213話 ダム攻防戦 (18)
ネルムが城壁の上から飛び立った。
一度の羽ばたきで、体が宙へと舞い上がった。彼は空中で止まることなく移動していく。そして北の城壁の上まで至ると、しばし宙に留まったまま、ネルムは翼を掲げた。
具現化 の光だった。霧を押しのけるほどの強い光ではない、ごくささやかな光。
霧の中でもはっきりと見える小さな光の球が、黄色く鮮やかな光となってネルムの翼の先に灯り、ネルムはその光をさらに高く掲げた。
城壁に腰を下ろしていたムワの翼兵 の一人が、その光を見た。
彼も自らの翼を掲げた。光が灯った。同じ光だった。黄色く鮮やかな球。翼の先で丸く集まると、そのまま上へと立ち上った。
次の翼兵がその光の合図を受け継いだ。
そしてまた次の翼兵が。
光の球が城壁沿いに連なっていく。一つ、二つ、三つ、四つ。次々と灯りながら、霧の中の城壁の上を伝っていった。合図は北の城壁の端から端まで届けられた。
マウはその光を目で追った。城壁沿いに連なる灯りが、霧の上に浮かんでいた。
しばし、何の音も聞こえない。
だがその束の間の静けさは、そう長くは続かなかった。
城壁の下、霧のどこかで。耳で追えるほどの、木が石の上を転がる音が聞こえた。
重く鈍い音だった。
その音は城壁のどこか一箇所だけから聞こえるのではなかった。城壁沿いのあちこちで、ドン、ゴロゴロ、ドスン、ゴロゴロ。何かが堀へと向かう斜面を転がり落ちていく音だった。
ザブン。
何かが堀へと落ちる音が聞こえた。
ザブン。ザブン。ザブン。
いくつもの場所で同時に。
マウは胸壁 の外へと身を乗り出した。何も見えなかった。
バアクも胸壁に腕をかけた。堀の上に立ち込める白い霧を睨みつけた。
そのとき、城壁の下の霧が一瞬、明るい光に染まった。
火だった。
城壁の下、白い霧を押しのけながら赤い炎が立ち上った。
霧の中でもはっきりと見える橙色の光だった。
霧の中でも鮮やかに見えた。一点に灯った炎はやがて横へと長く伸び、途切れては繋がりを繰り返すその跡が、城壁の下の堀に沿ってうねっていく。連なった炎はやがて互いに噛み合うように重なり、次第にその長さを伸ばしていった。
堀に沿って火の線が走った。右へ、左へと絶え間なく伸びていき、炎の進む先々で霧を押しのけていった。
下から立ち昇る熱気に霧が巻き上げられるように持ち上がり、押しやられた場所から堀の水面が徐々に姿を現し始めた。
マウは目を見開いた。
すでに火のついた堀の上へ、また別の木樽 が転がり落ちた。
木樽がぶつかって砕け、中の液体が堀の水面へと広がった。炎がその上を覆った。
他の場所でも木樽が落ちていく。落ちた場所ごとに、火が加わっていった。
堀の上に連なる炎が、さらに厚みを増した。
ドゥラハの兵たちが城壁の下で木樽を転がし、堀へと押し出す姿が見えた。
両端が細く、中央にいくほど膨らんで広がる円筒形の樽だった。
中央が膨らんで突き出た樽は、転がしさえすれば自らの重みを乗せ、斜面に沿って下っていく。蓋のかぶせられたその中には油がなみなみと詰められており、ダウィの兵たちが樽を傾ければ、そのまま城壁の下を伝って堀へと転がっていった。
堀へ落ちる衝撃で蓋が外れたり樽が砕けたりして油が溢れ出し、水面に広がった油は沈むことなく浮かび上がり、堀の流れに乗って運ばれていった。
ナウラート川の水を水路を通じて引き込み満たした堀だったため、堀の中の水もまた止まることなく緩やかに流れていた。その流れが油を運んでいく。一つの樽から溢れ出た油が、流れに乗って堀に沿って広がっていった。
次の樽が落ちた。またその次の樽が落ちた。城壁の下のあちこちで、ドゥラハの指示を受けた兵たちが同時に樽を転がした。樽は堀のいたるところに油を注ぎ、その油が流れの上で一つに合わさっていった。
堀に広がった油が、流れに乗って繋がっていった。
炎はその上を伝って広がり、触れる場所ごとに水面を焼いていった。
炎が水面を進むにつれ熱が立ち昇り、霧は焼かれるように押しやられ、堀を包んでいた白い帳 が炎の前で払われていった。
炎は北の城壁に沿って途切れることなく連なり、堀全体を照らし出した。城壁の上から見下ろすその光景は、一つに繋がった火の川だった。
流れる堀の上に火が乗り、共に流れていく。橙色の線が動きながら水面を覆っていった。
炎の光が堀の向こう岸の地面と森の下部を照らし出し、木々の幹が見えてきた。
そして、その間で蠢 くものが見えた。
霧の向こうで揺れる灯りが、その輪郭を浮かび上がらせた。
堀の上を走る炎の光と、森で揺れる松明 の灯りが互いを照らし合い、霧の中に埋もれていたものを浮かび上がらせていく。
オークたちだった。
少ない数ではなかった。森の端から堀の縁まで、闇の中に浮かび上がったものすべてがオークだった。
視界に入る場所ごとにオークがおり、その間に隙間は見えなかった。
光の届く場所でのみその輪郭が浮かび上がっていたが、その先にも同じような朧 げな影の塊が連なっていた。前列の後ろにまた別の列が重なり、その後ろにもさらに続いている。どこまで連なっているのか、見当もつかなかった。
城壁の上から見下ろす堀の向こう岸の地は、そうして連なるオークたちにすべて覆われていた。
そこから音が響いた。足が地を踏む音、鉄がぶつかり合う音、獣の荒い息遣いが束になって鳴り渡った。
森全体がその音を抱えていた。
木々の間から光を覗かせる松明が見えた。霧の中で揺れる小さな炎たち。
一つ、二つ、十、二十。森のあちこちで灯る松明……
そうして次第に灯っていく松明は、森の奥深くまで続いていた。木々の間に見えては隠れながら、遠くまで途切れることがなかった。
森全体がオークで埋め尽くされていた。
オークたちの間に、ミノタウルたちが混じって立っていた。太い角、広い肩。
その光景を見たバアクが口を開いた。
「コル軍長 」
声は沈んでいた。
コルは何も言わなかった。胸壁にもたれたまま、城壁の下を見下ろしていた。その目が堀の向こう岸を見渡した。
「火の川を作って霧を焼き払えば、こうも明るう見えるようになるのう」
コルが言った。
城壁の下、堀の周囲が姿を現しつつあった。
そして堀に身を沈めたまま、腕と頭だけを覗かせた巨大な影が見えた。
スクレッグだった。
堀に沿って、何匹もの姿が見えた。
首には鉄鎖 がかけられ、鎖は堀の縁に打ち込まれた杭に繋がれていた。その鎖は長く伸ばされており、堀の中では一定の範囲まで動くことができた。
皮膚はまだらな緑色をしており、体の所々には吹き出物のような瘤 が浮いていた。首は前へと長く曲がり、腕と指も長く垂れ下がっていた。
スクレッグたちの手には、長さも太さもまちまちな木の束が握られていた。
荒く縛られたものだった。太い丸太と細い枝が入り混じったまま、縄で粗雑に括られている。樹皮はそのまま残っており、結び目もろくに締まっていなかった。
オークとミノタウルたちが森で切り倒し、堀の向こう岸から投げ入れているものだった。丸太の束は次々と堀の中へと落ち、スクレッグたちがそれを受け止め、堀の底へと押し込んでいく。
スクレッグたちは堀に投げ込まれた木々を積み上げていた。
一匹が身をかがめ、堀の底の泥をすくい上げた。両手で握った泥を、木々の間へとねじ込んでいた。
他のスクレッグも同じ動作を繰り返していた。木を押し込み、その上に土を乗せ、また木を重ねていく。
そうして積み上げられた木々が水面の上へと姿を現すと、それは堀を渡れる橋になった。
堀のあちこちに橋が浮かび上がっていた。木々は傾き、ところどころに隙間が空いている。粗末な作りの橋だった。
その上へ、火の川が流れ下ってきた。
油を含んだ炎が堀に沿って走り、積み上げられた木の山へと届いた。水に触れていない乾いた枝が瞬く間に燃え上がった。
炎は木の山を伝って広がっていく。煙が濃く立ち昇った。
スクレッグたちが暴れ始めた。
堀の縁で木の束を押し込んでいたスクレッグが、炎が自分の手の甲へと燃え移るのを見て、木の束を放した。
堀の底を踏みしめたまま体を水中へと沈めたが、息が続かず再び水面へと浮かび上がった。
水が燃えていた。油が堀の水面に広がり、そこに火が伝っていた。
スクレッグは再び体を水中へと沈めた。鎖がぴんと張りつめる。首が締まった。
体を捩りながら再び水面へと躍り出た。火のついた腕で水面を打ちつける。水しぶきが上がったが、火は消えなかった。
スクレッグが悲鳴を上げながら体を振り乱した。火は首と肩へと燃え広がっていく。再び水中へと潜り込もうとしたが、鎖が首を締め上げ、それ以上深くは潜れなかった。
堀に沿って火が広がるにつれ、あちこちで同じような声が響いていく。焼け焦げる音と悲鳴が入り混じって続いた。
スクレッグたちは体をよじり、水の中へ飛び込み、鎖を引っ張りながら暴れ狂った。火のついた腕と体を振り乱しながら、水を蹴り上げる。
堀の水面はその暴れように波立った。火の混じった水が、堀の周囲へと飛び散った。
堀の向こう岸では、オークたちが声を上げていた。
怒号だった。命令なのか怒りなのか判別のつかない、太く荒々しい声の塊が堀を越え、城壁まで届いてきた。
逃げようとするスクレッグへ矢が飛んできた。堀の縁の斜面を手で掻きながら這い上がろうとしていたスクレッグの背に、槍が突き立った。杭が抜け鎖が外れたまま逃げようとしていたスクレッグの脇腹を、森の方から飛んできた槍が貫いた。
オークたちは堀の向こう岸から休みなく木を投げ込んでいた。城壁沿いのあちこちで、木の山や丸太が堀の中へと落ちていく。
燃え盛る橋の上にも、オークたちは木の束を投げ続けた。そして堀の周りの泥を掴んでは投げつけ、木橋についた火を消そうとした。
そして、オークたちが走り出した。
城壁を目指し、堀の水面に姿を現した橋を渡って。
数え切れないオークたちが互いに絡み合い、押し合いながら、堀を渡るために積み上げられた木の橋へと殺到していく。
オークたちは盾を背に担ぎ上げ、頭を低くした。他のオークたちはすぐに盾を前に突き出し、城壁へと向かっていく。
足並みに合わせ、泥で固められた橋が揺れ動いた。そのたびに、オークたちの重みに押し潰されるようにギシ、ギシと音が漏れ出た。
堀に沿って灯った炎が、木橋の縁で燃え上がっていた。
橋が傾くと、先を走っていたオークの一匹が炎の上を踏んで均衡を失い、そのまま堀の中へと落ちていった。後に続くオークは体をひねり、その場所を避けて通り過ぎた。枝が何本か折れ、足元の木の山がさらに傾いたが、オークは止まることなく傾いた橋を踏みしめ、向こう岸の縁へと跳び上がり足をかけた。
また別の木の山を組んだ橋の上を、オークたちが駆けてきた。その橋もまた一方に傾いており、傾いた上で先を走っていたオークが膝をついて滑ると、後に続くオークがその上を踏んで通り過ぎていった。滑ったオークはそのまま堀の中へと落ち、後を継ぐオークたちがその場所を埋めながら走り続けた。一匹が抜ければすぐに後ろから押し寄せたオークがその場所を埋め、森の方からはオークたちが絶え間なく堀へと駆け出してきた。
ミノタウルたちが堀に踏み入った。
オークたちが走る木橋の傍らを、ミノタウルが幾体もまっすぐ堀の中へと歩み入った。巨大な体だった。堀の底には丸太と折れた枝、砕けた木材が乱雑に絡み合っていた。それらが水を埋め、足を踏み入れられるほど浅くなった場所もあった。
堀の水面では油が燃え盛り、炎が体へと燃え移ったが、ミノタウルたちは止まることなく、炎を纏ったまま歩みを緩めもせず、そのまま堀を突き進んだ。
続いてまた別のミノタウルたちが堀へと入っていく。堀のあちこちで巨大な体が水と火をかき分けながら城壁へと進んでいった。炎は水面を伝って流れながら、それらを取り囲むように燃え上がった。
堀を渡り終えたオークたちが、城壁の下の斜面へと取りついた。一部は梯子を持ち上げ、城壁に立てかけようとしており、他のオークたちは鉤 のついた縄を握ったまま、肩の脇で円を描くように何度も振り回して勢いをつけていた。
城壁の上のダウィの兵たちが、胸壁に沿って隙間なく並んだ。
コルが口を開いた。
「投げよ」
静かでありながら、力の込もった声だった。
バアクはすでに短い投げ槍を手にしていた。
彼は胸壁の上から身を乗り出し、下を見た。炎の光が堀とその向こうの地を照らす間にも、城壁の下の斜面にはオークたちが取りついており、堀を渡って押し寄せたオークたちが絶え間なくその場所を埋めていった。
バアクが腕を後ろへと引いた。
槍が飛んだ。
マウも槍を投げた。腕が震え、狙いが定まっているのかは分からなかったが、そのまま下、灯りのある場所へ向けて力の限り投げつけた。
城壁の上のダウィの兵たちが一斉に体を前へと傾け、槍と矢を浴びせかけた。槍は先に放たれた矢の後を追うように、下へと突き刺さっていく。
コルは胸壁にもたれたまま、城壁の下を見下ろした。
火の川が流れていた。堀の向こう、森の端から端まで、まだ数多くのオークが残っていた。
堀の上、橋を渡って駆けるオークたちがいた。堀の中を歩いて渡るミノタウルたちがいた。
コルが言った。
「奴らがわれらの地、ダムとサアルンの森に足を踏み入れた以上……」
彼は城壁の上の兵たちを振り返りながら、言葉を継いだ。
「生きて帰ることはできぬ」
貴重なお時間をこの物語と共に過ごしていただき、心より感謝いたします




