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99話 サリン・オリド (1)

レンシロアの境界の最西端。山道の峠に位置するマブエン関門要塞(かんもんようさい)から、西へ向かって急な坂道を下ると、ヴェス・ディナスへ続く二股の道に出る。


二股の道のうち、北西へ進むと『幽霊蜘蛛(ゆうれいぐも)の森』と呼ばれる場所がある。その森を横切る道はヴェス・ディナスへの近道ではあるが、危険極まりない。森の中には巨大な蜘蛛が潜み、トロルがうろつき、さらには森の奥を根城に、通りかかる商人や旅人を狙うゴブリン一団までいる。だからこそ、この森にまつわる不穏な噂は絶えることがない。


そんな危険が常に付きまとう幽霊蜘蛛の森を抜ければ、ヴェス・ディナスに数日早く着けるのだが、マブエン関門要塞を出発するほとんどの人々は、二股の道のうち危険な近道という誘惑を振り切り、森を大きく迂回する安全な道を選んでヴェス・ディナスを目指す。


薄暗い森の道。周囲には濃い霧が立ち込め、道の上には頭を垂れてのろのろとした足取りで歩く馬と、その背中に乗った騎士の姿があった。


眉をひそめ、片方のガントレットを(くら)の上に置いたレーベンは、頭痛に耐えるように目元を指先で押さえながら、時折、乗っている馬の首を優しく揉んでいた。


「ううう……マブエンで飲み過ぎたみたいだな……。ビールってのはこれが困るんだよな……。お前は大丈夫か? レスカ。」


——プルック、プルック——


レスカは短く二度鼻を鳴らしてレーベンに答えた。


「それでも味は良かったよな。今日のこの頭痛も、またマブエンの名物であるあのビールの味を味わえるなら、十分に我慢できるさ。」


——プルルルルック——


「そうだな。すまない。お前も同じ二日酔いで苦しんでいるのに、俺まで乗せて運んでくれているんだから。むしろ明日の朝早くマブエンを出発すればよかったかな……なんて考えも浮かぶよ。」


レーベンはレスカのたてがみを優しく撫でながら、申し訳なさそうに言った。


「ふうう。ところでこの道を通るのもずいぶん久しぶりだな。せめて今日みたいに二日酔いで苦しんでいる日くらいは、何事もなく通り過ぎてほしいものだ。」


レーベンは顔を巡らせて周囲を見回した。小さな鳥が数羽、茂みの中から飛び立って揺らした葉の音が聞こえてくる。音のするあたりは、まだ午後の陽がさんさんと降り注いでいるはずなのに、森に入り込む日差しを遮る高く密集した木々のせいで、ひんやりとした陰鬱(いんうつ)さが漂っていた。日陰が多いせいか、赤いキノコが目立つ。


幽霊蜘蛛の森という名がもたらす不気味さ。恐怖というほどではないが、幽霊と蜘蛛という二つの言葉がもたらす、どこかぞわっとした不快感が漂う森の道は、ヴェス・ディナスへ向かう道の中でも最も人通りが少ないだろう。


実際、森の奥深くには、小さな猫ほどの大きさから熊ほどの大きさ、そしてそれ以上のトロル並みの大きさまで育つ巨大な蜘蛛が数多く生息しているため、そう名付けられたのだが、森の主である幽霊蜘蛛たちと出会う心配がほとんどないのは、日当たりが良い森の端の道を進む場合に限られる。


しかし、森で道に迷った不運な旅人や、蜘蛛の糸を採るために奥深くまで入る糸採り(いととり)たちの話が、森の周辺を往来する商人たちの口から素早く広がった結果、今では幽霊蜘蛛の森を通る人はかなり少なくなっていた。


それでも、性急な商人は自分の荷物を守る冒険者を雇って森を抜けたり、冒険者ギルドから魔獣の素材を得るための狩猟依頼や薬草採取などのさまざまな依頼を受けた冒険者たちは、今もなお幽霊蜘蛛の森でその姿を見かけることができる。


その他にも、競争なく上質なキノコを摘むために森へ来る村人、己の勇猛さを証明するために大声で虚勢を張り、独りで遅い時間に幽霊蜘蛛の森に入る小さな村の若い狩人まで。どんなに暗く不気味な森であっても、こうしてさまざまな理由を一つ二つずつ抱えて森を目指す人々が絶えないのが、幽霊蜘蛛の森だった。


「場所が場所だからかな……道が寂しいな。」


レーベンは後ろに誰もついてこないか身体を振り返って確かめたり、鞍の上から身を起こして首を長く伸ばして前を見たりしても、周囲には人影も馬の姿も見当たらなかった。


時折聞こえる、からからに乾いた落ち葉が踏み砕かれるバサバサという音に、レスカの耳がピクリと動くことはあったが、二日酔いで苦しむレスカのゆっくりとした足取りのまま、森の道を進み続けた。


レーベンが一瞬レスカを止め、鞍から降りて、鞍の横に付いた袋から水の入った革の水筒を取り出し、レスカと分け合って飲んでいたその時だった。


獣の足音がレーベンの耳に届いた。一定のリズムで聞こえる落ち葉を踏むバサバサという音が、森の奥からずっと続いていた。


「そこに誰かいますか!?」


腰の剣(さや)に手をやりながら、レーベンは身体を巡らせて茂みの生い茂る森の方へ向かって叫んだ。


レーベンの声が静かな森に広がる。遠くに黒い影が見えた。しかし濃く立ち込める霧と長い枝、背の高い(やぶ)に遮られて、その影の正体を測りかねた。


足音が一瞬止まり、そして正体不明の足音の主は、聞いた声に反応するように、徐々にレーベンに向かって茂みを掻き分けながら近づいてくる音を立てた。


『しまった。霧が濃すぎてよく見えないな。ひどい臭いがしないところを見ると、トロルではなさそうだが……』


レーベンは近づいてくる音の方向を見据え、剣を抜いて構えた。


「お……聞き覚えのある声は! レーベン卿でか?」


「え? この声は……」


レーベンの耳にも聞き覚えのある声が響いた。そして素早く近づいた影の形が霧を突き破って姿を現した。


「ハッハハ! こんなところで再会とは! 半日ぶりだから、あまり嬉しくはないかな?」


周囲に立ち込める霧より白い馬に跨がって現れた騎士は、兜を脱いでほぼ白髪に近い金髪を見せ、一方の手で兜を抱えながらレーベンに話しかけて近づいてきた。


兜に付着した土と砕けた落ち葉の粉、そして蜘蛛の糸を確認した騎士は、慌てて自分の鎧と乗っている馬の馬具のあちこちに絡まった蜘蛛の糸を手で払い落とした。


「いえいえ。ヴェス・ディナスのグランドトーナメントでまたお会いする予定でしたが、それより早くオリド子爵様にお目にかかれて嬉しいです。」


抜いていた剣を鞘に戻しながら、レーベンは近づいてくる騎士に答えた。


レーベンが笑顔で挨拶した、オリド子爵と呼ぶ貴族の姿は、その名にふさわしくとても整っていた。金細工で繊細に飾られた鎧と、模様と装飾が華やかな兜の中に整えられた髪、そして毎日剃って髭のない滑らかな顎のおかげで、すっきりと清潔感のある印象の男だった。


サリン・オリド。王国辺境の小貴族家の当主として、自分がグランドトーナメントに参加するためにヴェス・ディナスへ向かっていると名乗り、昨夜マブエン関門要塞でレーベンと遅くまで互いの馬上槍試合での武勇談を交わしながら、ビールが注がれた杯をぶつけ合った、ごくありふれた旅の縁でレーベンが知ることになった人物の名だった。


「それにしてもサリン様は、すぐにヴェス・ディナスへ向かわれるはずではなかったのですか? 今朝早く要塞を出られるのを見送ったので、午後になってから出発した私としては、道中で子爵様にお会いするとは思ってもみませんでした。」


「ハハ……実は……森の道があまりに遠回りだと思ったもので、森を横切ればもっと早く着けるだろうと思ってね……」


(……道に迷って今まで森を彷徨っていたというわけか)「ああ、そうなのですね。」


「ほんの少し道に迷っただけだよ。」


「はあ……」


それからしばらく経つと、陽が沈み始め、森にもさらに暗い影が落ち始めた。


レーベンとサリンは、道端でどうにか月明かりが差し込む適当な場所に、一夜を過ごすための場所を作った。


火を起こすのに、サリンが懐から取り出した魔道具(まどうぐ)が使われた。


片手で持てる四角い箱から、赤く光る熱せられた小さな球体が出て、積み上げた枝の真ん中にまとめた枯れ葉の上に置かれると、すぐに小さな炎が灯り、集めた枝を燃やし始めた。そして二人は座って、昨夜できなかった話を続けていた。


「さっきの魔道具、便利そうですね、サリン様。」


「あ? これかい? 最近貴族の間で香を焚いて名前を当てる遊びが流行っているから買った物なんだが、焚き火を起こすのにもとても便利だった。」


サリンは腰に下げていた火を出す魔道具をもう一度取り出し、レーベンに見せながら言った。


「ところで、どうかな? 私のグリシュラが捕まえてきたウズラの味は?」


「おいしいです。さっき捕まえたばかりだからか、村の酒場で食べるものとは明らかに違いますね。」


手に持った小さな鳥の肉を一口かじって飲み込んだレーベンが、サリンに答えた。


二人が焚き火用の枝と、その周りに積む適度な大きさの石を集めていた頃、森の闇の空の上から小さな茶色の斑点のウズラが落ちてきた。


突然乾いた落ち葉の上に落ちたウズラの音に驚いたレーベンに、サリンが近づいてきて、自分が飼っている青緑隼(せいりょくはやぶさ)がやったことだと説明した。


死んでいるウズラを見て呆然としているレーベンに、森の空に向かって『グリシュラ、もういいぞ、戻ってこい』と大声で呼びかけ、飛んできた自分の隼をサリンが手首に止まらせて紹介した。


「客がいることを知っている賢い子だ。」


手の上に止まった小さな青緑色の隼を優しく撫でながら、サリンが言った。


鎖帷子(くさりかたびら)の目の周りの色である青緑色の羽を持つ隼——青緑隼は、隼の中でも最も小さな種類で、別名『一握り隼』というほど小さな猛禽(もうきん)だった。


他の隼とは違い、独特の色の羽と主人によく懐く賢さから、エステタ王国では貴族たちが飼う隼としてその名が広く知られている。


「血抜きしていない肉を毎回別途用意して与えるのが面倒で、一緒に出かけて小さな鳥やウサギを狩るようになったら、今では指示しなくてもさっきみたいに獲物を捕まえてくるようになったんだ。」


「おっしゃる通り、とても賢い隼ですね。」


「君の酒飲み仲間であるあの子の負けず劣らず、私にとっては良い友人だよ。」


昨夜、場所を変えて涼しい風に当たりながら酒を飲もうとサリンが誘い、ビールがたっぷり入った樽を要塞の中庭に用意された席へ運びながら、合流して猛烈な勢いでビールを飲み干していたレスカの姿を思い出しながら、サリンが言った。


「それでも子爵様のグリシュラのように、こんなにおいしい肉を食べさせてくれるわけではありませんけどね。」


もしかしたらレスカが聞いているかもしれないと、小さく静かな声でレーベンが言った。


「ふむ。そこまで褒めてくれると、飼い主として私が代わりに礼を言わねばならないな。そしてこれはそのお礼の贈り物だ。」


サリンは自分の懐から小さな袋を一つ取り出し、レーベンに差し出した。


思いがけない贈り物にレーベンが一瞬手を止めて伸ばすのをためらっていると、サリンはもう一度軽く微笑み、レーベンの手のひらの上に袋を置いた。


レーベンがサリンから受け取った小さな袋からは、心地よい香りがした。結ばれた紐がきつく締まっていても、花のような甘く爽やかな香りではなかったが、舌の下に唾を湧かせるような、香ばしい堅果(けんか)の香りと、焼いた野菜のような香りが漂っていた。

ご拝読ありがとうございました。

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