第4話 国立時空情報研究所、本当にあった
翌日、琴音は校長室に呼ばれた。
怒られる理由は三つほど心当たりがあった。
物理準備室のブレーカーを落としたこと。
情報科学部の共有端末に勝手にrootで入ろうとしたこと。
それから、宇宙を一回、軽く詰まらせたこと。
校長室には、知らない大人が三人いた。
一人はスーツ。
一人は白衣。
一人は、どう見ても「公務員です」と言いたくない公務員だった。
校長は、いつもの穏やかな顔ではなかった。額に汗を浮かべ、出されたお茶にも手をつけていない。
「高梨さん。こちらの方々が、君に話を聞きたいそうです」
白衣の女性が立ち上がり、名刺を差し出した。
「国立時空情報研究所、重力情報基盤部の有馬玲です」
琴音は名刺を見た。
「国立……何ですか?」
「よく言われます」
「本当にあるんですか?」
「本当にあることにしてあります」
その時点で、琴音は帰りたくなった。
有馬は三十代半ばくらいに見えた。髪は後ろで束ね、目つきは鋭い。白衣の下はきちんとしたスーツで、研究者というより、研究予算を獲得するために財務省と戦うタイプに見えた。
彼女はノートPCを開き、琴音が昨日保存したログのコピーを表示した。
「これは、あなたが取得したものですね」
「はい」
「装置を停止させたのも?」
「はい」
「自己言及パケットを入れた?」
「入れました」
「なぜ?」
「コンセントに手が届かなかったので」
有馬は一瞬だけ目を閉じた。
「高校生の発言としては、かなり嫌な部類ですね」
「すみません」
「謝る必要はありません。あなたは、おそらく正しい判断をした」
公務員っぽくない男が、そこで初めて口を開いた。
「正しいかどうかは、まだわかりません」
声が低かった。
琴音はその男を見た。
四十代くらい。黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い靴。顔は特徴があるようで、記憶に残りにくい。妙に古い腕時計をしている。
有馬が少しだけ眉を動かした。
「彼は、内閣府の関連部署の方です」
「部署名は?」
琴音が聞くと、男は無表情で言った。
「言えません」
「MIBですか?」
「その呼称は避けています」
「映画会社に怒られるから?」
「主に、上司が嫌がるからです」
校長が咳き込んだ。
有馬は、話を戻した。
「高梨さん。昨日あなたが見た現象は、単なる機械トラブルではありません。我々は以前から、重力と情報密度の関係を研究していました。ブラックホール、量子もつれ、ホログラフィック原理、ベッケンシュタイン境界。そうした理論上の問題です」
「でも、実験室で再現できなかった」
「そのとおりです」
有馬は画面を切り替えた。
そこには、昨日の物理準備室の模式図があった。
ラックの周囲に、同心円状の等時面が描かれている。
「あなたの測定値が正しければ、あの装置は実質質量に換算して、とんでもない重力ポテンシャルを作っていました。ただし、通常の質量源は存在しない」
「情報密度ですか」
有馬は、少しだけ琴音を見直したような顔をした。
「そう。より正確には、情報密度そのものではなく、局所状態の整合性維持に必要な更新コストだと考えています」
「重力はラグである」
「研究所内では、もう少し品のある言い方をしています」
「でも意味は同じですよね」
有馬は、否定しなかった。
「一般相対論は間違っていません。時空の曲率として重力を記述する理論は、極めて正確です。問題は、その曲率が何に由来するかです。質量とエネルギーが時空を曲げる。では、なぜ曲げるのか。そこに、情報処理的な実装層があるかもしれない」
琴音は、昨日の感覚を思い出した。
腕が届かない。
時間が粘る。
世界が情報に向かって落ちる。
「瀬尾先輩は、それを知っていたんですか」
有馬の顔が、わずかに硬くなった。
「瀬尾航。三年前の卒業生ですね」
「知ってるんですか」
「我々の研究所に、一度だけメールを送ってきました」
「内容は?」
有馬は、少し迷った。
黒服の男が言った。
「話して構いません。どうせ彼女はもう巻き込まれています」
「巻き込まれてるんじゃなくて、私の部室なんですけど」
「宇宙規模の案件では、所有権の主張は弱いです」
「理不尽」
有馬はため息をつき、画面に古いメールを表示した。
送信者は、瀬尾航。
件名はこうだった。
宇宙が計算を嫌がる場所を作れました
本文は短い。
> 質量なしで時間遅延を作れる見込みがあります。
> 重力は処理負荷です。
> 証明できたら連絡します。
> なお、連絡がなければ、宇宙か学校に怒られたと思ってください。
「このメールの一週間後、瀬尾くんは失踪しました」
「失踪?」
「進学先にも現れず、家族にも連絡がない。ただし死亡記録はない。海外渡航記録もない。ネット上の活動履歴も、ある日を境に途絶えています」
琴音は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
瀬尾先輩は、ただの無責任な卒業生ではなかった。
この装置を残したまま消えた。
あるいは、消された。
「昨日のログに、見慣れない一行がありました」
琴音は言った。
有馬の指が止まる。
「何ですか」
「EXCEPTION HANDLED BY HOST」
校長室が静かになった。
黒服の男が、初めてはっきりと表情を変えた。ほんの少しだけ、目が細くなった。
有馬が低い声で言った。
「そのログは、こちらに提出されたデータにはありません」
「スクリーンショットを撮りました」
琴音はスマホを取り出した。
画面を見せる。
有馬は息を呑んだ。
黒服の男は、黙って立ち上がった。
「高梨琴音さん」
「はい」
「あなたには、しばらく我々の監督下に入ってもらいます」
「嫌です」
即答した。
男は少し意外そうな顔をした。
「理由を聞いても?」
「テスト前なので」
校長が頭を抱えた。
有馬が、小さく笑った。
「いいですね。宇宙より定期テスト」
「赤点取ったら、親に怒られます」
黒服の男は無表情に戻った。
「親御さんには、こちらから説明します」
「何て?」
「娘さんは宇宙の例外処理に関与しました、と」
「絶対やめてください」
話は、そこで終わるはずだった。
その日の帰り道。
琴音は何気なく、スマホのバッテリー残量を見た。
いつもより、半分以上、減っていた。
通知欄を開く。
見たことのないアラートが、ひとつだけ残っていた。
> 昨夜のネットワーク使用量が、通常の三倍を記録しました。
琴音は、横断歩道の真ん中で足を止めた。
昨夜。
自己言及パケットを撃ち込んだ夜。
彼女は、機内モードのまま、家で寝ていた。
通信できた、はずがない。
なのに、誰かが、彼女のスマホ越しに、何かを送受信していた。
夕焼けが、ビルの隙間から赤く差した。
その赤が画面に重なって、ほんの一瞬だけ、別の文字が滲んで見えた。
EXCEPTION HANDLED BY HOST.
次の瞬間、その文字は、消えていた。
琴音は、ゆっくりと、自分の背後を振り返った。
いつもの通学路。
いつもの夕方。
誰も、いない。
信号が、青に変わった。




