227話 ダム攻防戦 (32)
大陸のどこであれ、ダムの鮭油 と干し鮭を運び届ける者たちがいる。
イクスターンの交易路にも、砂漠王国の砂丘に沿って続く道にも、遥か東方キルビアの草原にも、ドワーフ王国の巨大な鉄の関門の前にも、ニシ族の商団を乗せたムールムックの蹄 の跡が残されている。
ダムに残ったダウィたちが城壁の内で根を下ろし、ムワたちがダムの空の下で羽ばたきを続ける間、〈道のダウィ〉〈さすらうダウィ〉と呼ばれるニシ族は、ムールムックの背に荷を積んで隘路 と峠を越えていく。
一季節でダムへ戻る場合は稀だ。二季節、長ければ数年、あるいはそれ以上かかることもある。運んでいった荷をすべて売り払い、ムールムックの背に外の世界の品々を満載して帰ってくるニシ族の顔には、過ぎ去った季節が幾重にも刻まれている。
ラトゥール洞窟道の向こう側の者たちにとって、〈ダウィ〉といえば即ちニシ族のことを指した。サアルンの森とベルラントの森の境界の内で暮らす大半のダウィを目にしたことのない大陸の民にとって、ダウィとはただムールムックを駆って渡り歩く行商人にすぎなかった。風と道の匂いを漂わせる種族。大陸の諸種族が〈ダウィ〉という名から思い浮かべるのは、ニシ族なのだ。
ダムのダウィとムワが己の大地と川と空を生の中心に据えて生きる一方で、ニシ族はどの地をも自らの中心とはしなかった。彼らにとってダムは出発点にすぎない。行き着く先とは、鮭油を満たした壺が売れる場所だった。
そして、ニシ族の油壺を満載した商団を率いる者の名は――〈ニシャリン〉。
川の君主の末裔 にして、大陸随一のムールムック騎手であるニシ族。その集団を率いる者は、己の名を捨て〈ニシャリン〉の名を受け継ぐ。以前の名を問う者はいない。それがニシ族の掟である。
ニシ族のムールムックは、並のムールムックよりも小さく、背が低い。体格も貧弱だ。他のムールムックと並べて立たせれば、その違いは一層はっきりと浮かび上がる。初めて目にする者の中には、まだ育ちきっていない個体だと勘違いする者も少なくなかった。だがニシ族は、遥か昔からそうしたムールムックだけを駆って旅立ってきたのだ。
そこには明確な理由がある。
大陸の商団たちが使う獣は大抵体が大きい。背により多くの荷を載せることができ、広い平野ではそれが即ちより多くの利益を意味する。
しかし、隘路では話が違う。
ペストロナク山脈の山道。ドワーフ王国へと続く断崖の道。キルビアへ向かう狭い峠道。そこでは獣の大きさが、そのまま道の幅となった。体の大きな獣は岩と岩の間を通り抜けることができない。狭い道の途中で足を止めることになる。そして足を踏み外した瞬間、荷もろとも斜面の下へと転落する。
幾世代にもわたって、ニシ族はムールムックを選び抜いてきた。体が細く、背が低く、蹄の堅いものを残した。体格が大きく幅の広いものは、他の商団に売り渡した。そうして数十世代が過ぎると、ニシ族のムールムックは最初から小さな体で生まれた。
他のムールムックよりも肩幅が狭く、背が低い。脚は短いが頑丈で、重心は地面近くに寄っているため、背に負った油壺が揺れることはない。断崖の縁をかすめて通り過ぎる時でも、体が大きく揺らぐことはなかった。
脚が短いほど、歩幅は小さくなる。歩幅が小さくなれば、一歩ごとに生まれる揺れは上へと伝わらず、下へと散っていく。
そうしたムールムックの背に跨ったニシ族の騎手は、体を揺らすことなく投げ槍や弓を構えることができる。荷を運ぶために育て上げられたムールムックは、戦場でもその真価を失わなかった。
――アンドゥル・ナバザール『ニシ族』
*****
ヴァルゴがニシャリンの傍らへ一歩近づいた。
「もう少しで防壁が完成します、ニシャリン。その後ろでオークどもを迎え撃たれるのがよろしいでしょう。」
ニシャリンはすでにムールムックの向きを、崩れた城壁の方へと変えていた。
「このムールムックに乗ってか? ムハハハ!!」
ムールムックの脚が大きく動いた。蹄が地面を蹴り始めた。
ニシャリンはムールムックの背の上で身を起こし、槍を頭上高く振りかざした。
「待つだけ無駄なようだな、建築匠 !」
ムールムックが走り出した。四つの蹄が交互に地面を踏みしめる。その後ろにニシ族の騎手たちが続いた。徐々に速度を上げながら追う騎手たちが、一人また一人と上体を起こし、間隔を広げていく。ムールムックたちは横並びになって破口 の方向へと駆けた。蹄が瓦礫 と砂利を踏みしだく音が、空き地の中に響き渡った。
オルデンが声を張り上げた。
「ニシャリン!! 城壁にあまり近づいてはなりません!」
だが、ムールムックたちはすでにオルデンへ背を向け、破口の方へと遠ざかっていた。オルデンはその後ろ姿を見つめたまま、一歩も追うことができず、その場に立っていた。
「ニシャリン!!」
もう一度叫んでみたが、答えはなかった。ムールムックの蹄が瓦礫と砂利を踏む音だけが次第に遠ざかり、遅れて響いたオルデンの叫びが、がらんとした空き地の中に長く尾を引いた。
*****
破口から埃が立ち上っていた。
瓦礫の斜面をオークたちが駆け下りてきた。足元で石屑 が散った。何本もの矢が突き刺さった盾を城壁の上へ向けて構えたまま走る。
背後からは、別のオークたちとミノタウルたちの足音が追ってきていた。
オークが後ろに向かって怒鳴った。
「Grakh! Ugh mun! (動け!! 止まれば死ぬぞ!)」
矢が飛んできた。肩当てに当たって弾かれた。
破口の内側が、オークの視界に入った。城壁の内側の空き地。その先に見える木柵の輪郭。まだ完成には至っていない姿だったが、確かにそこにはダウィたちとムワたちがいた。
再び矢が飛んできた。今度は鎧のない部分だった。鏃 が肉に食い込んだ。オークは片足を引きずるようにして歩みを続けた。
他のオークたちも次々と破口の内側へと入り込んできた。
オークが斧を振り上げた。
「Okka!! Okka Ulla!!」
左右から叫びが弾けた。
「Ulla!! Okka Ulla!!」
オークたちは盾と斧を前面に構えたまま駆けてきた。瓦礫を踏むたびに石屑が横へ跳ね、後に続くオークたちも歩みを緩めることなく、先を行くオークたちを追って破口の中へとなだれ込んできた。
視界の端で何か大きな影が動いた。
それは横から素早く迫ってきていた。
霧を切り裂いた槍の穂先が、オークの喉を貫いて通り過ぎた。
「ハハッ! でかいネズミ野郎だな!」
ムールムックは崩れ落ちるオークの傍らをそのまま駆け抜けた。ニシャリンが腕を大きく振るい、槍の穂先に付いた血を払い落とした。
ムールムックの蹄が短く力強く地面を踏みしめ、方向を変えた。
破口から続けて入ってきていたオークたちが前に立ちはだかった。二体のオークが槍を持ち上げた。
ニシャリンは槍を低く寝かせた。
ムールムックは振り上げられたオークの槍をかわして身を捻った。オークの側面をムールムックが押して通り過ぎると、オークは体勢を崩してよろめいた。その隣のオークへ向け、ニシャリンの穂先が短く突き込まれる。続けて方向を変えたニシ族の騎手が槍を横に振り抜き、残るオークの頭を打ち据えた。
首を失いよろめきながら歩いていたオークが、瓦礫の上に崩れ落ちた。
別のニシ族の騎手たちが、破口へ入り込むオークの群れの側面を突いた。ムールムックたちが斜めに割り込んで身を捻る瞬間、重い体軀 に押し出されたオークたちがそのまま横へ弾き飛ばされる。後に続いていたオークたちは足を止めきれず、倒れたオークに躓いた。狭い斜面を下ってきていたオークたちの隊列が乱れた。
その様子を遠く離れた石壁の陰から見守っていたエルフの一人が、ゆっくりと弓を持ち上げた。
霧の向こうで破口は淡く揺らめいていた。エルフは弦を限界まで引き絞ったまま、息を殺した。ぼやけた影の群れが、崩れた城壁の瓦礫の斜面を伝って降りてきていた。その中に、兜をかぶっていないオークが一体、一瞬だけ姿を見せた。
弦が放たれた。矢は揺らぐことなく、遠い距離をまっすぐに飛んでいった。
破口の斜面の上で、オークの一体が喉を押さえたまま座り込んだ。
オークの喉には、エルフの矢が深々と突き刺さっていた。
ダオバは手にしていた石を下ろし、エルフを見つめた。
エルフはすでに次の矢を弦にかけていた。
ダオバは顔を向け直し、崩れた城壁の方角を再び見た。
ゆっくりと歩を進めるムールムックに跨ったニシ族の騎手たちが、倒れたオークたちの間を縫うように動いていた。穂先が、まだ息のあるオークたちの喉や背を次々と貫いていく。瓦礫の上でもがいていたオークたちが、一人また一人と動きを止めた。
ニシ族の騎手の一人が、崩れた城壁の斜面を下りてきて、ニシャリンの傍らへと近づいた。
「ニシャリン。破口の外へ出るのは無理そうです。」
「うむ?」
「堀の向こう側まで、オークどもが際限なく押し寄せています。奴らは破口側の堀に木材の山を次々と投げ込んで、橋を広げています。」
ニシャリンはしばし言葉を発しなかった。
「まもなく、もっと多くのオークどもがここへ押し寄せてくるでしょう。」
顔を上げたニシャリンが上方を見た。城壁の上から矢が放たれていた。ムワの翼兵たちが破口の上空を飛びながら、城壁の外へ向けて投げ槍を浴びせかけていた。
城壁の外へ出るのは無理だと判断した。城壁の上から降り注ぐ矢と投げ槍の下、破口と堀の間の狭い空間では、ムールムックが動き回る余裕がない。
「むう……思ったより多いみてぇだな。」
ニシャリンが手綱を引き絞ると、ムールムックは重々しい体を旋回させ、再び破口の内側へと向き直った。
ムールムックがしばし速度を緩めた。そしてニシャリンの視線が下へと落ちた。
足元。ドロコが立っていた。
ドロコはニシャリンを見ていなかった。破口の方を向いたまま、両手で剣を握っていた。刃の長い両手剣だった。ムールムックの背から見下ろしても、それが並の両手剣より長いことがわかった。
「俺たち……」
ニシャリンが下を見ながら言った。
ドロコが顔を上げた。
「どこかで会ったか?」ニシャリンが言った。「見覚えのあるドロコのようだが。イクスターンで見たんだったか?」
ドロコの目がニシャリンを一度なぞった。しばし止まった。
「知らないだる。」
ニシャリンが破口の方向を見た。瓦礫の向こうから再びオークたちの怒号が湧き上がった。その下でニアは剣を両手で握りしめたまま、ひたすら破口を見つめていた。オークたちの姿が見えるたびに視線がそれを追い、上体が少しずつ前へと傾いていく。いつの間にか爪先も破口の方を向いていた。一歩踏み出せばそのまま駆け出しそうな勢いで、ニアはオークたちを見つめていた。
「後ろに乗れ、ドロコ。」
ニアがムールムックの横腹に手をつき、背中へと乗り上がった。ムールムックが一度体を揺すった。ニアの両足がムールムックの横腹を押さえ、体勢を整えた。
また一群のオークたちが、破口の斜面を踏みしめながら下りてきていた。
盾を前面に構えたオークたちが、瓦礫の上に足を下ろしながら降りてきた。先頭を駆けてくるオークが盾を低く傾け、前方へと突き出した。
ニシ族の騎手二人が横並びにムールムックを止め、その前に立ちはだかった。
騎手の一人が盾の上から槍を突き入れた。オークが盾を持ち上げる。その隙にもう一人の騎手のムールムックが素早く横へ抜け、次のオークを槍で押し払った。斜面で足をもつれさせたオークが膝をついた。後ろから下りてきていたオークたちの足が、倒れたオークを踏みつけて通り過ぎていった。
「気が変わったぞ! 入ってくるオーク野郎どもを殺せるだけ殺してから退いても遅くはあるまい! ワハハハ!!」
ニシャリンのムールムックが駆けた。
ニシャリンの槍が、最も先に迫るオークへと向けられた。
そしてニシャリンの背後から姿を現したニアの剣、「180金貨」の刃が、オークを斬り裂いた。
オークの脇腹を刃がかすめた。長い刃が通り過ぎた跡に赤い肉が覗き、オークは横へと倒れ込んだ。
その隙にニシ族の騎手の一人が近づき、また別のオークへ槍を突き入れた。
ニシャリンのムールムックが方向を変えた。
瓦礫に沿って転がり落ちる小石とともに下りてきたオークが、斧を前に突き出しながら襲いかかった。
「降りるだる!」
ニアがムールムックから飛び降りながら「180金貨」を振るった。
長い剣身がオークの斧を横に通り過ぎた。斧の柄が裂け、オークの腕が仰け反った。
ムールムックが倒れたオークの傍らを駆け抜けた。
「その剣。」
ニシャリンが腕を引き、手綱を握り直しながら言った。ムールムックの蹄が再び方向を捉えた。
「その剣、なかなか重そうだが。」
「重くないだる。」
「長さも長すぎるんじゃないか?」
「大丈夫だる。」
「じゃあ、俺と一緒にここで時間を稼いでみよう、ドロコ!」
「ニアだる!」
ニアがニシャリンを見上げながら言った。
「フハハッ! そうか……そうだったな。俺の名も言ってなかったな。ニシャリンだ!」
ニシャリンが短く声を上げて笑いながら言った。
少し離れた場所から、ヴァルゴの声が聞こえてきた。
「月の側、柱の三列目!! 土嚢 をさらに積め!! 空いた場所があるぞ!!」
「今ですか!?」
「そうだ! 今だ!! 急げ!! まだ時間はある。」
土嚢を運ぶ足音と、ガンガンという槌の音が響いた。
大工の一人が駆け寄り、楔 を打ち込んだ。木材がしっかりと嚙み合った 。別の石工 が縄で縛った石塊 を、空いた隙間へと押し込んだ。
小石を固めて作った袋がその上に載せられた。城壁の内側では、防壁が積み上げられていく音とムールムックの足音とが、空き地の中で入り混じっていた。
そして、破口の外側。
霧の向こうから城壁へと迫る影の群れが、果てしなく連なっていた。
霧が乱れるたびに、オークたちの顔がちらりと現れては消えた。革と鉄板を貼り合わせた盾にはすでに幾本もの矢が突き刺さっていたが、オークたちはそれを下ろすことなく、そのまま足を進めた。
城壁の上から矢がオークたちへと降り注いだ。鉄鎧と盾に矢が突き立つ音が、絶え間なく響いた。
侵略者たちの影は、果てしなく連なっていた。
霧が再び低く垂れ込め、破口の外を覆い始めた。槍と斧、そして兜が列をなして姿を現した。破口の外でオークたちが互いを押し合う音が、霧に乗って内側へと流れ込んできた。
低く重い足踏みの音。盾と盾が触れ合う音。鎧の金属音。そのすべての音が、霧の下に低く敷かれて流れ込んできていた。
ニシャリンは外から聞こえてくるオークたちの音に顔をしかめ、短く舌打ちをした。
「くそ……ずいぶん来やがったな。」
実は、ニアとニシャリンはイクスターンの油壺の取引所で本当に会ったことがあるんですよ。




