昼でも歩道橋は歩道橋でしょ」


「確認するだけ」


昨日、私が言った言葉だった。

紬も気づいたらしい。


「アイス奢る。追加で一個」


「もうその手には乗らないから」


     ◇     ◇


結局、行った。

午後二時過ぎ。

駅前は昨日よりずっと人が多かった。

自転車を押して歩いている人。

買い物袋を持った人。

制服姿の中学生。

何人もの人が普通に歩道橋を使っている。

私は階段の下から上を見た。

何もおかしくない。


「数える?」


紬が言った。


「紬がやって」


「何で」


「昨日私がやったから」


紬が階段を上りながら数えた。


「一、二、三……」


私は下で聞いていた。


「二十七、二十八、二十九」


紬が上からこちらを見る。


「二十九」


「だね」


三十段目はなかった。

当たり前だ。

そう思うのに、少し安心した。

私も階段を上った。

一段ずつ踏んでいく。

二十九段目。

その上にあるのは平らな通路だけだった。

昨日、三十段目があった場所。

しゃがんでコンクリートを見る。


「何してるの?」


「何かないかなって」


「何かって?」


「分からない」


傷。

文字。

血の跡。

そういう分かりやすいものを、どこかで期待していたのかもしれない。

何もなかった。


「あなたたち」


突然声をかけられた。

心臓が跳ねた。

振り返る。

年配の女性が立っていた。

買い物帰りらしく、片手にスーパーの袋を提げている。


「あ、すみません」


何に謝ったのか自分でも分からない。

女性は私たちではなく、階段を見ていた。


「何か探してるの?」


「いや、その」


紬が私を見る。

私は少し迷ってから聞いた。


「この歩道橋って、昔からありますか?」


女性がこちらを見た。


「昔からって?」


「十年とか、二十年とか」


「ああ。それならあるわよ。何回か直してるけど」


「そうなんですか」


「どうして?」


「ちょっと調べてて」


「学校の宿題?」


「まあ、そんな感じです」


嘘だった。

女性は「そう」と言って、そのまま階段を下りようとした。

紬が小さな声で、


「聞いてみたら?」


と言った。

私は嫌だった。

でも、ここまで来たら同じだった。


「あの」


女性が振り返る。


「この歩道橋の、三十段目って話、知ってますか?」


女性の顔が止まった。

ほんの一瞬だった。

でも、分かった。

この人は何かを知っている。


「誰から聞いたの?」


質問に、質問で返された。


「ネットです」


「そう」


女性は少し考えていた。


「今は、そういう話になってるのね」


紬と顔を見合わせた。


「今は?」


私が聞いた。

女性は階段の上を見た。


「昔は違ったから」


「どんな話だったんですか?」


「私が学生のころだから、もうずいぶん前だけどね」


女性はそう前置きした。


「夜中にこの辺を歩いていると、後ろから名前を呼ばれるって話」


私は黙った。


「振り返っちゃいけないんですよね?」


紬が聞いた。

女性は首を傾げた。


「振り返る?」


「はい」


「そんな話だったかしら」


嫌な感じがした。


「じゃあ、何をしちゃいけないんですか?」


女性は私を見た。


「返事よ」


風が吹いた。

女性の買い物袋が小さく揺れた。


「名前を呼ばれても、返事をしちゃいけない。三回返事をすると、その人のところまで来るって」


私は何も言えなかった。

昨日の歩道橋を思い出した。


『灯』


『灯』


『灯』


その声に私は、


「うるさい」


と言った。

それから、母の声に、


「ごめん」


と。

二回。


「三十段目は?」


ようやく聞いた。

女性は不思議そうな顔をした。


「何が?」


「三十段目が出るって話じゃなかったんですか?」


「さあ」


女性は階段を見上げた。


「そんなのは聞いたことないわね」


     ◇     ◇


女性と別れたあと、私たちはしばらく何も話さなかった。

駅前を歩き、さっきのファミレスの前まで戻ってきたところで、紬がようやく口を開いた。


「二回、だよね」


「うん」


「あと一回?」


「そういう言い方やめて」


「ごめん」


紬がすぐ謝った。

私はスマホを取り出した。

さっきの女性の話を調べようと思った。

検索欄に、


『宵ヶ丘 歩道橋 名前 返事』


と入力する。

出てくるのは、昨日見たものと似たような話ばかりだった。

三十段目。

名前を呼ばれる。

振り返るな。


「返事をするな」と書いてあるページは見つからなかった。


「ないね」


紬が横から画面を覗く。


「うん」


「おばさんの記憶違いとか?」


「かもしれない」


「昔の別の怪談と混ざってるとか」


「それもあるかも」


そう答えたけれど、私は違う気がしていた。

理由は分からない。

ただ、昨日のあれは、私に振り返らせようとしていたというより。

返事をさせようとしていた。

そんな気がした。

スマホが震えた。

一瞬、落としそうになった。

通知。

昨日と同じアカウントだった。


本文はない。

また画像が一枚だけ送られている。


「……来た」


「何?」


「昨日の」


紬が私の腕にくっつくようにして画面を覗いた。

開きたくなかった。

でも、開かないままにもできなかった。

画像をタップする。

最初、何が写っているのか分からなかった。

道路。

塀。

電柱。

植木。

どこかの住宅街だった。


「何これ」


紬が言った。

私は答えられなかった。

見覚えがあった。

毎日見ている。

写真の右側に、二階建ての家が写っている。

白っぽい外壁。

一階の窓。

玄関の横に置かれたお母さんの自転車。

私の家だった。


写真は、道路の反対側から撮られていた。

明るい。

夜ではない。

今日。

それも、今撮られたばかりのように見えた。


「灯……これって」


紬の声が小さくなる。

私は答えず、写真を拡大した。

二階。

私の部屋の窓。

カーテンは閉まっている。

玄関にも、庭にも、誰もいない。

昨日の写真にあった白い手も、今度は写っていなかった。

ただ、私の家が写っている。

それだけだった。

なのに、昨日の写真よりずっと怖かった。

昨日までは、歩道橋にいるものだと思っていた。

午前零時になって。

二十九段の階段を上って。

三十段目を踏んだ人のところに現れる。

そういうものだと思っていた。

でも。

この写真を撮った誰か、いや、何かは、もう私の家の近くまで来ている。

さっきの女の人の言葉が、頭から離れなかった。

名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。

三回返事をすると、その人のところまで来る。

私は昨日、二回返事をした。

してしまった。


「うるさい」


「ごめん」


二回。

写真の中の自分の家を見ながら、私は無意識に唇を閉じた。

紬が何か言った。

でも、聞こえなかった。

そのとき。

手の中で、スマホが震えた。

それは新しいメッセージではなく、母からの着信だった。

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