221話 ダム攻防戦 (26)
少し時間を巻き戻す必要がある。
時間は、イリスがダムの西の城壁の上から飛び降り、ワイバーンの騎手に向かって『ズワッド・ブルーム』を放つ前まで遡る。
ダム、ベナールの屋敷がある通りだった。
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グラベルが展開したゲートが閉じた。裂け目がすぼまりながら、その中の色彩が互いを押しのけるように広がっては散り、魔法陣の最後の光が石畳の隙間へと染み込んで消えていった。
グラベル、イリス、ニアが辿り着いた場所は、ベナールの屋敷の中庭だった。
ベナールはダムで最大の商団を持つ豪商 だった。その屋敷は名にふさわしく、ダムの中で三つの路地を通り過ぎてもなお塀が途切れないほど広大だった。
固く踏み固められた土の中庭を中心に、広い屋敷の敷地には二階建ての高さの倉庫と、いくつもの小さな建物が並び、それらの外壁沿いには木の柱が支える長い木造の回廊 が連なっていた。
その中庭のあちこちで、声が絶え間なく響いていた。
「急げ!」
「それはこっちに運べ!」
怒鳴り声が絶え間なく続き、荷物を運ぶ足音が石畳を忙しく叩いていた。木箱が下ろされるたびに鈍い音が響き、引きずられる荷物が床を擦る音が続いた。扉が開いては閉まる音も聞こえてきた。
回廊の欄干 に両手をついたダウィが一人、下に向かって声を張り上げていた。長く伸びた灰色の毛並みのダウィだった。
「燻製 倉庫を全部開けろ!残った鮭を全部出せ!そこのお前、空の樽なんか持って何してる、地下の貯蔵庫へ行けと言わなかったか?」
使用人が二人、大きな籠 を抱えてその下を小走りに通り過ぎていった。
ダウィたちが運ぶ籠の上には、燻製の鮭がぎっしりと積み重ねられていた。長く干されて水分が抜けた身は固く締まり、表面は濃く燻された色をしていた。繊維に沿って細かく走った裂け目からは脂が滲み 出し、光を受けると鈍く光った。
その後ろでは、かなり年老いて見えるダウィが豚を一頭、無理やり引きずりながら倉庫の方へと向かっていた。豚が抵抗すると、ダウィは豚の首に結ばれた縄をさらに強く引っ張った。
中庭の一角には大きな鍋がいくつも並んで掛けられていた。鍋の下には薪 が丸く組まれて火が焚かれ、鍋の中では煮え立ったスープが塊ごと沸き上がっては縁から溢れていた。
ムワの使用人が一人、具現化させた手で長い木べらを操り、鍋の中をかき混ぜていた。その傍らではダウィが人参と蕪 を粗く切っては鍋の中へ放り込んでいた。切り落とされた皮の欠片が石畳の上に散らばっていた。シチューの匂いが中庭全体に広がっていた。
庭の反対側には荷車が二台並んで停まっていた。ダウィたちがムールムックの引く荷車の荷台に、木樽に詰めた矢束を積み込んでいた。短い矢も長い矢も、形の違う鉄鏃 の付いたものまで区別なく一つの樽に混ざっていた。
荷車の片側には布でくるんで束ねた、弦 の外れた弓が置かれ、その隣には投げ槍の束が立てかけられていた。荷が積み終わった荷車の前に繋がれたムールムックの尻を、ダウィが手のひらでぴしゃりと叩いた。ムールムックが前へと歩き出した。荷車は中庭を抜け、城壁へと続く通りへ向かっていった。
本館の回廊の下には住民たちが列を成していた。老人や子供たち、支えられてようやく足を運ぶダウィやムワたち。使用人が一人、前に立つ住民たちを中へと案内していた。屋敷の倉庫や建物が避難所として開放されているのだった。
グラベルが足を踏み出し、ベナールの屋敷の中庭を後にした。イリスとニアがその後に続いた。
*****
ダムの西の城壁へと向かう通り。かすかな太鼓の音が遠くから響いていた。一定の間隔ではなかった。切迫し、不規則に聞こえてきた。
西の城壁からバリスタの太く重い発射音が聞こえてきた。
空を見上げれば、濃い煙が何本も西の方角から長く立ち上っていた。通りにはいつもと違い、ダウィもムワも見当たらなかった。扉は閉ざされ、窓は内側から塞がれていた。足音を立てているのは三人だけだった。
「ダレン——!!ダレェェン——!!どこ行くのかるー!!」
ニアの声が通り全体を切り裂くように響き渡った。
路地の角を曲がって現れる一行がいた。ダウィが一人、短い外套 を羽織って足早に歩いており、その肩の上にはムワが一羽乗っていた。ダウィの広い肩が揺れるたびに、ムワは両翼で兜 を押さえてバランスを取っていた。
「あれ?マウじゃないだる……ボウマだる。」
肩の上のムワが、ニアの声のした方へと体を向けた。丸く大きな目が、近づいてくる三人を見下ろした。
ダレンだった。ボウマが肩の上から飛び降り、ニアの元へと飛んできた。
「ニア!ナウルの神殿へ行かれるのではなかったのですか?」
「そうだる。今戻ってきただる。」
ニアが足早に歩み寄り、二人の距離を縮めた。ダレンは喜ぶ間もなく、慌ただしく一行に言葉を続けた。
西の城壁の外にオークとミノタウルの大軍が来ているという。
数万だという。城壁の前、サアルンの森の境界には、果てが見えないほどの数のオークとミノタウルが、そして空を飛ぶ小さな竜に乗った騎手までいると、ダレンは言った。
すでに西の城壁にはオークの攻城塔 が取り付き、激しい戦闘が繰り広げられているという。
マウは兄のバークと共に、すでに北の城壁へ向かったという。ダレンとボウマは、ダムの防衛に力を貸そうという志願者たちが集まる南の城壁へと向かっている途中だった。
ダレンの言葉が終わる前から、グラベルは伏し目がちに目を閉じていた。
ダムの地に足を踏み入れた瞬間から、彼は全身から薄く、広範囲にマナを伸ばし、ダム全体を覆っていた。広がった感覚の網は城壁に触れ、城壁の向こうの森にまで及んでいた。
西では無数のダウィとムワ、そしてオークとミノタウル、正体の特定できない存在までもが、城壁の上と下に分かれていた。戦闘の最中だった。城壁の上で持ちこたえるダウィたち、城壁に掛けられた梯子 を登るオークたち、倒れゆくダウィたちの上に飛びかかるミノタウル。グラベルの感覚の中で、ダム西の城壁一帯全体が一つの戦場となっていた。
そして、サアルンの森の奥深く。
オークでもミノタウルでもない存在が、グラベルのマナ・エクスパンションに捉えられた。城壁の近くと西の城壁の外、オークとミノタウルたちの間に点在するように散らばった、少数の存在たちだった。そして、サアルンの森の一箇所に集まっているものたちもまた、同じ特徴のマナを帯びていた。
異世界に来てから数多くの種族と、それぞれ異なる特徴のマナに触れてきたが、サアルンの森の奥深くに集まっている存在たちのように異質なマナは初めてだった。
グラベルの目が再び開いた。
「ニア。」
「ん?カルカ?」
「ダレンと一緒に南の城壁へ行ってくれる?」
ニアがしばらくグラベルの目を覗き込んだ。理由は聞かなかった。短く頷いた。
「分かっただる。私が行くだる。」
ダレンが肩の上のボウマに何かを短く囁いた。ボウマが頷いた。ニアがボウマの傍らに寄り添い、三人は足早に南の城壁へと消えていった。
イリスがグラベルの傍らに立った。
「西の城壁はイリスに頼むよ。」
「分かりました。」
イリスが答え、しばらくしてから、おずおずと尋ねた。
「ですが、グラベル様は……」
グラベルは視線を西、城壁の向こうのサアルンの森の方角へと向けていた。
「遠く、森の奥に、確かめなきゃいけないものがあるんだ。城壁側のオークたちに紛れていた、異質なマナを持った……種族って言えばいいのかな。それがあの場所に集まってる。」
グラベルの視線は西の城壁の上の空を見つめていた。
「一つ確かなのは、あいつら一人一人が、オークやミノタウルなんかとは比べ物にならないくらい強いってことだ。」
「そこへ……お一人で行かれるということですか?」
「うん。」
「……今、ダムの城壁の外は数万の軍勢に包囲された状態です。その軍勢の背後にいるかもしれない存在たちが集まっているサアルンの森へ、お一人で入られるのは……」
「分かってる。心配しなくていいよ。」
「グラベル様。」
イリスの声が一段低くなった。命令ではなかった。強制できないと分かっていながらも、口をついて出る声だった。騎士としての義務が、そのまま言葉になって溢れ出していた。
「あの森の中にいるものたちは、今のこの戦争と無関係なものではありません。何があろうと、グラベル様お一人であの森へ入られることに、私は同意できません。西の城壁は他の方法を——」
「イリス。」
グラベルがイリスの方へと体を向けた。
笑っていた。作り笑いではなかった。軽く、短い笑みだった。
「ちょっと見せてあげるよ。」
グラベルがイリスに手招きし、通りを離れて静かな路地の奥へと入っていった。戦争のさなかにある街の裏路地だった。城壁から響く音は絶えず聞こえていたが、行き交う者の姿はなかった。倉庫の建物が二棟向かい合っており、その間には広く空いた空間があった。
グラベルがその真ん中に立った。
イリスは口をつぐんだ。
最初は何の変化もなかった。グラベルの足元の石畳の上を、小さな埃が一つ横へ転がっていっただけだった。
その次の瞬間、イリスが感じた感覚。周囲の世界が歪む 、よく「空気が変わった」と表現されるものと同じ感覚だった。
イリスは鎧の中で、グラベルから放たれる圧倒的なマナの解放を先に感じ取った。全身の感覚が悲鳴を上げていた。
グラベルの体の内側から、マナが発散され始めた。
グラベルの体の中で、猛烈に回転するマナの脈が互いを繋ぎながら渦を巻いていた。最初は目でその現象を見ているだけだったが、いつしかイリスの感覚全体がそれを認識するようになっていた。
イリスは悟った。このマナには殺意がない。特別な標的もない。ただ単純なマナの放出に過ぎなかった。
「……あ。」
イリスはそんなグラベルの意図を理解していた。だが体は、目の前の雷を孕んだ 巨大な嵐のようなマナに反応していた。剣に添えた手に力が入った。
本能が頭の中を掻き乱し 、叫びながら強烈な警告を発していた。
これは自分が立ち向かえる領域ではない。
グラベルの体から発散されるマナは止まらなかった。
石畳の埃が、グラベルを中心に外側へと押し流され始めた。
続いて石畳がマナの圧力に耐えきれず粉となって蒸発し、倉庫の壁に掛けられた縄と革袋は形もなく分解され、虚空 へと散っていった。
マナの流れをはっきりと見るために意識を集中させたイリスの目に映ったのは、巨大なマナの嵐だった。顎が天を向くほど頭を上げて見上げても、その果てが見えないほど、途方もないマナの発散だった。
剣の柄 を握るイリスの手が震えた。足が半歩、後ろへと下がった。意識が命じたことではなかった。足が先に退いていた。
ガタガタという音が、路地のあちこちで乱れて響いていた。
そしてその音と共に、グラベルが生み出したマナの嵐によって発生したマナの奔流 が、外へと押し寄せた。
イリスの兜の正面に衝撃が伝わるほど、強烈なマナが押し寄せてきた。
サーコートの裾が後ろへ強く煽られた 。イリスが片足を後ろに踏ん張っていなければ、体そのものが押し流されていただろう。
底すら見えない深淵 の重みが、グラベルの体を伝って溢れ出していた。極限まで鍛え抜かれ、塵 一つ混じらないマナの奔流。イリスはそれが自分を呑み込んで でいく感覚の中で悟った。それが単なる魔力の流れなどではなく、幾万回も精錬され完成されたマナなのだということを。
今グラベルが見せているものは、自らの内に蓄えた海にほんの一瞬手を浸し、指先から弾き飛ばした数滴の水に過ぎないという事実を、そしてその底なしの淵の果てには、今の自分の目では到底届かないだろうということを、イリスは本能的に直感していた。
マナだった。それは間違いなくマナだった。だが、イリスがマナだと知っていたものとは、格そのものが違っていた。
イリスの頭の中で、一つの事実が鮮明になった。
今グラベルが見せているものが彼の全てではないということを、イリスは理解した。あのマナの格が、どれほど高い場所で、どれほど深い場所で終わるのか、イリスには測ることすらできなかった。
イリスがこれまで生きてきた中で強いと信じていたもの、恐れていたもの、異世界に来る前の世界で出会ってきたそのすべてが、たとえこの場に全て揃って立っていたとしても、今この路地に立つあの一人には到底及ばないだろう。
イリスは自分がどのような者を主君として仰いでいるのか、その日初めて、その全貌 の一端を目にした。
グラベルが笑ったままイリスを見つめた。
「分かった?だから心配しなくていいよ、イリス。」
短く、淡々とした言葉だった。朝早くの通りで出会った人に挨拶を交わすかのような、静かな口調だった。
グラベルのマナが、ゆっくりと収まっていった。
息を何度か止めては吐き出した、ほんの短い時間だった。だが、圧倒的なマナの氾濫の中に身を置いていたイリスには、まるで数時間もの時が流れたかのような、奇妙な乖離感 が生じていた。
グラベルが体の向きを変えた。
「また会おう。」
イリスはその場に立ち尽くしたまま、グラベルが路地の向こうへと消えていくのを見送った。
圧倒的なマナの感覚をどう文字に乗せるか、とても悩みながら書きました。その熱量が伝わっていれば嬉しいです




