220話 ダム攻防戦 (25)
「お困りのようでしたので。」
バイザーが上がった。金属が噛み合いながら押し上げられる、短く乾いた音がした。面甲 が上へ跳ね上がり、その内側が露わになった。
ガルドンの目が、近づいてきた女騎士の姿を捉えた。
露わになった顔は、白く滑らかな肌をしていた。長く濃い睫毛 の下から、瞳がガルドンを真っ直ぐに見据えていた。
感情の読み取れない目だった。
ガルドンは斧を握る手の力を、一瞬緩めた。そして知らず知らずのうちに、近づいてきた女騎士を頭から改めて見回した。
銀白色の鎧だった。柔らかな曲線を描くように流れ、無駄な角ひとつなく体に沿った形をなしていた。着る者の体型そのままに誂 えられたものであることは明らかだった。金属でありながら、その輪郭は柔らかだった。
兜は顔全体を覆い、後頭部から首の後ろまで隙間なく繋がっていた。先ほどまで下りていた面甲には、目のある位置に横長の細い隙間があるだけだった。兜の後ろからは、黒く長い髪が流れ落ちていた。
首の周りには輪状のゴルジェが巻かれ、肩当ての正面の縁に沿って鷲の翼を象った浮彫りが浮かび上がっていた。その中央には、円形の盾の紋章が刻み込まれていた。
固く噛み合った胸甲 は、前面全体を厚い金属板が覆っており、その表面には極めて細い線で刻まれた文様が胸甲一面を埋め尽くしていた。距離があって文様の一つ一つを読み取ることは難しかったが、それが単なる装飾ではなく、何かの記録であることだけは分かった。
腕を覆う腕甲 は胸甲と同じ銀白色で、手を包むガントレットの内側には黒い手袋が重ねられていた。
腰を巻く幅広の厚い革帯には、精巧な文様が刻まれた円形のバックルが付いていた。
鎧の下には濃い群青色のサーコート(Surcoat)が膝下まで垂れていた。サーコートの縁には金色の細い縁取りが施され、中央には縦方向に規則的な線文様が入っていた。
膝下には脛 当てが続き、爪先まで覆うソルレットも履かれていた。
ガルドンが短く息を吐きながら言った。
「かたじけない。して、そなたは――」
「イリスです。」
ガルドンの言葉が終わらぬうちに、イリスの声がそれを遮った。
「長話は、あの投石機を片付けてからにいたします。」
イリスの目は既にガルドンから離れ、堀の向こうへと向けられていた。
霧の向こう遠くで、巨大な投石機が発射の準備を終えようとしていた。発射腕の先に付いた鎖がぴんと張り詰めながら錘 が下がり、巨大な石塊を積んだ籠 がゆっくりと地面近くまで引き下ろされていた。
その上ではオークたちが忙しく動き回り、縄を引き、重りを固定していた。
イリスが堀に架かる橋の上へと足を踏み出した。
ガルドンが横へと身を引いた。
イリスが駆けた。橋の上の折れた板を踏みしめる足音が短く響き、橋の向こう側からオークが一体駆けてきた。
イリスに向かって身を低く沈めながら、斧を肩の上に振りかざした。
駆けてくるオークの足が、わずかに遅れた。
自分でも意識していないことだった。斧を振り上げながらイリスへと突進していたそのオークは、自分の体がなぜ一瞬たじろいだのか、自分でも分からなかった。
ただ、イリスの目が自分へと向いた瞬間、首の後ろのどこかで何かが締め上げられるような感覚があっただけだった。
それが何なのか、考える暇はなかった。
ただ体が、頭よりも先に、目の前に立つものが何であるかを悟っていた。
後ろに立っていたオークの一体が、別のオークの背を押した。
オークの荒々しい罵声が飛んだが、その背を押したオーク自身もまた、自分の足が地を正しく踏み込めていないことに気づいていなかった。
手のひらに汗が滲んだ。斧の柄が滑った。
奇妙なことだった。
オークは恐怖に慣れた種族ではなかった。戦場で他のオークが倒れるのを目にしても、自分の肉が裂かれ血が流れても、足が止まることなどなかった。
しかし、イリスの剣が傍らを通り過ぎる瞬間――
オークの体は、イリスの視線が自分をかすめて過ぎるその刹那、反射的に後ろへと足を引いていた。
それでいて、その事実に気づいてすらいなかった。
血が飛び散った。オークたちが倒れた。肉と金属が地に触れる音が続いた。
駆けていたオークのうち何匹かが、手で額を拭った。汗だった。熱気のせいではなかった。霧の中の空気は、依然として冷たかった。
手が震えていることに気づいた瞬間、オークたちはさらに大きく声を張り上げた。
イリスの右手に握られた剣が、水平にオークを薙いだ。
斧を持った腕が、腰と共に横へ飛んだ。橋の上に並んでいたオーク三体が同時に倒れた。
切断された上半身が後ろへ仰け反りながら崩れ落ち、下半身が遅れてその場に頽 れた。
イリスが歩みを進め、堀の向こうの地を踏んだ。
「退け、オーク。」
イリスの声が短く響いた。
その瞬間だった。
言葉がまだ空気中に広がりきらぬうちに、イリスの体から爆発的な魔力が噴き出した。
イリスを中心に空気が歪んだ。熱気に炙られたかのように、周囲の空間が波打つように揺らいだ。
形をなした揺らめく魔力の気流が、幾重にも渦を巻いた。
駆けてきていたオークたちの体が、イリスの魔力にぶつかった。
壁に阻まれたのではなかった。鎖が首に絡みついたのでもなかった。
周囲の空間を満たしながら広がり、触れる者の心臓と首筋を握り締める殺意だった。
駆けていたオークたちの足が、それ以上前へ進まなくなった。先頭に立っていたオークたちが前のめりに倒れ込み、転がった。後ろから押し寄せていたオークたちは止まりきれず、倒れたオークたちの上に折り重なった。
イリスの足元の地面が窪みながら、外へと広がっていった。
ガルドンは後ろでイリスを見つめていた。足元が鳴り響き、イリスから放たれた形をなす魔力が、目の前で揺らめいていた。
イリスがオークに投げかけた短い一言。そして、イナルディルの刃がオークへと向かって動いた。
イリスが剣を振るったのは、その言葉が終わるよりも先だった。
『ソード・シング(Sword Sing)』
刃に纏わせた魔力を、振るう勢いのままに押し出す――スチール・パスを極めた騎士たちの剣術。剣身 を包む魔力を放出し、飛ばして放つソード・シング。
シュイイイン――
鋭い音とともに、剣から放たれたソード・シングの刃が半円を描きながら伸び、オークたちを薙ぎ払った。
オークたちは自分へと飛んでくる光の刃を目にした瞬間、駆け出す足が一瞬止まったが、その時にはもう、イリスのソード・シングはオークたちの胴を裂いて通り過ぎていた。
苦痛の悲鳴を上げようと口を開くよりも先に、体が反応して手にした武器を掲げ防ごうとするよりも先に――
ソード・シングの刃は、既に消え去った後だった。
ソード・シングの刃は最初に触れたオークを裂き、その後ろにいた別のオークを裂き、さらにその後ろにいたミノタウルまでも裂きながら進んだ。
オークの盾が真っ二つに割れた。
盾の向こうにいたオークの胸甲が砕けた。
伸びていったソード・シングの刃は、後ろに立つオークたちを貫いてなお止まらなかった。ただ、幾重もの肉と鉄を裂きながら進んだ末、最も遠くにいたオークへと届く頃には、その鋭さが少しずつ薄れていた。
最前列から順に、ソード・シングの刃が通り過ぎた場所に立っていたオークたちの上体が、滑り落ちていった。切断面があまりに綺麗で、最初は倒れることもなく、しばしの間、何体かのオークの胴体はその場に留まっていた。
そのオークたちのうち、何匹かは生きていた。
鎧の下の肉が裂けた。脇腹が開いた。だが、前に立っていた他のオークたちとは違い、体は真っ二つにはなっていなかった。
反射的に身を低くしたオークたちも生き残った。刃が虚空 を裂くその刹那、頭よりも先に体が反応し、地に伏せたオークたち。遅れて叫びながら駆けてきていたオークたち。
その場で立ち上がったオークの何匹かが、倒れた死体を踏み越えてイリスへと突進した。
イリスが剣を収めぬまま、身を翻した。
正面からオークの斧が、イリスへと振り下ろされた。
イリスは避けなかった。左腕を上げ、斧の刃を腕甲で軽く受け止めた。金属がぶつかる音が短く響いた。
手首をひねって斧の刃の向きを受け流すと同時に、右手の剣が逆方向へと跳ね上がった。顎から兜まで斬り上げ、オークの頭が刃に沿って裂けた。
左からまた別のオークが襲いかかった。イリスよりも遥かに大きく、体躯が倍はある巨躯 のオークだった。
両手で握った棍棒 が、イリスの左脇腹へと飛んできた。
イリスが一歩、内側へと踏み込んだ。
棍棒が通る軌道の内側へ。オークの肘のすぐ傍まで入り込んだイリスの左肘が、オークの腹に突き刺さった。
オークが前へ折れ曲がった瞬間、イリスの剣がオークの背を貫いた。
剣に貫かれたオークの体が持ち上げられ、横へと投げ捨てられた。イリスは歩みを止めなかった。
苦痛に絞り出された声が周囲から聞こえ、切り裂かれた体から血が溢れ出た。
血と切断された胴体が地に落ちる音が続いた。切り裂かれた肉片が地に落ちる音が、絶え間なく聞こえてきた。
橋の向こうに立つガルドンが、その光景を見ていた。手が知らず知らずのうちに、斧の柄を強く握り締めていた。
目の前で起きていることが何であるのか、認識するまでにさらに少しの時間がかかった。
軽く振るった一太刀が、目の前のオーク数十体を薙ぎ倒していた。
オークたちの体が強張った。
駆けてきていたオークたちの足が止まった。後ろから押し寄せていたオークたちが、前で立ち止まったオークたちとぶつかり合い、乱れた。血の匂いが霧の中へと広がった。
生き残ったオークたちが、足元に積み重なった死体を見下ろした。
騎士が一人、立っていた。下ろされた面甲、目のあるべき場所には横に走る細い隙間があるだけだった。その奥は闇だった。生きているものの瞳も、息をするものの表情も、そこには見えなかった。
兜の奥に何も見えないという事実よりも、その騎士から放たれる剣呑 な気配のほうが、オークたちの体をより深く締め上げた。
オークたちが本能的に知る殺気とは異なる静けさだった。怒りもなく、敵意もなかった。だが、ただ目の前に立つ騎士の間合いの内に立っているという事実ひとつが――生きるものの体に刻まれた、ひどく古い何かを刺激していた。
捕食者を前にした獣が感じるもの。戦って勝てないという判断ではなかった。判断すらつかない内に、震える腕と脚が無数の信号を送ってきて、ようやく分かることだった。
あれは、自分を殺す。
あれは、俺たちを殺す。あれは、俺たちを殺す。あれは、俺たちを殺す。あれは、俺たちを殺す。
「OKKA――!! OKKA-ULLA!!」
兜も被らない剥き出しの頭で、斧を両手で高く振り上げたオークが咆哮 した。首の血管が浮き上がり、その雄叫びが霧の中へと響き渡った。同じ雄叫びが後ろから続き、さらに続いた。
びちゃびちゃと血溜まりを踏みしめながら、数百のオークが一斉にイリスへと襲いかかった。
イリスの剣が再び動いた。左へ、イナルディルの刃を一度水平に薙ぐと、駆けてきていた先頭の列全体が腰から切り離され、崩れ落ちた。
倒れゆくものたちの上に、後ろから来たオークたちが折り重なるように倒れ込み、その上をイリスが踏みしめながら前へと進んだ。剣が斜めに振り下ろされるたび、駆けてきていたオークたちが一斉に斬り裂かれた。
ミノタウルが一体、イリスの前に立った。
巨躯が両腕を広げ、正面を塞いだ。手には重々しい鉄槌 が握られていた。
ミノタウルが槌を振り上げたが、イリスは既にその上へと跳び上がっていた。空中で振り下ろされた剣が、ミノタウルの左肩から反対側の腰までを貫いた。
イリスが着地しながら、駆け出した。
剣撃の通り過ぎた跡ごとに、道が開けていった。
オークたちは逃げなかった。
数十が倒れた。数百が目の前で斬り伏せられた。襲いかかったミノタウルたちが倒れた。
それでも、オークたちの足は後ろを向かなかった。
理由は単純ではなかった。
たかが騎士一人だった。鉄鎧を纏った、たった一人の騎士だった。
オークたちは逃げなかった。逃げられなかった。数百の同族が見ている前で背を見せることは、オークの言葉には存在しない選択肢だった。戦場で退くオークはいなかった。倒れるオークはいても、逃げるオークはいなかった。背を見せた瞬間、たとえ生きて帰ろうとも、それは既に死んだも同然だった。
だからオークたちは前を向いた。数十が斬られた。数百が倒れた。それでも、後ろから来るオークたちの足は止まらなかった。倒れた死体を踏み、血溜まりを割りながら、前へと進んだ。
イリスは駆けた。
イナルディルの刃が、押し寄せるオークたちを斬り払いながら道を切り開いた。その道を辿り、イリスは城壁の外の巨大な投石機へと進んでいった。
いよいよ戦場へと降り立ったイリスの圧倒的な武威




