216話 ダム攻防戦 (21)
モスロウのキナたちが堀に向かって最初の一歩を踏み出した瞬間、空から羽音が聞こえてきた。
空気を切り裂きながら擦れ合い、重なり合う音――
チャラッ、チャラチャラッ。
細く薄い金属片同士が触れ合い、揺れる音だった。
風に揺れる風鈴のように澄んでいながらも、その奥には刃のように鋭い摩擦音が混じっていた。
空中に響く、小さな金属片たちの合唱。
ようやくそれが、ムワの羽刃――金属でできた刃の翼が擦れ合う音だと分かった。
ヤクラ翼兵 たちだった。
モスロウ一族の翼兵たちが隊列を組み、サルマのキナへと降りてきていた。
赤いマントに刻まれた太陽の紋章が、堀の上で燃え上がる炎の光を受けて鮮やかに閃いた。
翼兵たちの先頭を飛ぶムワの左翼には、血のにじんだ包帯が巻かれていた。羽刃の間を無理に押さえつけて固定した包帯のせいで、包帯を巻いた翼は折り畳まれたまま先端が垂れ下がり、完全には広がりきれずにいた。羽ばたきは右に比べて明らかに短く、重かった。
それでも彼は隊列の最も前を陣取っていた。
ネルムだった。
彼はサルマのキナの前で翼を広げ、速度を落とした。高度を下げ、キナの前で止まった。赤いマントの裾が、堀から立ち上る熱気に乗って翻った。
「軍長殿」
ネルムが言った。口調は端正だった。
「またお目にかかります」
サルマのキナの上部、木の板の隙間から光が漏れていた。その中からサルマの声が聞こえた。
「ネルム」
ネルムの視線がサルマのキナへと走った。キナの胴体のあちこちに衝撃の跡があった。装甲板の一部が剥がれ落ちた箇所が見えた。右腕の関節部分にはひびが入った箇所もあった。それでもサルマのキナは足を止めなかった。前へ向かって、遅いながらも止まることのない歩みを続けていた。
サルマのキナに残る損傷は、先の遠征で繰り広げられた激しい戦闘の痕跡であり、まだ修復が終わっていないにもかかわらず、サルマのキナは再び戦場に立たされたのだった。
「軍長殿、負傷中になぜ出てこられたのですか」
ネルムが言った。問いかけではあったが、声には咎 める響きが混じっていた。
「今、この戦場に私のキナを立たせなくてはならない理由があるのだ」
サルマが言った。
「その理由とは、傷も癒えぬ体を押してまで無理をなさるほど重要なものなのですか」
「私の傷はもう十分に癒えている。心配するな、ネルム」
サルマの返答は短く、断固としていた。ネルムは口をつぐんだ。それ以上言うべき言葉がないという表情だった。
その時、サルマのキナの後方から別の声が割り込んできた。
「おーい、ネルム」
サルマのキナの後方、三番目のキナに搭乗したベジェデの声だった。キナの肩の上の操縦席から上体を乗り出し、翼を大きく振っていた。太く朗々とした声が堀の上を横切って響き渡った。
「軍長様の性分はお前の方がよっく分かってるだろうが! クハハハ!!」
ベジェデが笑いを弾けさせながら言った。彼の太く特徴的な笑い声が、戦場の喧騒 を切り裂いて響き渡った。キナの腕がベジェデの動きに合わせ、大きな軌跡を描きながら左右に振られた。
ネルムはベジェデへ一瞬視線を向けてから、再びサルマへと戻した。
サルマが再び口を開いた。
「ネルム。キナたちが先に出る。翼兵たちはキナの左右に大きく散開 してついてこい。堀に沿って、奴らを追い立てる」
「承知しました」
ネルムが即座に答えた。
「それから」
サルマの声が再び響いた。
「よく戦え」
その言葉が終わると、サルマのキナが足を速めて踏み出した。足音が重く力強くなった。後に続く九体のモスロウ一族のキナたちが一斉に歩幅を広げた。足音が重なり、城壁の下の地面全体が鳴り響いた。
ネルムが後ろを振り返った。ヤクラ翼兵たちが彼を見つめていた。赤いマントをまとった翼兵たち。彼らの目がネルムに向けられていた。
ネルムは左翼を上げて右を指し示してから、再び左へと素早く振り分けた。
そして叫んだ。
「キナが突破する!! 全員続け!! オークどもを一匹残らず殺せ!!」
ヤクラ翼兵たちが一斉に翼を広げた。無数の翼が同時に開き、金属製の羽刃が互いにずれながら広がると、翼全体に細かく砕けたような反射光が走った。
先頭に立つネルムの赤いマントは、羽ばたきの風圧で後ろに大きく煽 られたまま、空中に長く尾を引いた。
「ヤクラ!!」
翼兵たちが一斉に叫んだ。その声が重なり、堀の上に響き渡った。
「侵略者どもを狩れ!」
ヤクラ翼兵たちが一斉に地面を蹴った。金属の羽刃が噛 み合い、チャラッという音が重なって響いた。
翼兵たちの体が一斉に浮き上がった。
飛び立った翼兵たちは左右に分かれ、キナたちの上空へと素早く広がっていった。
*****
ドゥラハの傍らへ足音が近づいてきた。
重い鎧 の音が泥を踏みしめながら、幾つもの方向から急いで近づいてきていた。ドゥラハが顔を上げ、音のする方向を見渡した。
右側の城壁の下から兵士が三人先に駆けてきて、しばらくして同じ方向からさらに二人が合流した。
左側からはダウィの兵士四人が散った状態で速度を上げていた。
彼らの鎧のあちこちに戦闘の跡があった。兜の片側が凹んだ兵士がいた。ハルバードの柄が中程から折れ、半分だけを握ったままの兵士もいた。前腕を覆う篭手 のない兵士は布が巻かれていた。血が布ににじんでいた。
先頭に立ったダウィの兵士が、ドゥラハの前で片膝をついて止まった。
「軍長。ご報告いたします。陽の側方向、城壁の下でオークたちが三か所に集結中です。ミノタウルたちが先陣を切っております。現在交戦中です」
ドゥラハが彼を見下ろした。
「今の状態で持ちこたえられるか」
ダウィの兵士が顔を上げた。
「城壁の上からの援護が続いております。下で食い止めるだけで済みますので、今のところ十分に対応可能です」
ドゥラハは一瞬、城壁の上を見上げた。上から矢が降り注いでいた。
「よかろう。だが押され始めたら上へ上がれ」
後ろで別の兵士が片膝をついて報告した。
「軍長。星の側城壁中央部、堀のほうでオークたちが崩れた防壁の資材を使い、堀を渡る橋を作り直そうとしております。兵士たちが阻止しておりますが、奴らの数が多うございます」
さらに別の兵士が引き継いだ。
「月の側方向、スクレッグどもが城壁を巨大な槌で攻撃しております。現在、城壁の基部二か所に亀裂が生じております」
ドゥラハは目を細めながら城壁全体を見渡した。あちこちから音がしていた。オークたちの怒号、鉄がぶつかり合う音、兵士たちの叫び。城壁の下の空間は、たった一か所たりとも静かではなかった。
この一つの空間だけで、すでに数百の音が入り混じっていた。城壁全体に広げれば、数万のオークとミノタウルがダムの北の城壁全体を叩いていることになる。
ドゥラハが口を開いた。
「月の側は堀に沿ってモスロウのキナたちが進入する。キナが堀を渡ってきたオークとミノタウルを片付けるまで、城壁下の兵士たちを後方に退かせ、空間を確保しておけ」
ドゥラハが右側の城壁の下を指し示した。
「陽の側区域には月の側のハルバード隊を送り、亀裂の生じた区域はコル軍長が対処する。故に、堀側を防ぐことに集中しろ」
「はっ!」
ダウィの兵士たちが立ち上がり、散っていった。足音が泥の上を再び幾つもの方向へ遠ざかっていった。
ドゥラハは再び戦場を見つめた。城壁沿いに動くキナたちの足音が地面を伝って響いていた。
その時、城壁の上から声が聞こえてきた。
「うわあああ! せこいぞ、ベジェデ!!」
城壁の上から響き渡る声だった。荒々しく大きく、遠慮のない声だった。
バアクだった。
彼は胸壁 の上に両手を置き、体を半分ほど乗り出していた。胸壁の下に向かって声を張り上げていた。
彼が着た板金鎧が動きに合わせてガチャリと音を立てた。広い肩が外側へと傾いていた。
「俺も今すぐにでも下りるぞ!! 投げ槍を投げてるだけじゃどうにもならねえんだよ!! あそこでキナどもがあんなにオーク野郎を片付けてるってのに、俺はここで見物してろってのか!!」
マウがバアクの鎧の背中を両手で引っ張った。
「危ないよ兄貴、城壁の外にそんなに身を乗り出さないで」
「放せよ、マウ」
「放したら本当に落ちるって。ここ、高いんだから……」
「落ちる前に俺が先に飛び降りりゃいいだろ!」
マウが手に力を込めた。
「兄貴、落ちても飛び降りても死ぬのは同じだって!」
城壁の下から太く短い笑い声が上がった。
「おおお? バアクか?」
ベジェデの声だった。キナの胴体を捻り、城壁の上を見上げていた。キナの腕が城壁の方へゆっくりと持ち上がり、また下りた。ベジェデがキナの腕を操って、城壁の上に向けて振ってみせているのだった。
「フカカカカカカ!!!」
ベジェデが笑いを弾けさせた。戦場の喧騒の中でもはっきりと聞こえるほど大きかった。
「バヒーカリの若きダウィ殿は、城壁をずいぶんとよくお守りになってるじゃないか!」
バアクの目尻が吊り上がった。
「何匹か梯子を登らせてみろよ!! 一匹二匹とちびちび寄越すんじゃなくて!! ちゃんと送り込んでみろってんだ!! そうすりゃ俺だって何かできるだろうが!!」
「おやおや、怖くてどうしましょうねえ! オークどもはバヒーカリのバアク様が怖くて城壁を登れないみたいですねえ?!」
ベジェデがキナの手で青い光の差す場所を覆いながら、城壁の上を見上げる仕草をした。
「心配するな、バアク! お前の分まで俺が全部殺してやるからよ! お前はそこで見物してりゃいい! クカカカカ!」
バアクの目が血走った。
「あの野郎、マジで……!!」
バアクは傍らに立てかけてあった弓を手に取った。矢も引き抜いた。弦につがえながらキナの方へ狙いを定めた。
「兄貴!! 兄貴、待って、待って!!」
マウがバアクの腕を両手で掴んだ。
「放せ!!」
「キナは矢で撃っても刺さらないって!! それにあの中にはベジェデ様がいるんだよ!!」
「だから撃つんだろうが!!」
「バアク兄貴ぃ!」
マウが弓の柄を下に押さえつけた。バアクが踏ん張った。マウがさらに強く押した。二人が力でせめぎ合う間に弦が滑り、矢が斜めに飛んで地面に突き刺さった。
バアクは今度は下へと視線を落とした。戦場の片隅で大剣を肩に乗せ、指揮を執るドゥラハ軍長の姿が見えた。
「ドゥラハ軍長ぇぇぇぇ!!」
バアクが城壁の上から叫んだ。
「俺、今すぐにでも下りて戦います!! 許可をください!!」
ドゥラハは城壁の上から聞こえてきたその声に、一瞬顔を上げた。副官が傍らに立っていた。
ドゥラハが尋ねた。
「あの城壁の上であんな風に叫んでいるのは何者だ」
副官が上を見上げ、しばし眺めてから答えた。
「ガルドン大軍長 のご子息です。次男にあたられます」
ドゥラハはしばし言葉がなかった。
バアクは足元に置いてあった投げ槍を一本、ひったくるように掴み取った。彼は城壁の外へさらに身を乗り出し、下方に向けて腕を大きく振りかぶった。
「軍長!! よくご覧ください! 俺の手に残った投げ槍は、あと三本です!」
ズドッ!
一本目の投げ槍が空気を切り裂いて飛んでいき、城壁を這い登ろうとしていたオークの胸に突き刺さった。オークは悲鳴も上げられぬまま、後ろに崩れ落ちた。
「一つ!!」
バアクは間も置かずに二本目、三本目の投げ槍を続けざまに抜き放った。まるでバリスタがボルトを撃ち出すかのような、速く正確な動きだった。混乱した乱戦の中でも、バアクが狙いを定めたオーク三体が次々と地面に叩きつけられた。
「二つ! そして三つ!! これで投げ槍は終わりです!」
バアクは荒く息をつきながら、背中の長弓を手に取った。彼は矢筒 から矢を一掴み一度に引き抜くと、城壁の胸壁の上にどさりと放り出した。
「これよりこの矢を全て使い切ります! この矢筒が空になったその瞬間、俺に残るのはこの斧のみです!!」
バアクは自分の背に括 り付けられた重々しい両刃斧 の柄を、ドンドンと叩いた。
「軍長もご存知でしょう! ダウィの斧は、城壁の上で見物するための飾りに作られたものではないということを!! 矢が尽きれば、俺はあの下へ行きます! 俺の斧がオーク野郎どもの頭をかち割り、その値打ちを果たせる場所へ!! そうなればもう誰にも俺は止められません!!」
マウが後ろで泣き顔を浮かべながら、バアクの腰にしがみついてぶら下がった。バアクは意に介さず、胸壁にぶちまけた矢を掴み取った。矢羽を弦につがえ、耳元まで弦を引いては放つ動作が絶え間なく繰り返された。
弓弦が弾ける音がするたびに、城壁の下でオークが一体崩れ落ちた。バアクの目は、すでに次のオークの頭を狙っていた。
ドゥラハは黙ってその光景を見つめていた。バアクが放った矢が弧を描きながら、城壁へと迫るオークたちの隙間を正確に射抜いていた。
ドゥラハが短く言った。
「大軍長は……実によい息子を持たれたな」
副官が首を傾げた。
「軍長?」
「何でもない」
ドゥラハは視線を戻し、大剣を再び肩に乗せた。
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