223話 ダム攻防戦 (28)
カアンッ——!
鋭い金属音がイリスの耳朶 を打った。イナルディルが止められた。この戦場において、イナルディルの刃を止めた武具など、いまだかつて一つもなかった。イリスの視線が正面へと向いた。
黒い甲冑を纏 った騎士が二人、行く手を阻んでいた。
その鎧は一見すると黒に見えたが、表面の曲線に沿って暗い青の光が反射していた。鎧の表面に施された細工は鋭く繊細で、縁を彩る金色の縁取りは細い線で丹念に仕上げられていた。関節ごとに噛み合う金属片は、まるで生きた獣の鱗のように精巧に連なっており、胸甲 中央の稜線はそれ自体が巨大な楔 のようにそそり立っていた。鎧のあらゆる継ぎ目と先端は、角張って鋭く研ぎ澄まされていた。
兜は頭頂部の上方へと長く突き出た形をしていた。額から頭頂を経て後頭部へと続く中央稜線の上に、鋭い飾りが垂直に伸びていた。兜の両側面には、薄く平らな金属の刃が長く取り付けられていた。その刃先は鋭く研ぎ澄まされている。目と鼻の下から顎先までを覆う、低く頑丈な顔当てが装着されていた。そしてその顔当ての奥から、二つの瞳がイリスを見つめていた。
手にした得物 はグレイブだった。長い木の柄の先に、幅広で厚みのある刃が装着された形状をしている。柄の長さは通常の槍と同じほどあった。刃の表面にも、鎧と同じ形の繊細な文様が陰刻 されていた。その二振りのグレイブが斜めに交差し、イナルディルの一撃を受け止めたのだった。
イリスが剣を握る手に力を込めた。二本のグレイブの柄が強い圧力を受けてしなり、鋭い摩擦音を立てた。交差した柄の重みを支えていた二人の騎士の足が、同時に後ろへと押し込まれた。
イリスがイナルディルを持ち上げながら力を抜いた。その瞬間、さらに三人の黒い甲冑 の騎士が迫った。左、右、正面。同じ黒い甲冑を纏った三人の騎士が、それぞれグレイブを頭上に振りかぶった。三本の刃が正面と両側面から、イリスの首と肩めがけて振り下ろされる。
イリスがイナルディルを掲げ、グレイブの刃を弾いた。鉄と鉄が激しくぶつかり合い、小さな火花が散った。三本のグレイブが、それぞれ別の方向へと弾き飛ばされた。
三人の騎士の足が数歩ずつ後ろへ押しやられた。そのうちの一人は、グレイブを握った手を一度開き、握り直しながらイリスを見つめた。
イリスがイナルディルの切っ先を下げながら口を開いた。
「私の剣を受け止めたこと、褒めて差し上げましょう」
『オークではない。この統率された連携攻撃と武具……魔族か?』
イリスがイナルディルを握り直した。
『今は正体を考えている場合ではない』
遠くで、巨大な投石機の発射腕が再び引き下ろされ、装填の段階へと入っていくのが見えた。城壁の破壊を防ぐためには、一刻の猶予もなかった。周囲では、倒れたミノタウルの死体の向こうから、オークの群れが際限なく押し寄せていた。黒ずんだ革と鉄甲の壁が、幾重にも包囲網を狭めてくる状況だった。
五人の黒騎士が再び陣形を整えた。その中でも最も中央に立つ騎士が、イリスへと一歩踏み出しながら、聞き覚えのない言語で言い放った。
「Uun Deui Dareld Hrunsa!」
四人の騎士が即座に左右へと分かれ、イリスを包囲する軌道を描いて疾走した。角度を違えた四本のグレイブが、イリスめがけて狭まっていく。
イリスの構えが変わった。イナルディルを正面に垂直に立てる。右足を前に一歩。剣を握る両手はその姿勢のまま動かない。すぐ目の前まで迫ったグレイブの刃の脅威すら感じていないかのように、イリスは奇妙なほどの静寂に包まれていた。
『私は我が主君の剣!』
かつて相対したグラベルの底知れぬ格が脳裏をよぎった。その誇りが、イリスの冷めやらぬ熱意をさらに高めていった。主君の剣として、たった一歩たりとも立ち止まるわけにはいかなかった。
『三十歩の剣鳴 !!!( Dertig passen zwaardklink! )』
一歩目。イリスが最初の足を踏み出した瞬間、イナルディルの剣身から鋭い音が鳴った。低く澄んだ金属音だった。刃が空気を切り裂く風切り音でも、何かと衝突する摩擦音でもない。剣が特定の軌道で疾駆する際、剣身を包む高密度のマナが振動して生み出す共鳴だった。その音は短く鮮明で、足を一歩踏み出す刹那の時間と正確に軌を一にしていた。
二歩目。同じ音が鳴った。同じ高さ、同じ重み。最初の残響が消える直前、二度目の剣の共鳴が始まった。二つの音の終わりと始まりが、空気の中で触れ合った。
三歩目。三度目の響きが、先の音の上に重なり積もった。素早く斬り裂くイナルディルの音色が厚みを増し、辺りの空気を震わせる。イリスへと駆け寄っていたオークたちが、本能的に異様さを感じ取った。得体の知れない金属質の響きに、彼らの瞳が一斉にイリスへと向いた。本能的な恐怖によって、迫っていた勢いが一瞬たじろぎ、鈍った瞬間——
歩みは続いた。オークたちの動きが鈍ったその刹那の隙間で、最も前に立っていたオークが一体、血を噴き出しながら崩れ落ちた。誰も、それがどう斬られたのか見た者はいなかった。イリスはただ歩いていただけであり、その傍らを通り過ぎたにすぎなかった。
イリスの歩みが続くたびに、目にも見えぬ超高速の斬撃が乱舞となって四方へと伸びていった。音が幾重にも積み重なり、共鳴する。音の層が加わるたびに、その響きは地面を伝って広がり、血だまりの上に波紋を起こした。
イリスはただ整然と歩いているだけだった。それでも、左右から斧や槍を手に叫びながら襲いかかっていたオークたちの肉片が、宙へと舞い上がった。イリスがオークたちの間を歩いて通り抜ける、その瞬間ごとに、目に見えぬ速さの斬撃が幾十もの軌跡を描き、オークたちを切断していった。
十度目の剣鳴が続いた頃には、空気の中に既に十の音が集まり、一つの巨大な音の塊となって辺りへと広がっていた。
黒騎士の一人が、イリスを阻もうとグレイブを水平に構えた。腰を落とし、両足を地面にしっかりと踏みしめて、イリスの歩みを食い止めようとする。しかし、イリスの足がそこへ届いた瞬間、その騎士の姿は消え去っていた。グレイブは綺麗に真っ二つとなって地に落ち、騎士の鎧の表面には、イナルディルが通り過ぎた細い線が一本刻まれていた。騎士の体が地面に着くよりも先に、イリスは既に次の一歩を踏み出していた。
歩みは止まらなかった。イリスの周囲には、オークの群れがびっしりと押し寄せていた。数十、数百のオークたちが金属の擦れ合う音を立てながら、壁を成して迫ってくる。
イリスは歩いた。一歩は正面へ、次の一歩は斜めへ、その次はまた一歩、横へ。そしてその歩みとともに、正確な間隔で、目に見えぬ刃が周囲を斬り裂いていった。
斧を真正面から振り下ろしながら突っ込んできたオークの傍らへ、イリスが動いた。その動きこそが、十四度目の剣の響きだった。オークの斧は虚空を切り、オークの巨躯 はその場で上下に分かたれた。
二人目の黒騎士が側面からグレイブを構え、イリスの首を狙って駆け寄ってきた。グレイブの刃がイリスの首に触れる寸前、イナルディルの響きが弾けた。
ドガァンッ——!
黒甲冑の騎士はその衝撃に弾き飛ばされ、地面へと叩きつけられた。手から離れたグレイブの刃面には、イナルディルの残像が烙印のように刻まれていた。
十七歩目。十八歩目。十九歩目。十九の剣鳴が音を立てた。連なる三つの歩みとともに放たれた巨大な剣撃が、オークたちへと向かっていく。頑丈な鉄甲も、分厚い骨も、斬り裂かれていった。
イリスを中心に、半径数十キュビトのぬかるんだ血だまりが、一定の間隔で震えた。
二十歩目。イリスの周囲は、押し寄せたオークとミノタウルの群れで埋め尽くされていた。オークたちが振り下ろした幾十もの武器が虚空を裂き、地面へと突き刺さった。イリスが踏み出す歩みとともに周囲へと伸びていくマナを纏った刃が、オークとミノタウルの体を斬り裂いた。
三人目の黒甲冑の騎士が、他のオークたちを押しのけながら速度を上げて駆けた。グレイブの穂先に体重と突進の勢いをそのまま乗せ、イリスを突き刺そうとする。
イリスが、迫りくる騎士へと歩み寄った。その一歩とともに三つの刃が伸び、黒甲冑の騎士を斬りつけた。
黒騎士の足がさらに一歩前へと出た。グレイブの穂先もそのままイリスへと伸びていく。しかし、その次の一歩は続かなかった。膝が先に地に着き、続いて騎士の体が均衡を失い、前へと傾いだ。
黒い鎧の上には、イナルディルが掠め過ぎた白い線が幾筋も、くっきりと残っていた。
踏み出した二歩。イリスは歩みを止めぬまま、イナルディルを大きく振るった。刃が通り過ぎた場所のオークたちが、腰と胸から裂かれて崩れ落ちた。
黒甲冑の騎士がイリスの前に立ちはだかり、グレイブを振るった。イリスの胴を真っ二つにせんとする勢いだった。
敵へと向けた一歩。グレイブの刃が砕け散った。黒甲冑の胸には、長く斬られた痕が残った。騎士はそのまま立ち尽くしていた。イリスがもう一度剣を振るうと、上半身が胴体から離れ落ちた。
最後に残った黒甲冑の騎士が、イリスの前に立ちはだかった。彼は絶望の中、両手にそれぞれグレイブを一本ずつ握り、休みなく突き出し続けた。
イリスが一歩を踏み出した。左手のグレイブが真っ二つに斬れて落ちた。
再び一歩。
もう片方のグレイブの刃も斬られ、砕け散った。黒甲冑の胸には、細く深い斬り傷が残っていた。
黒甲冑の騎士は、二十九度目の剣鳴を聞いた。イリスが剣を握り直したその瞬間、胸に残っていた細い斬り傷が開いた。
黒甲冑の騎士は一歩、後ずさった。
踵が滑り、均衡が崩れ、体が横へと傾いだ。金属が石に触れる音が、短く響いた。
その下には、既に暗く滲んだ水たまりがあった。水ではないことを、彼は知っていた。鎧の継ぎ目から染み出す赤い血が地を求めて集まり、息を吸い込むたびに全身へと広がる鋭い痛みを感じる。
彼は手を伸ばし、地面に手を突いた。籠手 の内側が湿り気を帯び、手のひらに残る感触が自分自身のものであることを理解した。
彼はその上に倒れ伏したまま、次第に広がっていく血だまりを見つめていた。
そして、イリスが最後の三十歩目を踏んだ。
振り返ったイリスの目に、粗末な革鎧と雑な鉄甲を纏ったオークたちの姿が映った。斧や重い槍を振りかざし、一斉に雄叫びを上げながら押し寄せるオークたちが、血だまりを踏みしだき、ぐちゃぐちゃという音を立てて駆けてきていた。
イリスが両手でイナルディルを握り直し、大きく振り抜いた。その瞬間、空気の中に留まっていた二十九の音が、三十度目の斬撃の軌跡に合わせて、ただ一つに重なり合った。
長く、明澄 で、低く響き渡る、たった一つの巨大な剣鳴が鳴り渡った。
イナルディルの切っ先から迸 った純粋な鋭気は激流となり、オークたちへと押し寄せる剣の波と化した。
激しく渦巻く波の頂点ごとに、イナルディルの残像が幾千、幾万もの銀色の飛沫 となって噴き上がった。
剣の波が敵たちに届いた瞬間、数え切れぬほどの斬撃が交錯し、オークとミノタウルたちを無残に斬り裂いた。血と肉片が赤い飛沫を上げ、オークたちが振りかざしていた巨大な斧の柄は幾つもの断片となって宙に舞い、彼らが手にしていた分厚い盾と鉄製の胸甲もまた、斬り裂かれていった。
敵たちの悲鳴すらもその巨大な響きの中へと沈めてしまう、まさに畏怖の念を呼び起こすほどの一撃だった。
波が一度なぎ払っていった跡には、オークの痕跡そのものを消し去った、巨大な破滅の残骸 だけが残されていた。
巨大な剣鳴が通り過ぎた跡には、斬られ、裂かれ、寸断されたオークたちの胴体と、断面が滑らかに切り取られたミノタウルの首が、無残に散らばっていた。長く延びたその赤い線の上に血が一つに集まり、戦場を横切る死の川となって流れていた。
戦場に、再び静寂が訪れた。
イリスが静かに息を吐いた。
「ふぅうううう——」
長く、ゆっくりと。剣を握る手が、わずかに軽くなった。
すぐ目の前には、二匹の蠍と、その規模に見合う巨大な投石機が並び立っていた。投石機の傍らで縄を握り、装填の準備をしていたオークたちは、放心した顔でイリスを見つめていた。やがてオークたちの手から武器がぽとりぽとりと落ち、何人かのオークは悲鳴すら上げられぬまま、その場で固まってしまった。恐怖に怯えた瞳だけが、小刻みに震えていた。
イリスがイナルディルを鞘 に収めた。鎧の表面から、純白のマナが立ち昇った。最初は薄い気流に過ぎなかったが、やがて銀白の鎧に刻まれた繊細な文様の一つ一つを満たし、強烈な光を放ち始めた。胸甲が、腕甲 が、そしてガントレットが、真っ白な光の粒子に覆われていく。
霧と灰色に覆われた戦場、そして赤い血の海の上に。グラベルの完璧な剣が、そこに立っていた。
イリスが閉じていた目をゆっくりと開いた。青い眼光が、目の前の投石機を見据えた。
『異界の舞姫』
イリスの必殺技!三十歩の剣鳴!かっこいい!




