222話 ダム攻防戦 (27)
イリスが走った。
低く垂れ込めた霧がうねりながら、イリスの足取りを追いかける。
霧の中には、土と入り混じった血の匂いが漂っていた。足を上げるたびに、足下からべちゃりと粘りつくような水音が響く。足が地面に触れるたびに、溜まった血が爪先の周りに広がり、足が離れるとまた、ゆっくりと水たまりへと戻っていった。
霧の向こうでは、巨大な投石機の発射腕 が縄に縛られたまま、ゆっくりと引き絞られていた。
「ウワアアアアアッ!!」
ミノタウロスが一体、イリスの前に立ちはだかる。両足が泥を深く踏みしめる。蹄 の周りで濡れた土が弾けるように飛び散った。両手で斧の柄を握りしめる。そして、頭上高く振り上げた斧の刃が、イリスへと振り下ろされる 。
イリスの右手が動いた。
イナルディルの刃が斧の刃へと垂直に振り上げられ、ミノタウルの巨大な斧の刃と真正面からぶつかり合った。
ミノタウルの斧の刃に触れたイナルディルは、そのまま内側へと食い込み、硬い鉄の刃ではなく柔らかな蝋 を切り裂くかのように、滑らかに斬り裂いた。
剣先が通った跡には、細い線が一つ残り、斧の刃は耐えきれず、静かに開いていき、真っ二つになった斧が地に落ちるより早く、イナルディルの刃は止まることなく、ミノタウロスの首へ向かった。
刃が通り過ぎたその場所には、何の抵抗もなかった。太い頸骨 も、強靭 な筋肉も、分厚い鎧さえも、イナルディルの前ではまるで存在しないかのように無意味だった。切り口があまりにも整っていたため、ミノタウロスの頭は、しばらくそのまま首の上に乗っていた。
両手もまた、刃を失った斧の柄を握ったまま宙で止まっていた。その短い一瞬だけは、まるで時が止まったかのような奇妙な静寂が流れた。そして首がゆっくりと横へ滑り落ち、続いて巨体が膝から崩れ、地面へと沈み込んでいった。
イリスは、首を斬られたミノタウルが倒れるより先に、すでにその傍らを駆け抜けていた。
駆けるイリスの両脇から、オークの群れが押し寄せてきていた。
オークたちの鉄斧、棍棒、槍が一斉にイリスへと繰り出された。異なる高さ、異なる角度、異なる速さで振るわれた数十の武器が、一瞬にしてイリスの体へと襲いかかった。
イリスはその隙間を縫うように通り抜ける。斧の刃が通り過ぎた場所には、すでにイリスの姿はなかった。槍の穂先が掠めるはずだった位置には、銀白の鎧の裾さえ残っていなかった。オークたちの振るう武器の間を、イリスは糸を通すように滑り抜けていった。
イリスが通り過ぎたその跡、心臓が一度打つほどの短い間に、斧を振るったオークの上半身が腰から切り離され、横倒しになった。槍を突き出したオークの首はもうなかった。切られた首の上から血が低く噴き上がり、地面へと流れ落ちる。棍棒を振り下ろしていたオークの腕が斬り落とされ、地に転がった。
首を失ったオークが一体、なおも手に斧を握ったまま前へと歩いていた。首から血が噴き出し、腕は無意識に宙で斧を振り回している。数歩を踏み出してからようやく膝が折れたが、倒れながらも最後まで斧を手放さなかった。
イリスは走っていた足で地を蹴った。体を捻り、背後を見据えながらイナルディルを水平に薙いだ。
鋭く研ぎ澄まされたマナの刃が霧を切り裂き、オークたちへと向かっていく。
刃を包んでいたマナが、振るわれたイナルディルの軌跡に沿って放たれた。半月形の銀青色のソード・シングが、回転の勢いに乗り、追いすがるオークたちへと突き進んでいった。
突進していたオークたちは、目前に迫る銀青色の残像を目にした。本能的な恐怖に、駆けていた足先が土を抉りながら強張った。その一瞬の躊躇い が死に直結した。すでにソード・シングの青い刃が、オークたちを掠め終えていた後だった。
先頭を駆けていたオークたちの体が斬られた。あまりにも圧倒的な切れ味に、骨と肉が裂ける感覚すら伝わらなかった。斧を掲げた腕はまだ振り下ろされている途中だった。叫び声を上げていた口は、まだ開いたままだった。
息を一つ吸い込むほどの短い間に、上半身と下半身が滑り落ちるように離れていった。盾を構えたオークたちの盾は真っ二つに割れ、盾の向こうにいたオークの鎧まで裂けた。
そのまま伸び続けたソード・シングは、オークたちの鎧と体を共に切り裂いていった。体を覆う分厚い鉄板も、その奥の肉塊 も、何の意味もなさなかった。銀青色の刃が通り過ぎるたびに、鎧は静かに割れ、体は裂け、オークたちは血を吐きながら次々と折り重なって倒れていった。
霧が一瞬、マナの波動に押されてイリスを中心に外へと押し流された。
イリスが再び前を向いた。
もしグラベルがこの場にいたなら、彼が好んで読んでいた古典の一節を思い浮かべていたことだろう。
万夫不当 (萬夫不當)。一万の兵をもってしても敵わぬほどの気迫を持つ者。
万人之敵 (萬人之敵)——ダムの城壁の前で幾万ものオークを斬り伏せている今のイリスこそ、まさにその故事を体現したかのような存在だった。
しかしオークたちの猛攻は衰える気配を見せなかった。斬り伏せた死体の山を越えて、無数のオークが絶えず押し寄せ、霧の中からはミノタウルたちの重い足音が四方を取り囲むように迫ってきていた。イリスは、押し寄せるオークとミノタウルたちの、まさにその只中に立っていた。
イリスの全身に、高密度に圧縮されたマナの障壁――「マナ・ブルワーク」が展開された。胸甲 の内側から全身を包み込んだマナが、籠手 や指先、爪先から頭まで、隙間なく覆っていく。鎧の表面に沿って、まるで透明で頑丈な鋼の被膜のように鍛え上げられた高密度のマナは、イリスの肉体を、世界のあらゆる物理法則から完全に断ち切っていた。
背後から、脇から、霧のどこかから矢が飛んできた。弦を引き絞る音が絶え間なく聞こえてくる。
鉄鏃 を付けた矢が空気を切り裂き、イリスへと向かっていく。
矢尻がイリスに届く寸前、灰色の鉄鏃を付けた矢は、鎧の表面から伸びるマナに触れた。鏃は平たく潰れ、矢柄 は折れた。数十本の矢が飛んできたが、イリスのサーコートの裾一つ掠めることすらできなかった。
空気を切り裂く鋭い音とともに、斧が飛んできた。
重みと回転を乗せた斧の刃が、イリスめがけて飛び込んできた。マナ・ブルワークに叩きつけられた瞬間、刃がまず砕け、続いて柄までも真っ二つに折れ、鉄と木の破片が四方へと飛び散った。
イリスは止まることなく前へと進んだ。四方を満たすオークたちの悲鳴の中、イナルディルの刃は押し寄せるオークたちの肉を切り裂き、銀青色の残光を残していく。
四肢が斬り飛ばされ、黒い血が霧の中へと飛び散る戦場の只中で、振り下ろした刃がオークの肩を裂いたその直後、イリスは身を翻し、大きく薙ぎ払った。押し寄せていたオークたちの首が次々と刎ねられていく。短い一呼吸の間に幾十もの斬撃が途切れることなく続く、止まることのない足取りの中で、イリスの頭の中にぼんやりと残っていた記憶の残像が、次第に鮮明になっていった。
グラベルが見せてくれた、あの圧倒的なマナ。肌に食い込んでくるようなあの重圧が、ありありと蘇ってくる。それすらも彼の全力ではなかったことを、イリスは知っていた。底の知れないあの深淵の深さに、背筋が冷えたことを覚えている。
敵として相まみえた強者たちがいた。恐ろしいと感じた敵もいた。この世界へ来る前に出会ったすべてを、たとえ一堂に集めたとしても、グラベルには及ばないだろう。
だが、それは嬉しいことだった。
格の違う存在。自分が仕える主君が、そのような領域にいる存在であるという事実に、誇らしさが込み上げた。
ただ強いというだけではなかった。イリスが知る強さの物差しが通用しない領域にいる者。そんなグラベルを主君として仰いでいるという事実が、たまらなく嬉しかった。
そのグラベルが、自分にダムの西の城壁を任せてくれた。
イリスは、グラベルがサアルンの森へと消えていく後ろ姿を見つめながら、胸の奥で不快な疑問が一度だけ頭をもたげるのを感じていた。
私の主君の格の前で、私はふさわしい存在なのだろうか。
疑問だった。自分自身への問いだった。
イリスは頭をもたげたその疑問を、しばし見下ろした。そして、躊躇いなくその疑問の首を斬り落とした。
資格を問う時間などなかった。主君の命があった。グラベルが森へと向かう間、西の城壁を守るのはイリスの役目だった。それだけだった。自らの至らなさへの不快感も、格の差から来る無力感も、今この瞬間だけは、イナルディルに乗せて振り払おうとした。
疑問を斬り捨てる方法は、一つしかなかった。
主君の命を完遂すること。
『私は我が主君の剣!』
そしてイリスは悟った。今この戦場で、幾万ものオークとミノタウルたちが、イリスの剣の前に倒れていっている。それは当然のことだった。主君の剣として、これくらいは当然のことだ。
イリスがイナルディルをより強く握りしめた。
走った。斬った。さらに走った。
数百のオークがイリスを取り囲んだ。
霧の中から、オークの姿があちこちに浮かび上がった。左、右、正面、そして背後。足音が重なり、怒号が重なり、武器を振るう音が入り乱れる。霧の向こうから、オークたちが絶え間なく押し寄せ、イリスへと迫ってきていた。
イリスが、ふと動きを止めた。
イリスはイナルディルを、体の脇に斜めに固定された鞘へと収めた。そして顔を上げたイリスの冷たい瞳が、目の前のミノタウルたちと、その背後のオークの群れを見据えた。
イリスはその場に立ったまま、鞘に納めたイナルディルを体の脇に低く構えた。
右足が泥の中へと深く沈み込み、しっかりと据えられた。
柄を握る手が、腰の脇で一呼吸の間、静止した。
そして、巨大な回転が始まった。
「ヴロートスネーダー!(Vloedsnede!)」
イリスは体を軸に、鞘から抜き放ったイナルディルを大きく水平に振り抜いた。剣身を巻いていたマナが、爆発的な轟音とともに解き放たれる。
マナの刃が描く軌跡は鋭い暴風と化し、泥の地面を無残に抉りながら前へと進み始めた。
回転するマナの力を凝縮した銀青色のソード・シングが幾重にも層をなし、四方へと広がっていく。刃の軌跡に沿って研ぎ澄まされた剣の波が放射状に押し寄せ、泥の地面ごと抉り取っていった。
実体を成したマナの刃が、ぬかるんだ地面を水平に、低く掠め抜けていった。広がっていく鋭いヴロートスネーダーの刃に沿って血だまりが割れ、砕けた土塊と黒い血が四方へと激しく弾け飛び、地面がえぐられていく。
襲いくる青い刃に触れたオークとミノタウルたちが倒れていった。分厚い盾を掲げていたオークたちは、頑丈な木の盾もろとも腕を斬り落とされ、突撃してきたオークたちは武器を振り下ろす間もなく胴を真っ二つにされた。青い刃の軌跡が通り過ぎた場所にあった重い鉄鎧は砕け散り、骨と肉が無慈悲に押し潰されていった。
イリスのソード・シング、ヴロートスネーダーが吹き荒れて生み出した破壊的な気流が、辺りを覆っていた重い霧を瞬く間に吹き飛ばした。
霧が晴れた。
イリスを中心に、数十キュビットの空間が円形に開けていた。
立っているのはイリスただ一人だった。その円の縁に沿って、首を斬られ、体を裂かれたオークとミノタウルたちが折り重なるように倒れていた。
霧の晴れた空き地の中心で、イリスがゆっくりと剣先を下げた。視線はすでに足元の死体の山を越え、遠く異様な骨組みを晒す巨大な投石機へと向けられていた。
まだ距離が足りない。先ほどの斬撃をもってしても届かない距離だ。
イリスの唇の間から、冷たい息が漏れた。
『……もう少し近づかなければ。』
イリスは再び駆け出し、オークとミノタウルを斬り伏せながら前へと進んでいった。
そして、血なまぐさい空き地の向こうで、鈍い傷跡だらけの分厚い板金の胸甲をまとったオークが一体、幅広で無骨な鋳鉄 の斧を振り上げ、咆哮 するのが見えた。喉を掻きむしるような異様なオーク語の響きが、辺りへと広がっていく。
その声が他のオークたちに届くと、散り散りになりかけていたオークたちの動きが止まった。
敵はたった一人だった。鎧を纏い、剣を一振り携えているだけの、たった一人の敵。
斬られ、斬られ、また斬られた。積み上がっていく死体をその目で見ながらも、体は前へ進むことを拒んでいた。指揮官の咆哮を聞いてようやく、強張っていた足が渋々と踏み出された。
散らばっていたオークたちが、方向を変えた。イリスの前に立ちはだかる、盾を構えたオークたちが、鉄がぶつかり合う荒々しい音とともに、重い足取りで迫ってきていた。
重装のオークたちが盾を突き合わせた。
隊列が組み合わさった。鉄の盾と鉄の盾が隙間なく連なり、壁を成す。盾と盾の間に隙間はなかった。盾の隙間から槍の穂先が突き出ている。盾の後ろで、オークたちが一歩ずつ足を踏み出していった。
数十の盾が組み合わさった壁が、イリスの前に立ちはだかった。
イリスは速度を緩めなかった。
右肩を盾の壁へ、真っ向からぶち当てた。
衝突が起きた。
――ガガァンッ!――
金属がぶつかり合う音が入り乱れて響いた。
最前列で盾を構えていたオークたちの足が、地面から浮いた。
盾を握ったまま、体が後ろへ弾き飛ばされる。そのまま後ろに立っていたオークたちの胸や肩へと叩きつけられた。
ぶつかられたオークたちが均衡を崩し、倒れ込んだ。
倒れたオークの上に、前列のオークたちが次々と重なって倒れていく。盾と体が絡み合ったまま、盾の壁は崩れ落ちていった。
イリスの左手が上がった。
指がゆっくりと閉じていく。掌の上のマナが一点へと引き寄せられ、凝縮していった。凝縮するほどに小さくなり、小さくなるほどに明るく輝きを増していく。指の隙間から銀青色の眩い光が漏れ出した。掌の中で今にも手を突き破って弾け出そうとするかのように、マナの光が震えていた。
そしてイリスの掌が開かれた瞬間、ドンッ――という轟音が弾けた。
空間が歪むように押し出され、その歪みがそのまま力を帯びた波紋となって四方へと広がっていった。
見えない壁が四方へと押し広がるように、泥と石塊が跳ね上がった。倒れていたオークたちが土塊とともに宙へ浮き上がり、まだ立っていたオークたちさえも、足元が消え失せたかのように空中へと舞い上げられた。
イリスがイナルディルを構えた。
足で地を蹴った。足元が爆ぜるように抉れ、イリスの体が垂直に舞い上がった。
宙に浮いたオークたちの間を、イナルディルが貫いた。一度、体を捻る。二度、方向を変える。三度。
刃が掠めるたびにオークたちの体は裂け、落下していくオークたちは地に触れるより先に四肢が解体され、鎧の破片と絡み合った肉片が雨のように降り注いだ。
降り注ぐオークたちの赤い肉片を浴びながら、ミノタウルたちがイリスへと押し寄せてきた。
イリスの足が地に着いた。そのままミノタウルたちへと駆けながら、イナルディルを水平に薙いだ。
最初のミノタウルの首が斬られた。巨躯 の頭が宙へと跳ね飛んだ。剣が届くはずのないかなりの距離であったにもかかわらず、斬り落とされて地に落ちた頭を、他のミノタウルたちが怯んだ足取りとともに、うつむいて見つめた。
イリスは止まらなかった。二体目、三体目、四体目。イナルディルがミノタウルたちの間を横切るたびに、首が刎ねられていった。斬られたミノタウルたちの頭が地に落ち、転がりながら互いにぶつかり合った。
イリスはその只中を通り抜けていった。辺りは、くすんだ鉄の色と血の赤に覆われていた。オークの灰色の肌、錆びついた鉄、霧に濁った空気、そして足首まで満ちた血の海。その中で、イリスの銀白の鎧だけが鮮やかに浮かび上がっていた。
戦場のどこかで生き残ったオークが一体、手にした斧を見下ろした。数百の同胞が、たった一人の騎士に斬られていく。斧を振り上げようとして、手が止まった。目の前で斬られ、踏みつけられ、裂かれ、倒れていくのが自分たちなのだという事実が、両の目で見ていながらも、現実として受け入れられなかった。
手から斧が滑り落ちた。
ズウン……
遥か遠くから、低く重い振動が足の裏を伝って上がってきた。
イリスの目が投石機の方へと向いた。
発射腕が持ち上がっていく。鎖がぴんと張り詰め、発射腕の先の籠に積まれた巨大な岩塊が、空へと打ち上げられた。
巨大な岩の塊が、ダムの城壁めがけて放たれた。
『遅すぎたのか!』
イリスの足が、さらに強く地を蹴った。
遅かった。岩の塊はすでに宙にあった。どこかで轟音が聞こえた。
イナルディルを握り直したイリスの手に力がこもった。躊躇っている暇はなかった。二度目の発射は、何としても止めなければならない。
イリスは投石機めがけて駆け出した。
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