第1話:はじまり
「ねえ、灯。三十段目って知ってる?」
白雲紬がそう言ったのは、金曜日の放課後だった。
その日は六時間目が現代文で、授業が終わったあとも先生が何か連絡をしていた気がする。内容は覚えていない。
私は鞄に教科書を詰めながら、
「何の?」
と聞いた。
「階段」
「三十段ある階段?」
「違う。二十九段しかない階段に出る三十段目」
紬は自分の席から椅子を引きずってきて、私の机の横に座った。
こういうことをするときの紬は、大抵ろくでもない話を持ってきている。
「ほら」
スマホを差し出された。
画面に映っていたのは、駅前の歩道橋だった。
学校から駅へ向かう途中にある、ごく普通の歩道橋だ。
私も毎日のように使っている。
「これが何?」
「この階段、何段あるか知ってる?」
「知らない」
「二十九段なんだって」
「へえ」
「なんか反応薄くない?」
「歩道橋の段数で盛り上がれる高校生あんまりいないでしょ」
「ここからだから」
紬が画面をスクロールした。
そこには、いわゆる都市伝説を集めたページが表示されていた。
背景が黒く、文字が白い。
広告が多くて、少し見づらかった。
内容はこうだった。
駅前の歩道橋には二十九段の階段がある。
午前零時ちょうどに、一人でその階段を上る。
一段ずつ数えながら上っていくと、二十九段目のあとに、普段は存在しない三十段目が現れることがある。
三十段目を踏むと、背後から自分の名前を呼ばれる。
そのとき、絶対に振り返ってはいけない。
もし振り返ると、その人間は「いなかったこと」になる。
家族も友人も、その人のことを忘れる。
写真や記録も消え、最初から存在しなかったことになる。
「だって」
紬が言った。
「だって、じゃないよ」
「怖くない?」
「まあ、それなりに」
「それなりなんだ」
私は紬からスマホを受け取って、もう一度文章を読んだ。
どこかで見たような話だった。
三十段目。
夜中。
名前を呼ばれる。
振り返ってはいけない。
都市伝説としては、ずいぶん出来すぎている。
「これ、変じゃない?」
「どこが?」
「振り返ったら、みんな忘れるんでしょ?」
「うん」
「その人がいた記録も消えるんだよね?」
「そう書いてあるね」
「じゃあ、誰がこの話をしたの?」
紬が黙った。
「振り返った人のことを誰も覚えてないなら、『振り返ったらこうなります』って確認できないじゃん」
「……確かに」
「はい、論破」
「都市伝説に論破とかある?」
「少なくとも設定は甘い」
そう言ってスマホを返した。
そのときは、本当にそれだけだった。
変な話を聞いた、くらいにしか思っていなかった。
ただ、あとから何度かそのページを探したけれど、同じものは見つけられなかった。
紬も、どのサイトで見たのかよく覚えていないらしかった。
◇ ◇
私たちは駅まで一緒に帰った。
歩道橋を使わず、下の横断歩道を渡ったのは、別に怖かったからではない。
紬がコンビニに寄りたいと言ったからだ。
「で、行く?」
アイスの棚を覗き込みながら、紬が言った。
「行かない」
どこかなんて聞くまでもない。
歩道橋しかない。
「せっかく明日休みなのに」
「関係ないし」
「十二時に見るだけだよ」
「何を」
「三十段目」
「これ、起こる前提なの?」
「起こらなかったら帰る」
「もし起こったら?」
紬は少し考えて、
「もっと早く帰る」
と言った。
「意味分かんない」
「だって怖いじゃん」
「じゃあ行かなきゃいいじゃん」
「でも気になるじゃん」
紬はそういうところがある。
怖い映画を見たあと、一人でトイレに行けなくなるくせに、公開初日に見に行く。
怪談動画も好きで、私に何度も送りつけてくる。
ただし、本気で幽霊を信じているわけではない。
たぶん私も同じだった。
信じてはいない。
「行かないよ」
もう一度言った。
「アイス奢る」
紬は私の顔をじっと見ながら続ける。
「好きなのどれでも」
「…………見るだけだからね」
「よっしゃ!」
今思えば、たぶんこのときだった。
引き返せた最後の瞬間は。
◇ ◇
午後11時58分。
駅前は思っていたより明るかった。
終電前だったので人もいる。
車も普通に走っているし、昼間に寄ったコンビニも営業していた。
歩道橋の上を会社員らしい男の人が一人歩いていった。
「普通だね」
紬が言った。
「普通でしょ」
「なんかもっと、誰もいない感じを想像してた」
「駅前だもん」
怪談には似合わない場所だった。
紬は歩道橋の階段の前に立ち、スマホのカメラを向けた。
「数えてみよ」
「今?」
「うん」
私は下から階段を見た。
特別なところは何もない。
古いコンクリート。
金属製の手すり。
少し剥げた黄色い点字ブロック。
「一、二、三……」
紬が数える。
「二十八、二十九」
「ほんとに二十九なんだ」
「疑ってたの?」
「疑ってたっていうか、わざわざ数えたことなかったし」
私たちは来た道を引き返し、下に戻った。
時刻を見る。
11時59分。
あと少し。
一人の女性が歩道橋を下りてきた。
私たちの横を通り過ぎていったけれど、こちらを見ることはなかった。
紬が急に小声になった。
「ねえ」
「何」
「一人で上るんだよね」
「そう書いてあったね」
「どっちが行く?」
「紬でしょ」
「えっ」
「言い出した人」
紬は目を泳がせている。
「いやいやいや」
「私は帰ってもいいんだけど」
「灯、こういうの気になるって言ってたじゃん」
「それとこれとは話が」
「やばい!もう時間ない!」
紬がスマホを見て大きな声をあげる。
見ると、午前零時まではあと20秒ほどだった。
午後11時59分40秒。
「ねえ、灯」
「何」
「お願い」
「ほんと最悪」
私は大きくため息をついて、階段の前に立った。
「紬は?」
「ここで撮ってる」
「一人じゃないじゃん」
「上るのが一人ならいいでしょ」
「都合いいな」
「何かあったら呼んでよ」
「怪談で一番信用できない台詞なんだけど」
言いながら、少し笑った。
紬も笑った。
だから、そのときまでは、本当に遊びだった。
零時になった。
「行ってらっしゃい」
「はいはい」
一段目に足をかける。
「一」
声に出した。
「二」
三。
四。
五。
途中で馬鹿らしくなった。
誰かに見られたら何をしていると思われるだろう。
「六」
背後から紬の声がする。
「ちゃんと数えてよー」
「数えてる」
七。
八。
九。
車の音が下から聞こえる。
信号が青に変わり、歩行者用の電子音が鳴った。
二十七。
二十八。
二十九。
そこで私は立ち止まった。
目の前には、歩道橋の通路がある。
当然だ。
二十九段しかないのだから。
「二十九」
振り返らずに言った。
「何もないよ」
返事がなかった。
「紬?」
もう一度呼んだ。
聞こえなかったのかもしれない。
私は右足を持ち上げた。
そのまま通路へ踏み出す。
そのつもりだった。
靴底に、硬い感触があった。
「……え?」
足を下ろす。
明らかに、一段高い。
私はゆっくり下を見た。
段があった。
二十九段目の上。
さっきまで何もなかったところに、もう一段だけ。
古いコンクリートの段差がある。
色も。
汚れ方も。
他の階段と同じだった。
最初からそこにあったと言われたら、たぶん信じてしまう。
「紬?」
声が少し震えた。
返事はない。
階段の下を見るべきだと思った。
でも、見ることができなかった。
さっきまで笑っていたはずなのに、急に喉が乾いていた。
私はもう一度、足元を確認した。
一段。
確かにある。
頭の中で、さっき読んだ文章を思い出した。
午前零時。
一人。
三十段目。
名前。
振り返るな。
馬鹿馬鹿しい。
そう思った。
本当に。
そのはずだった。
そのとき。
後ろから女の声がした。
「――雨崎さん」
知らない声だった。




