第2話:振り返ってはいけない
「――雨崎さん」
女の声だった。
聞き覚えはない。
少なくとも、紬の声ではなかった。
私は三十段目の上に右足を置いたまま、動けなくなっていた。
車が走っていく音が聞こえる。
少し離れたところでは、歩行者用信号の電子音も鳴っていた。
駅前なのだから当たり前だ。
ほんの数秒前まで、そういう音は全部近くに聞こえていた。
なのに今は、ずいぶん遠い。
「紬?」
呼んでから、まずかったかもしれないと思った。
何がまずいのかは分からない。
ネットに書いてあったのは、名前を呼ばれても振り返ってはいけない、ということだけだった。
返事をするなとは書いていなかったし、誰かの名前を呼ぶなとも書いていなかった。
だから大丈夫なはずだった。
そもそも、大丈夫って何だろう。
私はゆっくり右足に体重をかけた。
三十段目を上る。
次に左足を出すと、今度こそ靴底が平らな通路に触れた。
歩道橋の上だった。
前を見る。
見慣れたはずの通路が、駅の明かりに照らされている。
誰もいなかった。
「紬」
もう一度呼んだ。
返事はない。
振り返れば、階段の下にいるはずだ。
スマホを構えて、たぶん笑いながら私を撮っている。
それを確認すればいい。
でも私は振り返らなかった。
いや、振り返ることができなかった。
くだらない都市伝説だと思っている。
思っていた。
それでも、三十段目は確かにあった。
私は今、その上に立っているのだから。
私は前へ歩き始めた。
歩道橋を渡り切って、反対側の階段から下りる。
それだけだ。
たぶん一分もかからない。
そう思っていた。
◇ ◇
しばらく歩いてから、おかしいことに気がついた。
向こう側の階段に着かない。
歩道橋自体はそれほど長くない。車道を一本またいでいるだけで、普通に歩けば一分もかからないはずだった。
でも、前方に見えている階段が近づいてこない。
最初は錯覚だと思った。
怖がっているせいで長く感じているだけだと。
だから歩いた。
歩道橋の数メートル下を車が通る。
白い車。
黒い車。
トラック。
また白い車。
私はそこで足を止めた。
同じ車だった気がした。
車種に詳しいわけじゃない。
ナンバーも見ていなかった。
ただ、天井に黒っぽい汚れがあった。
さっきの車にも、同じ場所に汚れがあった。
「……何これ」
声に出すと、少しだけ落ち着いた。
スマホを取り出す。
午前零時〇一分。
電波は立っている。
紬に電話をかけた。
呼び出し音が鳴らない。
画面には「発信中」と表示されているのに、何も聞こえなかった。
「紬」
今度はスマホに向かって呼んだ。
そのときだった。
「灯」
後ろから声がした。
紬だった。
私は反射的に振り返りそうになった。
首が少しだけ動いて、慌てて正面に戻す。
「何してんの?」
紬の声が言った。
「もう終わったよ。戻ってきて」
間違いなく紬の声だった。
さっきまで近くで聞いていたのと同じ声。
少し高くて、語尾が軽い。
私はスマホを耳に押し当てたまま黙っていた。
「灯?」
後ろから呼ばれる。
「ねえ」
返事をしなかった。
「聞こえてる?」
そこで、少し変だと思った。
紬は私が無視すると、だいたい三回目くらいで怒る。
なのに後ろの紬は、ずっと同じ調子だった。
「灯」
少し間が空く。
「灯」
また同じ声。
「灯」
同じ高さ。
同じ速さ。
録音を繰り返しているみたいだった。
私は歩き始めた。
後ろの声もついてきた。
「灯」
歩く。
「灯」
歩く。
「灯」
「うるさい」
思わず言った。
言ってしまった。
声が止まった。
私は自分の口を押さえた。
心臓が急に速くなった。
今のは返事になるんだろうか。
分からない。
ネットの記事には書いてなかった。
名前を呼ばれても振り返るな。
それしか書いてなかった。
だったら大丈夫。
そう思おうとした。
でも、そもそも私は、その記事を書いた人が誰なのかも知らない。
実際にここへ来た人なのか。
誰かから聞いただけなのか。
適当に話を作ったのか。
何も知らない。
どうして私は、知らない人間がネットに書いた数行を、こんなに信用しているんだろう。
◇ ◇
歩道橋の終わりは、まだ遠かった。
走るしかない、そう思った。
転びそうになりながら前へ進む。
足音が響く。
私の足音だけだった。
後ろから追いかけてくる音はしない。
それなのに、何かがいることだけは分かった。
距離が分からない。
すぐ後ろかもしれない。
十メートル以上離れているかもしれない。
もしかしたら、最初から動いていないのかもしれない。
そもそも、全てが気のせいだって可能性だって。
確認する方法はある。
振り返ればいい。
もちろん、できなかった。
「灯」
また声がした。
今度は紬ではなかった。
足が止まった。
「灯、どうしたの?」
お母さんの声だった。
思わず息を呑んだ。
「こんな時間に、どこ行ってるの」
お母さんが後ろにいる。
そんなはずはない。
家にいるはずだ。
「帰っておいで」
私は前を向いたまま目を閉じた。
聞かなければいいと思った。
「灯」
お母さんが呼ぶ。
「灯」
私は歩く。
「ねえ、灯」
声が少し近くなった。
「お母さんのこと、無視するの?」
「……ごめん」
言ってから、また後悔した。
どうして返事をしてしまうんだろう。
分かっているのに。
私は昔から、お母さんに呼ばれると反射的に返事をしてしまう。
それを知っているみたいだった。
いや。
知っているのかもしれない。
不意にそんな考えが浮かんだ瞬間、背中が冷たくなった。
私はもう一度走った。
今度は前だけを見る。
どれくらい走ったのか分からない。
途中から、後ろの声は聞こえなくなった。
代わりに、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
やがて、前方の階段が近づいてきた。
今度は本当に近づいている。
手すりが途切れて、その先に下り階段が見えた。
私は一気に駆け下りた。
段数は数えなかった。
道路に降りて、そのまま近くのコンビニへ走った。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませー」
店員の声がした。
店内には客が二人いた。
一人は雑誌を読んでいて、もう一人は飲み物を選んでいる。
蛍光灯が明るかった。
冷蔵ケースが低い音を立てている。
店内放送では、知らない新商品の宣伝が流れていた。
それらを見た瞬間、急に足から力が抜けた。
私は入口近くの商品棚に手をついた。
スマホが鳴った。
「ひっ」
変な声が出た。
画面を見る。
紬だった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『灯!?』
耳が痛くなるくらい大きな声だった。
『どこにいるの!?』
「……コンビニ」
『どこの!?』
「歩道橋の反対側の」
『反対側って……』
紬がしばらく黙った。
『いつ渡ったの?』
「今」
『今って何時から?』
「十二時になってから」
『違う。そうじゃなくて』
紬の息が荒かった。
『灯、急にいなくなったんだよ』
「……は?」
『階段上ってたじゃん。私、下から撮ってたの。灯が「二十八」って言って、「二十九」って言って、それで』
紬が一度言葉を切った。
『消えた』
私は店内の時計を見た。
零時二分。
「私、歩道橋渡ってたよ」
『見てない』
「何分くらい?」
『一分くらい。電話もした。繋がらないし、階段上って探したけどいなくて』
「……一分?」
もっと長かった。
少なくとも、そんな気がする。
『そこにいて。今行くから』
「うん」
『絶対動かないで』
「分かった」
通話が切れた。
私は店内の時計をもう一度見た。
零時三分。
スマホも同じだった。
画面を見ていると、通知が一件表示された。
SNSのメッセージだった。
知らないアカウント。
アイコンは設定されていない。
名前も、英数字を適当に並べただけに見えた。
本文はなかった。
画像が一枚添付されていた。
開くか迷った。
でも結局、私は開いた。
歩道橋の写真だった。
階段を上っている私が写っている。
後ろから撮影された写真。
たぶん紬がいた場所と、ほとんど同じ位置から。
私は階段の一番上にいた。
右足を上げている。
写真の中の階段を数えた。
一。
二。
三。
途中でやめようと思った。
でも最後まで数えた。
二十九。
二十九しかなかった。
私の右足は、その上の何もない空間に乗っているように見えた。
しばらく、そればかり見ていた。
だから最初は気づかなかった。
写真を拡大した。
私の右肩の少し後ろ。
手すりの高さより、わずかに上。
白いものが写っている。
人の手だった。
細い指が五本。
私の肩に触れる直前みたいに、後ろから伸びていた。
私はスマホを伏せた。
そのとき、コンビニの自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
店員が言う。
紬だと思って顔を上げた。
誰も入ってこなかった。
自動ドアだけが開いていた。
数秒後、何事もなかったかのようにドアはゆっくり閉まっていった。




